【第三十五回】太平記 part.35『大逆転』
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>>852
義満は最後に登場した。
名前だけだか。
判官は義詮から義満にクラ替えジョーク言ったけど
史実でもそうなった。 >>852
こいつ大河太平記見てないのになんでここにいるの? そういえば南朝は宗良親王と懐良親王をそれぞれ征東大将軍・征西大将軍にしていたけど
どうせなら征夷大将軍・征戎大将軍でよかったのでは? 都から後醍醐天皇の書状が幕府に来て寄合でその対応を話し合っている場面で
書記係の人が円喜がしゃべっている時はただ書いているだけなのに
守時が「莫大なる金品を〜」と不正告発しているところで筆止めて守時のほうを見ている演技がいいわ そもそもああいう議論は本来なら得宗の寄合じゃなくて評定でやるべきだよな >>852に図星を突かれて余裕なく発狂してる奴ら
なにも反論できてない >>848
歯向かう奴等がいなくなったから。義満の権勢を如実に表してるよね。富士山へのデモンストレーションとかさ。 >>858
藤原忠文なら東西将軍コンプリートだね。 >>867
ただ実際のところ藤原忠文は大将軍としては何もしてなくね? そういえば征北大将軍というのはなかったのかね?
後醍醐帝の皇子でいえば尊良あたりを任命してもよかったのにね
古代には征狄大将軍は実例あるんだっけか? >>868
何にもしない大将軍は枚挙に暇無いかと。 弟を手にかけた大将軍は、頼朝、尊氏、義持、義教、家光くらいか? 太平記マニアあるある言うよ〜♪
デジタル時計の13時台の表示に反応しがち〜♪ 頼朝は奥州もたいらげたんだから鎮守府将軍より上の地位をくださいよね。って感覚だよ 東北の方に大軍率いて駐留してた北畠顕家は実質征北大将軍だったんじゃないの?
あれは蝦夷の反乱防止のためでしょ? >>878
陸奥国は“東”山道所属だから、朝廷から見た方角意識は北ではなく東。
だから、「蝦夷」という言葉にも東夷の「夷」の字が使われている。
逆に「征北大将軍」と言った場合は、“北”陸道方面へ派遣される将軍のイメージになる。
ちなみに古代の朝廷は、越後国北部(後の出羽国庄内地方を含む)のエミシには、
わざと蝦夷ではなく「蝦狄」(北狄の「狄」)の字を当てたりもしているよ。 征南将軍(征蛮大将軍?)は日本史上はいないのだっけ? >>879
こういう頭良さげなレスを繋げてくれよ
荘園や三河屋、それと荘園アレルギーの人は話がつまらない上に性格の悪さがレスから滲み出てる 北畠顕家軍が南下→足利が九州に逃げる→九州で態勢立て直して東上→湊川決戦
この辺の展開は思いっきりはしょってたな。
九州は蒙古襲来以来の関東武士団が駐留してたから態勢立て直しできたはずなんだが。 >>881
>>879
自演乙
蝦夷なんてスレ違は日本史版へ逝け
荘園・三河屋・蝦夷はスレ違の上に性格の悪さが滲み出ている >>883
やっぱ多々良が浜やってほしかったな。
尊氏絶体絶命はこの戦くらいなもんだろう。 直義の見せ場でもあるのにな
竹ノ下の佐々木判官はワンカットだけどとても良かった 数では圧倒的不利だったが相手の裏切りが続出したとかw
九州に足利の縁者でもいたのか、飛び領地でもあったのか?多々良浜の時はまだ光厳院の院宣は下ってないはずだが。 数は盛々に盛るのが太平記だけど
多々良ヶ浜の兵力差はガチ
マジどうやって逆転したんかね >>890
実際はガチ親政派の菊池以外は足利に心を寄せてたんじゃないのかな? >>879
蝦夷管領は北条義時の蝦夷大乱を起こした
安藤氏からだから面白いよな 武士にとっては勝ち馬に乗るのが最優先課題だから
途中から足利方の旗色が良かったんだろう
で裏切りが起き俺も俺もじゃあ俺もってなったんじゃないかと予想w 当時の九州の最大勢力は少弐氏かな?
