【2022年大河】鎌倉殿と13人part3
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>>354
あれで新田の目は完全に無くなった
側室とはいえ男子生まれたら血筋的に次の将軍の可能性、女子でも摂関家に輿入れになってもおかしく無かったのになぁ >>318
承久の乱があったからって別に朝廷が廃止されたわけでもなく
後鳥羽上皇からその兄の系統に皇統を移しただけだからな
守貞親王は後鳥羽上皇の同母兄であるにもかかわらず
平家都落ちに伴われたために即位できずに同情されていた
>>319
承久の乱後に即位した後堀河は出家する予定で寺に入っていた
即位させてくれた北条義時には感謝しかなかった
後堀河の母親は源頼朝の妹婿一条能保のいとこ
その意味でも鎌倉幕府に近い存在 非常に面白い視点だね、新田氏でも、奥州藤原氏でも、
とりあえず側室で輿入れしても、その後の展開は分からなかった、
(家格的に)逆に北条氏が頼朝に粛清された可能性もあった
頼朝自身が新田氏や奥州藤原氏にマウントとるために
「側室でー」と言っていたから、
政子や時政すら気付いていなかっただろうね やっぱり頼朝晩年の“消された3年間”が気になるねぇw >>352
ナベケンの時頼は病になりそうにないたくましい身体してた >>340
新田は源義国の長男義重の家系。
足利は義国の次男義康の家系。
新田が宗家だよ。
しかし建武政権の頃には、新田と足利はアカの他人。 >>367
ノンノン、鎌倉末期には新田氏は足利氏に従属していた。
新田義貞の「義貞」のうち、「義」が足利高義の偏諱とみられている。
(個人的には「貞」が足利貞氏の偏諱である可能性も高いと思うのだが)
また初代の足利義康と新田義重の比較でも、
官職は義康の方が高く(蔵人として昇殿、河内源氏棟梁ゆかりの陸奥守就任)、
新田が宗家とは言いがたい。 >>368
あーそうか、足利貞氏の「貞」がそもそも北条貞時からの偏諱だから、
その「貞」をさらに新田義貞に与えることは考えづらいということか 義康が若死したお陰で義国流の序列が曖昧になった感
しかもそこから義兼が盛り返すし >>368
実際の力関係と宗家かそうでないかとは別の話
新田が嫡男の流れであることは事実だし、少なくとも新田からみたら自分達が足利の分家とい見解は受け入れられないはず
義貞が最後まで足利に敵対したのも自分こそ嫡流であるとのプライドからだろ >>371
宗家が分家、庶流から偏諱受けるのかよ?w
官位、官職(蔵人、陸奥守)についてはコメントなし? 太平記史観から脱却しないと
義貞は高氏の命令で鎌倉攻めの挙兵をしたと思うぞ
足利高氏は北条高時から偏諱を受ける有力御家人
一方の義貞は… でも京の公家も頼朝の死についてなんもいってないんしょ
平家の亡霊をみた、とか? だから頼朝死については草燃える説が妥当だと思うな
誰も何も言ってないのを妄想するのも
畠山重忠に斬られたというのはあるかw >>372
だから言ってるじゃん
それは実際の実力差を表すもので、嫡流と庶流の話とは別だって
徳川氏も得川・岩松氏の後裔と称してるけど、江戸時代彼らは徳川氏の家臣になってるし、山内氏も備後家が宗家に当たるけど、庶流の土佐山内家の方が偉そうにしてた >>377
母の違う兄弟で官職が弟の方が上なのに、兄の方が嫡流なのか?(笑) >>375
玉葉に記述がないのが不審とされているが、明月記や猪隈関白記にはある。 >>377
当時の嫡男と庶子は母親の実家で決まるから長男次男とかはあまり関係ないでしょ
長男重視なら足利義康だと三男足利義兼じゃなくて長男矢田義清が足利の嫡流になるけどそんなこと無いしね
で、義国と義康どっちの母親の方が格上なんだろ? >>380
生母の家格は義重(新田)より義康(足利)の方が上みたいだね 源氏の個人的戦闘力は
為朝>義平>義朝>頼朝>義経>義仲? >>383
義重母…正四位下上野介・藤原敦基女
義康母…正五位下斎院別当・源有房女
義重母のほうがちょい上
義国の本領は新田荘で義国はここに住んでおり
義重は父と一緒に本領地にいたし >>385
だから>>383は「家格」と書いているんだよ
村上源氏、義康の母方の祖父の祖父は従一位、右大臣だから
義重の母の実家は藤原式家、学者、文章博士の家 >>386
5代前の先祖が大臣だっただけでそれ以降はずっと受領だろw
清和源氏など天皇の曾孫でも受領としての扱いしか受けておらず
先祖遡っても臣下にすぎない摂関家に家司として仕えてたぞ >>387
何言ってんの?w 村上源氏と清和源氏の家格が月とスッポン、まったく違いますやんw
母親が村上源氏の息子と、母親が藤原式家、文章博士の家の息子、
どっちに将来性があるか、どっちが出世に有利かなんて明らかじゃん
現に義康は若くして昇殿、(河内源氏棟梁ゆかりの)陸奥守に就任してるわけで >>388
そのままお前に返すわw
義康のほうが出自が上だという結論先にありきで
無理に母方が良いとこじつけているだろ
村上源氏の嫡流は源通親に移っていて
義康母が村上源氏嫡流の名門の大臣家だなんて誤認はなはだしい
そもそも義国は義康母を特別待遇していない 誰が村上源氏嫡流だと書きましたの?
