【第三十五回】太平記 part.35『大逆転』
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
>>842
征夷大将軍や鎮守府将軍のような地方に展開する将軍号なら幕府を開くことは可能だが
天皇・宮城の警固が本来の職務である近衛府の大将に地方で幕府を開くことが可能かな?
もっとも幕府の実態自体は右大将就任より遥か以前にできているわけだけどさ
>>843
そこは平氏政権も大納言家政所下文とかで西国武士と関係を築いていたけどね まあ当時の御家人にとっては、同じ下文でも頼朝の袖判下文のほうがよかったのだよね
頼朝はそれを無理やり政所下文に統一しようとしたが・・・
ただ後に尊氏・義詮期の室町幕府が結局また将軍の袖判下文に戻しているのはアレだがw 文書様式のことでいうと不思議なのは直義の発給文書だな
直義って鎌倉幕府の執権の地位を受け継いでいるといいながら
直義が出した下知状・御教書には鎌倉幕府の下知状・御教書と違って
「依鎌倉殿仰」のような奉書文言がなく直義が独断で出したような印象を与える
直義って個人的には兄貴大好きだったようだけど
だったらちゃんと将軍である兄を敬って形式的ではあっても奉書文言くらい書けよw お兄ちゃん大好き、弟大好きの二人と思いきや
(従兄弟の)上杉なんか見捨てろ、お前(直義)が取り立てるまでなんの取り柄もなかった奴だぞ
この非情さの落差すこ 義満は何で下文・下知状をまとめて御判御教書に統一したんだろう? なんかまた下文とか奉書とかキショい話をしてんな
ハッキリ言って普通の大河ヲタ歴史ヲタは古文書がどうのとか正直そんなの興味ないんだがw 都から遠い田舎、東国でありがたがられる将軍職が征夷大将軍。
鎮守府将軍の少しマシ程度。 征夷大将軍→対象地域は東北
征東大将軍→対象地域は関東
こんな感じだっけ? 相変わらず即位とか荘園とか平家とか頼朝とか義満とかドラマと関係ないキショい話をしてんな
ハッキリ言って普通の大河ヲタ歴史ヲタは古文書とか荘園とか頼朝がどうのとか正直そんなの興味ないんだがw
太平記とか全然関係ないんだがw 新田荘
本家職:金剛心院
領家職:花山院忠雅
下司職:新田義重
金剛心院は鳥羽院の御願寺だから後々は八条院領に組み込まれたのかな? >>852
義満は最後に登場した。
名前だけだか。
判官は義詮から義満にクラ替えジョーク言ったけど
史実でもそうなった。 >>852
こいつ大河太平記見てないのになんでここにいるの? そういえば南朝は宗良親王と懐良親王をそれぞれ征東大将軍・征西大将軍にしていたけど
どうせなら征夷大将軍・征戎大将軍でよかったのでは? 都から後醍醐天皇の書状が幕府に来て寄合でその対応を話し合っている場面で
書記係の人が円喜がしゃべっている時はただ書いているだけなのに
守時が「莫大なる金品を〜」と不正告発しているところで筆止めて守時のほうを見ている演技がいいわ そもそもああいう議論は本来なら得宗の寄合じゃなくて評定でやるべきだよな >>852に図星を突かれて余裕なく発狂してる奴ら
なにも反論できてない >>848
歯向かう奴等がいなくなったから。義満の権勢を如実に表してるよね。富士山へのデモンストレーションとかさ。 >>858
藤原忠文なら東西将軍コンプリートだね。 >>867
ただ実際のところ藤原忠文は大将軍としては何もしてなくね? そういえば征北大将軍というのはなかったのかね?
後醍醐帝の皇子でいえば尊良あたりを任命してもよかったのにね
古代には征狄大将軍は実例あるんだっけか? >>868
何にもしない大将軍は枚挙に暇無いかと。 弟を手にかけた大将軍は、頼朝、尊氏、義持、義教、家光くらいか? 太平記マニアあるある言うよ〜♪
デジタル時計の13時台の表示に反応しがち〜♪ 頼朝は奥州もたいらげたんだから鎮守府将軍より上の地位をくださいよね。って感覚だよ 東北の方に大軍率いて駐留してた北畠顕家は実質征北大将軍だったんじゃないの?
あれは蝦夷の反乱防止のためでしょ? >>878
陸奥国は“東”山道所属だから、朝廷から見た方角意識は北ではなく東。
だから、「蝦夷」という言葉にも東夷の「夷」の字が使われている。
逆に「征北大将軍」と言った場合は、“北”陸道方面へ派遣される将軍のイメージになる。
ちなみに古代の朝廷は、越後国北部(後の出羽国庄内地方を含む)のエミシには、
わざと蝦夷ではなく「蝦狄」(北狄の「狄」)の字を当てたりもしているよ。 征南将軍(征蛮大将軍?)は日本史上はいないのだっけ? >>879
こういう頭良さげなレスを繋げてくれよ
荘園や三河屋、それと荘園アレルギーの人は話がつまらない上に性格の悪さがレスから滲み出てる 北畠顕家軍が南下→足利が九州に逃げる→九州で態勢立て直して東上→湊川決戦
この辺の展開は思いっきりはしょってたな。
九州は蒙古襲来以来の関東武士団が駐留してたから態勢立て直しできたはずなんだが。 >>881
>>879
自演乙
蝦夷なんてスレ違は日本史版へ逝け
荘園・三河屋・蝦夷はスレ違の上に性格の悪さが滲み出ている >>883
やっぱ多々良が浜やってほしかったな。
尊氏絶体絶命はこの戦くらいなもんだろう。 直義の見せ場でもあるのにな
竹ノ下の佐々木判官はワンカットだけどとても良かった 数では圧倒的不利だったが相手の裏切りが続出したとかw
九州に足利の縁者でもいたのか、飛び領地でもあったのか?多々良浜の時はまだ光厳院の院宣は下ってないはずだが。 数は盛々に盛るのが太平記だけど
多々良ヶ浜の兵力差はガチ
マジどうやって逆転したんかね >>890
実際はガチ親政派の菊池以外は足利に心を寄せてたんじゃないのかな? >>879
蝦夷管領は北条義時の蝦夷大乱を起こした
安藤氏からだから面白いよな 武士にとっては勝ち馬に乗るのが最優先課題だから
途中から足利方の旗色が良かったんだろう
で裏切りが起き俺も俺もじゃあ俺もってなったんじゃないかと予想w 当時の九州の最大勢力は少弐氏かな?
