>>972
確かにそうかもしれないな。
ドラマ内でも尊氏は後醍醐を虜にしながらも逃げられた時にも直義ほど狼狽しなかったし、塩谷を通じて廉子と和議の道を探ってたりと、柔軟な外交だし、その
モットーとするところは、若き高氏も掲げていたが、公正な政治だろう。
直義のやり方はよくも悪くも得宗専制方式で、北条から足利一門への看板の掛け替えで、その辺の方向性の違いも袂を別った原因の一つだろう。
その結果が勝った尊氏の味方武士への大盤振る舞い〜大所帯の守護大名の誕生につながってしまったワケだ。
足利の時代は鎌倉や江戸に比べるとヘタレな印象があるけど、ある意味やむを得なかったと思う。