>>463
その「英雄たちの選択」に間違ったところがある。
・中央集権国家を早急に築くべく、版籍奉還を政府首脳の中で最初に主唱したのは木戸。
・木戸は大久保に相談したが、大久保は反対。
・それで木戸は策を練り、「一旦、封土を朝廷に返上し、再交付の許可・不許可は
朝廷に従う」ことにして、ようやく大久保の応諾を得た。
・返上後の措置についても、木戸は朝廷からの再交付は不要と主張、他方、大久保は再交付必要と意見が対立。
結果としては再交付はされなく、その後の廃藩置県へ 繋がるわけだが、藩主にとっては、だまし討ちに
あったようなもの(多くの藩主は再交付されると思って版籍を奉還したので)。
・明治4年7月9日廃藩置県の密議が木戸邸で行われた。西郷、大久保は廃藩の発令は知藩事の上京を
待って行うと主張。木戸はこれに反対し知藩事の上京を待つまでもなく、速やかに行うことを主張。
木戸の意見が通り、不服のため上京しない藩には「断然の所致」をとることが確認された。
・7月14日、廃藩置県断行のセレモニーが挙行され、三条が在京の知藩事56人の前で詔書を読み上げ、
東京にいない知藩事にたいしては、9月中の上京が命じられる。
(以上のソースは歴史家が書いたあまたの本。しいてあげれば、番組に出演したいた勝田政治
(大久保研究家)の「廃藩置県〜近代国家誕生の舞台裏」)
・同時代に生きた大隈は木戸は自動的な人、大久保は他動的な人と評しているが、大久保は保守的な
薩摩(=久光)の事情もあって、版籍・廃藩など国家制度の大改革作業には動きづらかった面もあったと思う。
他方木戸は、明確な理想を持っているが、ずる賢くて怜悧な印象。
このあたり、跳ぶが如くで、司馬さんは「大久保は廃藩置県は木戸以下、長州派がそれを主唱し奔走するにまかせていた。
もし大久保がこれを言い出せば、久光の側近のものが、ただちに大久保を斬って捨てたであろう。」と、書いておられる。