やっぱり少弐氏が味方したのが大きいだろ
後の直冬も少弐の婿になったのが大きいだろうし 直冬があっさり中国地方に飛んだのもよくわからん
九州で地盤固め尊氏が死んだら乗り込めばよかったものを
直義暗殺で切れたのかね >>898
追加で尊氏が名代に置いてった探題の一色も入れて四家で争ったから
この辺を大河にすりゃ良かったのに 奥州の束ねは結城と南部とあとは誰だっけ?いつも忘れるわ。伊達か安東だったかな。 菊地一族はきっと面白い
倒幕の御三家裏切りから、楠木の進言
箱根の千本槍、多々良浜の合戦、湊川の合戦
まででまだ半分も行ってないという >>881
ですね。
俳優がとか荘園がとかレベル低くて困ってしまう。
蝦夷の平安や鎌倉時代を検証することが
中世史の重要なポイント 東北の蝦夷、北九州の蒙古、この二つの周縁に対する不安、恐怖心が
北条末期から南北朝時代の人々の世界観の基底にあった、とするのは網野善彦の説だったっけ? 赤松は楠木より強いのに冷遇とか致命的な失策だ
ちゃんと2か国くらいくれてやれば護良親王の運命も変わっていただろう >>910
三位局「せやな」
千種中将「せやせや」
名和伯耆「そらそうよ」 >>903
少弐もそうかな?
いっ時は大内相手にヒケをとらなかったのに。 >>913
少弐は南朝に心酔したというより、室町幕府が派遣してくる歴代の九州探題と上手く
いかなかったようなイメージ。 >>916
元寇の時最前線に立ったというプライドがパワーの源の武辺者大名。
博多商人や探題と上手につきあった大内は要領いいな。
義弘や盛見はやられたが。 >>916
鎌倉時代の鎮西奉行や鎮西談義所はいずれも少弐が中心メンバーだったのに、その役割を
探題に奪われたという意識もあるんじゃないかな?
鎌倉末期の鎮西探題ともあまり上手くは行っていなかったようだし。
>>917
義持期以降の大内氏は、不安定な九州探題を補完するような位置付けとして、幕府から
見られるようになった感じだね。 >>910
>ちゃんと2か国くらいくれてやれば
しかし建武政権の国司・守護併置制というのもよく分からないよなぁ・・・ 源姓足利氏が足利荘に対して持っていた職は何?
本家職?
領家職?
預所職?
下司職?
地頭職?
名主職? >>921
自分で質問して自分で答えるのは様式美じゃねーから 資料が少ないから未だ謎だ。
確かなことは、藤姓足利氏が源義家に足利荘を寄進したってことだけだ。 >>924
開発領主から寄進を受けたなら領家なのでは? 何回も言っているやろ
義国は院側の代理人、預所だったが妥当な見解
本家が院、領家がお寺さん、下司が藤姓足利氏だ 北条時行は一時、嫁のと〜ちゃん、熱田大宮司に匿われていたそうだが
熱田大宮司の屋敷の場所を調べたら、桶狭間の南側にあったそうだ
東に5キロ行けば三河国なんだが、よくこんな所に逃げてきたな
藤姓熱田大宮司は、出自の三河に近い所に屋敷を構えていたわけだな それでまとめてみた
直冬は新城にいたそうだから、それも加えた
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・足利直冬:宇利城
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
【尾張パゴヤ共和国(笑)知多市】
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
【尾張パゴヤ共和国(笑)緑区】
・熱田大宮司
【静岡県浜松市】
・今川氏(足利一族):将軍御一家、九州探題、守護職(駿河) >>924
そもそも藤姓足利氏が
源義家に足利荘を寄進した事はない ボキとした事が間違えた
足利直冬の城は宇利城ではなく比丘尼城だった
比丘尼城
http://www.city.shinshiro.lg.jp/sp/index.cfm/8,21994,149,722,html
ついでに豆知識
宇利城を築いたのは熊谷直重と言う奴で、直重の娘は新田義貞の妾になったらしい 訂正
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・足利直冬:比丘尼城
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
【尾張パゴヤ共和国(笑)知多市】
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
【尾張パゴヤ共和国(笑)緑区】
・千秋氏(三河の藤姓熱田大宮司家)
【静岡県浜松市】
・今川氏(足利一族):将軍御一家、九州探題、守護職(駿河) 家康公は生まれ故郷をスルーして尾張名古屋に天下無双の城を建てたよなぁ >>940
彼にとって岡崎は単に出生地というだけで、それ以上の思い入れは特になさそう。
むしろ幼少期を10年以上過ごした駿府に対してのほうが、遥かに強い思い入れが
あるように見える。 >>936
