思えば長い道のりであった。
幼少のみぎりは今川の人質として十余年。三河に戻ってからはお家再興のために地べたを這うような辛酸を舐めてきた。信長公の命により正室を殺し、嫡男信康を自害させてしまった。わしはこの悲しみを黄泉の国まで引きずって行かねばならん。
出来得れば・・・書に親しみ、花鳥風月を愛でながら穏やかな生涯を送りたかった。だが、わしは武士の子として生まれた。武士の子ならば一国一城の主を目指す。一国一城の主ならば天下を夢見る。
天下をとるのは至難の業じゃ。わしは人を脅し、人を欺き、裏切り、貶めてきた。血生臭い戦場を駆け巡り、時にはカラスを鷺と言いくるめ、時には謀略をもって人を葬ってきた。非常にあらずんば天下はとれぬ
されど、天下を守り抜くことはもっと難しい!そこら中の大名が、虎視眈々と牙を磨いておる。将軍の座は常に崖っぷちじゃ。
火事を防ぐには、火の用心こそ肝要と言わめ。全身の毛穴を開いて、危険を察知せねばならん。
当面の火種は豊臣家の処遇じゃ。
淀殿はそちの将軍就任に異を唱え、祝典への列席を蹴った。わしへの憎しみはそちへの憎しみとなり、わしへの恨みはそちへの恨みとなろう。将軍宣下はめでたくもあり、めでたくもなし。
よいか。これだけは構えて忘れるな。
人の上に立つ者は、心に一匹の鬼を飼わねばならん。
成り行きによっては、妻や子も捨てねばならん。頼むべきは身内にあらず!忠義の家臣と心得よ。
秀康を差し置いてそちを世継ぎと決めたるは、三河の譜代に馴染みが深いからじゃ。この儀、ゆめゆめ忘るるべからず。
思えば不憫よのぉ。そちは何も手を汚すことなく、しかもその若さで将軍となった。回りの者はちやほやするが、まだまだ修行が足りぬ。わしから見ればひよっ子同然じゃ。
家康の子に生まれずば、かかる苦労も無かりしものを。


秀忠:滅相もないことにござります。秀忠は父上の子なるを無情の誉に存じております。