明治維新から日清、日露戦争の手柄はほとんどを、東郷、乃木、児玉、桂、山県、山本権兵衛、伊藤博文などの薩長と西日本の人たちに持って行かれたので、
「昭和維新は自分たち賊軍の子孫が行う」という気概が東北と北陸の人々にはあったようです。
陸軍の板垣征四郎と海軍の米内光政は政治的意見は180度違いますが、同じ盛岡中学(今の盛岡一高)の卒業生であり、よく一緒に酒を飲んだりして付き合っていたそうです。
山本五十六も母校の長岡中学(今の長岡高校)をよく訪れて、講演会をしたそうです。
その際に、「戊辰戦争の賊軍の子孫ということをプラスにしなさい」という話をしていたとか。

東條英機の父の東條英教陸軍少将は非常に頭脳明晰だったけれども、元盛岡南部藩の子孫ということで長州閥が強かった明治の陸軍であまり出世ができず、
「父の無念を俺が晴らしてやる」という気持ちが東條英機にはかなりあったということが、仙台の地元新聞の河北新報には書いてありました。
石原莞爾も庄内藩の出身なので同じような気持ちがあってので、同じ東北出身の板垣征四郎と共謀して満州事変を起こしたとか河北新報には書いてありました。

それ以外の東北と北陸出身の第二次大戦関係者というと、南雲海軍大将(米沢)、及川古志郎海軍大将(盛岡)、斎藤実海軍大将(水沢)井上成美海軍大将(仙台)などがいる。

河北新報が満州事変から太平洋戦争を特集した時に、「満州事変から太平洋戦争敗戦までの15年戦争は、幕末から日露戦争までの手柄を西日本人に取られた東北人たちが、賊軍の汚名を晴らそうとして起こした戦争であった」というふうに書いてました。