自身は一度もまともに歌ったことがない。
だがしかし、嬰児記憶から心身の深層に深く刻み込まれ、その生き様を規定しつづけた歌
ーそれが舞子が歌う「遊びをせんとや」だ。
文化面には疎い清盛にとっても、この歌がもった作用は巨大なものがあった。
表層ないし意識面ではなく、内面ないし無意識面に血肉化されていたのが、清盛にとっての
「遊びをせんとや」なのである。
いわば母の教えに無自覚のまま、清盛は自らの生を必死に駆け抜けた(このことを気づかせたのが
初回舞子を援用した最終回西行のリフレイン)。

2人の巨大な父性(専制君主&最大武門の長)に挟まれた葛藤や自我危機、そこからの超克ばかりに
目を奪われがちであるけれど(お気楽人生に安住した遊び人のババアたちは、このことすらapgr)、
清盛の生き様を方向づけた存在として、たったあれだけの登場にすぎぬ舞子という母性もまた、
遊びをせんとやの精神を通じて巨大なものがあった。

もっとも、最終回における西行の慰撫まで見ないと、初回からのスパンを持つこのあたりの理解は
困難であるのも確かで、これが自称大河コアヲタで歴史クラスタらしい連中をイラつかせ、
頓珍漢な言いがかりに終始させた要因の一つだろう(大根じゃないが、よっぽど「善男善女」
のシロートの方が確かな理解を示した)。これぞ確かな長編叙事詩かつ叙情詩の証だろう。
(最後まで見ても、さらに7年経って解説されても、無知で無能な制作側がーのこいつらに
理解を求めてみてもムダ)