最初は分かれていたけど
足利荘に食い込まれた。 >>942
御厨っていうと伊勢神宮領の荘園なのだろうと思うが
足利荘に吸収されることに伊勢神宮は何も言わなかったの? 中分ってやつだろ
名義はやるから上がりを半分よこせと
武士らしい解決法
北方領土だって名を取るか実を取るか考えて交渉するべきだったのに
下手に出すぎ >>944
簡単に言うと梁田御厨(現在の足利市)は源姓足利氏
足利荘(現在の足利市)は藤姓足利氏
源姓足利氏が藤姓足利氏を滅ぼし
領地を拡大して合体
合体した足利荘で揉めたのは
室町幕府足利氏と鎌倉公方足利氏との戦 >>940
重要なのは、この2点だ
名古屋は鎌倉期から三河の植民地
家康は、領主だった足助氏、今川氏の血を引く
つまり、足助氏、今川氏の子孫として完全に名古屋を植民地化したわけだな
■那古野荘(名古屋)
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)
藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)
■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る
■鎌倉時代初期〜中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する
■鎌倉時代末期〜南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助、三河県豊田市)が領家職となる
■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)が那古野城築城
■江戸時代
・徳川家康(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)が那古野の呼び名を名古屋に固定、名古屋城築城
■現代
・豊田佐吉(三河吉田藩山口村)がトヨタグループを発祥させる あまり知られていないが、家康がパゴヤ城を築城した当時、既に岡崎城の城郭はパゴヤ城の4.5倍で、東海地方の最大の城であり全国でも4番目の城
無知を晒してしまったよな >>941
田舎者の思い込みか?
当事者たる人間にはピンとくる
それほど家康は、三河の源頼朝に思い入れがあるのかと
現元暦元年(1184)六月小廿日丁丑。先日の五日に、朝廷で小規模な人事異動が行われました。
その辞令が今日届きました。頼朝様が推薦した人たちに違いはありませんでした。
それらは権大納言に頼盛、侍従にその子光盛、河内守にその子保業(頼盛孫)、讃岐守に一条能保、三河守に源範頼、駿河守に同じ源氏の太田廣綱、武蔵守に同じ源氏の大内義信でした
元暦元年(1184)六月小廿一日戊寅。頼朝様は、範頼・大内義信・太田廣綱達を呼び集めて、乾杯の式をしました。
それぞれ皆大喜びでしたようです。
特に源九郎義經は官職を与える推薦を希望していましたが、頼朝様はわざわざとそれを許しませんでした。
兄弟の順番に蒲冠者様を推薦したので、特にその恩義を喜ばれているとのでした
三河守 生誕地
武蔵守 幕府開府
駿河守 終焉の地
また恥をかいてしまったな >>949
三河屋唯一の自慢www
所詮、三河の山賊
藤原を名乗ったり源氏を名乗ったり
松平の如何様坊主が新田症や得川と関係あるとか
必死すぎて笑える
典型的な戦国三河のバッタ者 観応の擾乱ブームに乗って調べてみて思った私見
よく尊氏が気まぐれな躁鬱病、直義が生真面目な苦労人扱いされてるけど
実際は逆なんじゃねーのか?と思った
よく尊氏が精神病扱いされてる原因は
@鎌倉での新田軍との戦いでギリギリまで出家がどうとか主張して引きこもった事
A打出浜の戦い後ボロ負けしたのにまるで勝者のように振る舞った事
だけど
これ両方とも直義が異常行動してその尻ぬぐいに追われた時の話なんだよな
@の時すなわち中先代の乱の時に尊氏が北条残党軍討伐後に京に帰れなくなった理由は
そもそも直義が乱のどさくさに紛れて大塔宮を殺害したから
当時大塔宮は失脚中で事実上の囚人とは言え、現職の天皇にして最高権力者の
後醍醐の実の息子の親王を勝手に殺してしまって良いはずが無い
あの暗殺大好きの北条家さえ摂家将軍や親王将軍の身柄には出していないのに
尊氏が一時出家まで至ったのは直義の勝手な行動に対する抗議、牽制の意味もあったろうし
そもそも建武政権と戦うか、直義を大塔宮殺しの実行犯として引き渡すか
迷っていたという側面もあると思うんだよな
そもそも義経なんか三種の神器の回収失敗が原因で頼朝から冷遇されたわけで
勝手な親王殺しなんか弟がやったら頼朝でも信長でも秀吉でも家康でも即粛清でしょ
尊氏だから対応が甘かっただけで
でも最終的に勝ったからって事でこの時直義の責任をうやむやにしたのがマズかったと思うんだよな レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。