政治体制にせよ会社組織にせよ、組織を永続化させるためには、創業者は優秀な後継者を育て、
しかもボンクラが現れようとビクともしない、すなわち、偶然の人的要素に依存する事なしに
組織が動く官僚制を構築する必要がある(人材確保と制度化)。

自身不得意であった和歌や舞を、清盛は息子たちに熱心にしつけてきたが、それは
清盛が築こうとした「武家政権」の形は、あくまでも朝廷簒奪の形をとったからだ。
これが清盛が描いた「武士の世」の基本戦略である以上、王朝文化の担い手=政治支配者の資格
(考証高橋が強調するシェーマ)として認められるために、清盛平家が必死になったのも肯ける。
歴史的与件と制約のもとで、清盛は後継者育成にも熱心だったといえる。
しかし、貴族的素養をも重視して育てられた息子たちは、大動乱を勝ち抜く力量を
身につけることが出来なかった。素質がなかったというより、清濁併せ呑む清盛と並ぶ人材は
2度と生まれようがなかったというべきだろう(「平家はもはや武だけでは許されない」と
リアルな認識を知盛は示し、老兵忠清にショックを与えた)。

武家政権の制度化については、そもそも明確な形を欠く過渡期の形態であった上に、
清盛の死によってタイムイズアップで終わってしまった。