>>70 下から2行目は「誰かの指導を受けたりはしなかったんですかね」です。

>>23 1ページ目

>ずっと指摘していますが、本作は『半分、青い。』の謎解きヒントとしても秀逸です。
>あの作品において、北川悦吏子先生は、自分のルーツを見つめなおして入れ込んで来た。

>岐阜のこと。 左耳のこと。彼女自身の内側にありながら、ドラマでは描いてこなかったこと。それを、世界に投影した。
>彼女だけの意思?それともそうではない?
>だからこそ、あの物語には消えぬ印象的な魅力が宿ったのだと思います。

>「ふくろう商店街」のモデルとなった恵那市を訪ねて、私はそのことを感じました。ドラマと同じ空気が、そこにはあったから。
>鈴愛が、聴覚での距離感をうまくはかれずに、迷子になったように戸惑う場面も、見ていて心に響きました。
>そういう、生きてきた誰かの声を反映させること。それでこそ、物語が活きてくるはず。

>しかし、信徒のやらかしたことは残酷でした。
>お前の言うことなんか聞きたくない、自慢しやがって。左耳が聞こえないだと? うるさい、嘘つき、黙れ! そうやって朝から晩
まで喚く。

>信徒よ、むしろこちらから聞きたい。
>口塞ぎが趣味ですか?あなたの発言とは、全部マウンティング材料ですか?
>確かに、その心理状態には、興味がそそられるところではある。

>一方で、主人公のルーツを無茶苦茶にした朝ドラがありましたっけ。そのせいで、墓穴を掘った。
>そうは言うけれども、本作だってモデルの経歴を切り刻んで組み合わせているって?
>そういうところは確かにある。そこに、誰かが別人の感情、人生、涙、血を注ぎ足している。

>なつが千遥に届けたいと願うように、届けたい誰かに向けて、発信している創造者がいる。
>妥協なく、わかりやすい一本道ルートの活躍でもなく――生きるうえでの心の動きや悲しみを描きたい人がいる。
>イッキュウさんの語る本作の意義には、そんな声が背後にある。

>『半分、青い。』以来、NHK東京の朝ドラには苦しみや悲しみも満ちていた。
>空気を読めないこと。突拍子もないことをしてしまうこと。ルールを外れてしまうこと。
>「あいつキモいよね」と悪口を言う。そんな人たちの存在を感じてしまうこと。
>想像を通して、それをキャンバスにして、アイデアで、自分自身を描いて、それを受け取る人に届けようとしている。
>そんな信念を感じるのです。

>あと一ヶ月以内で終わると思うと、悲しいけれど、ほっとする。くたくたになるんだ。
>こんな強いボールを投げられる、こっちのことも考えてくれ。
>でも来年、彼らがマウンドに登ったら?私も受けて立ちたいと思っている。

>北村紗衣氏の『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』以来、ドラマの作り手は犯罪者で、レビュアーは探偵や刑事という理論が引っ
かかっているんですが。

>最終回、どうなるかわかってきた。ドラマではなくて、私のこと。
>ライヘンバッハの滝から落ちるんでしょうね。
>いや、自分をホームズにたとえるなってことではあるけど。まあ、それも楽しみだ。
>しばらく受け身をとって、滝の下に潜もう。

続きます