やっぱり少弐氏が味方したのが大きいだろ
後の直冬も少弐の婿になったのが大きいだろうし 直冬があっさり中国地方に飛んだのもよくわからん
九州で地盤固め尊氏が死んだら乗り込めばよかったものを
直義暗殺で切れたのかね >>898
追加で尊氏が名代に置いてった探題の一色も入れて四家で争ったから
この辺を大河にすりゃ良かったのに 奥州の束ねは結城と南部とあとは誰だっけ?いつも忘れるわ。伊達か安東だったかな。 菊地一族はきっと面白い
倒幕の御三家裏切りから、楠木の進言
箱根の千本槍、多々良浜の合戦、湊川の合戦
まででまだ半分も行ってないという >>881
ですね。
俳優がとか荘園がとかレベル低くて困ってしまう。
蝦夷の平安や鎌倉時代を検証することが
中世史の重要なポイント 東北の蝦夷、北九州の蒙古、この二つの周縁に対する不安、恐怖心が
北条末期から南北朝時代の人々の世界観の基底にあった、とするのは網野善彦の説だったっけ? 赤松は楠木より強いのに冷遇とか致命的な失策だ
ちゃんと2か国くらいくれてやれば護良親王の運命も変わっていただろう >>910
三位局「せやな」
千種中将「せやせや」
名和伯耆「そらそうよ」 >>903
少弐もそうかな?
いっ時は大内相手にヒケをとらなかったのに。 >>913
少弐は南朝に心酔したというより、室町幕府が派遣してくる歴代の九州探題と上手く
いかなかったようなイメージ。 >>916
元寇の時最前線に立ったというプライドがパワーの源の武辺者大名。
博多商人や探題と上手につきあった大内は要領いいな。
義弘や盛見はやられたが。 >>916
鎌倉時代の鎮西奉行や鎮西談義所はいずれも少弐が中心メンバーだったのに、その役割を
探題に奪われたという意識もあるんじゃないかな?
鎌倉末期の鎮西探題ともあまり上手くは行っていなかったようだし。
>>917
義持期以降の大内氏は、不安定な九州探題を補完するような位置付けとして、幕府から
見られるようになった感じだね。 >>910
>ちゃんと2か国くらいくれてやれば
しかし建武政権の国司・守護併置制というのもよく分からないよなぁ・・・ 源姓足利氏が足利荘に対して持っていた職は何?
本家職?
領家職?
預所職?
下司職?
地頭職?
名主職? >>921
自分で質問して自分で答えるのは様式美じゃねーから 資料が少ないから未だ謎だ。
確かなことは、藤姓足利氏が源義家に足利荘を寄進したってことだけだ。 >>924
開発領主から寄進を受けたなら領家なのでは? 何回も言っているやろ
義国は院側の代理人、預所だったが妥当な見解
本家が院、領家がお寺さん、下司が藤姓足利氏だ 北条時行は一時、嫁のと〜ちゃん、熱田大宮司に匿われていたそうだが
熱田大宮司の屋敷の場所を調べたら、桶狭間の南側にあったそうだ
東に5キロ行けば三河国なんだが、よくこんな所に逃げてきたな
藤姓熱田大宮司は、出自の三河に近い所に屋敷を構えていたわけだな それでまとめてみた
直冬は新城にいたそうだから、それも加えた
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・足利直冬:宇利城
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
【尾張パゴヤ共和国(笑)知多市】
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
【尾張パゴヤ共和国(笑)緑区】
・熱田大宮司
【静岡県浜松市】
・今川氏(足利一族):将軍御一家、九州探題、守護職(駿河) >>924
そもそも藤姓足利氏が
源義家に足利荘を寄進した事はない ボキとした事が間違えた
足利直冬の城は宇利城ではなく比丘尼城だった
比丘尼城
http://www.city.shinshiro.lg.jp/sp/index.cfm/8,21994,149,722,html
ついでに豆知識
宇利城を築いたのは熊谷直重と言う奴で、直重の娘は新田義貞の妾になったらしい 訂正
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・足利直冬:比丘尼城
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
【尾張パゴヤ共和国(笑)知多市】
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
【尾張パゴヤ共和国(笑)緑区】
・千秋氏(三河の藤姓熱田大宮司家)
【静岡県浜松市】
・今川氏(足利一族):将軍御一家、九州探題、守護職(駿河) 家康公は生まれ故郷をスルーして尾張名古屋に天下無双の城を建てたよなぁ >>940
彼にとって岡崎は単に出生地というだけで、それ以上の思い入れは特になさそう。
むしろ幼少期を10年以上過ごした駿府に対してのほうが、遥かに強い思い入れが
あるように見える。 >>936
最初は分かれていたけど
足利荘に食い込まれた。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。