人の書き込みを勝手に捏造されては困るよ┐(゚〜゚)┌ ケンカすな!
要は、義重、義康の母の出自に明確な差はないわけだ
なら、兄である分、新田が僅かに嫡流に近い
もちろん足利からしたら自分たちの方が嫡流と言う意識だろうけど(世間も同じ)、少なくとも新田からしたら「自分達こそ嫡流」と信じてたのに無理はない どっちにしろ足利義康が早世したので義重が義国流を守りながら頑張った事には変わりないよ
最終的には義国流の長老扱いで死去後すぐに頼家が蹴鞠しようとして政子に咎められるぐらいの存在感はあった
新田氏の没落はその後代々下手打ったから別問題w >>395
「カンショク、カンショク、カンショク〜」w
アホと会話しても無駄って得心した 預かり罪人を逃亡させる
娘が新田惣領家の所領を自分が生んだ子へ分配
も追加で
>>402の理由で新田惣領家から没収された所領を管理してた世良田頼氏が反乱に関わってたのでなんとか返して貰えたとかもうね・・・ >>386
加えると義重生母には足利(藤姓)成綱の娘説もあるね >>406
NHKは新しい地図の草なぎ剛を青天の目玉として重要役で起用する報道が出た
吾郎は朝ドラに出たし香取だけこのままというはずもない
香取は最近も三谷作品に出ている三谷組でこっちへぶち込みそうなんだよなあ 源頼朝=山本耕史
和田義盛=香取慎吾
こんな感じなんだろうな 和田義盛「鎌倉殿と13人の時間だああああああほげえええええええ」 義時は頼朝のすぐ近くに眠ってるのに
政子は離れてるな >>411
「吾妻鏡」によれば源実朝は高野山の金剛三昧院
北条政子は鎌倉の勝長寿院(現在は廃寺)に葬られた
鎌倉の寿福寺に並んであるのは実朝と政子の供養塔
横穴式石室の玄室の中にそれぞれ供養塔が置かれてある 政子と実朝並べて供養したい気持ちがあったんかな
義時は伊豆では奥さんと並んで一緒のお墓 >>413
北條寺にあるやつね。
佐伯氏の娘って書いてあるんだけど誰の事かよくわからん。
恐らく生まれた地に供養したいと息子の泰時が建てたものだろうから、
その母親なんだろうなと思うんだけど。 >>408
なんか嘗ての「新撰組!」を彷彿とさせるイメージあるな
頼朝を中心とした御家人衆が朝廷を相手に大喧嘩をすると言うノリがソレっぽい 旗揚げ前に結婚してたのかも
それで泰時が両親の墓を江間に立てた
所帯持ちなんで江間に義時が分家したのもありそうだ
嫡男安千代が蛇に飲まれて死んだという謎エピもある >>417
頼朝は平家追討はやったけど朝廷と喧嘩する気はさらさらなかった
晩年は娘を後鳥羽天皇に入内させるために政子と娘を連れて上洛して
あれこれ朝廷に口利きの申し入れをしてたし 実際は10人で、吾妻鏡編集者が北条をつけくわえまくったのは内緒 >>420
頼朝は所詮、朝廷的価値観の人だからな
結局、鎌倉御家人を裏切り御家人に暗殺されたち考えるのが逆転の人の説
曽我兄弟の仇討ちも、実は頼朝暗殺計画だったとか 曾我兄弟の事件の時に八田知家がなんかやってたんだっけ
三谷楽しんでネタ作りそうだ >>422
暗殺かどうかはともかく元々頼朝に実権力はなかったかもって思ってる 頼朝も血統から大義名分をくれる役割に過ぎなくて現実は有力氏族の武力を借りて平氏に勝てただけなんだよな
室町は有力氏族が守護に変わっただけだし武士団を完全に押さえきるのは秀吉の惣無事令まで待たないと実現しなかった でも今度のドラマで描かれるといいけ鎌倉軍はるばる西海まで遠征してさ
何ヶ月も旅の途上で腹空かせてろくな手柄もなくて
あれ銀英伝だとラインハルトがわざと自陣奥深くに敵軍引き込んで
補給たって現地で略奪やら衝突させてそこで一気に反撃して叩いたてのと同じ
でも鎌倉軍はブーブー言いながら粘り強くやってたよな
頼朝はそこにいないのに手紙だけで鎌倉殿の威光すげーて感心する
木曾義仲軍は略奪して評判落としてた 行き着いた先ふぁ「相撲」や「お茶会」なんやね
しかし相撲やお茶会では同情しないけど「機織り」だけは不憫に思う 手弁当だから坂東へ引き返すと大赤字、略奪すると西国の非御家人層から袋叩きに合うので引っ込み付かずに平家倒して恩賞貰うしかなくて我慢してたんじゃないか?
範頼が相当泣き言を鎌倉へ送ってたから雰囲気は推して知るべしだがw 我慢して道が開けるならいいけど見通しきつかった
鎌倉からの補給を待ってたがそれ叩かれたら終わり
平家は鎌倉軍と戦わずずーっと奥に引き込んでくあたりの作戦面白い
一番奥の赤間関までいったら平家は彦島にいて船がないとどうしようもないお手上げ
オレが平家軍ならゲラゲラ笑ったと思うw >>431
範頼殺された(おそらく)理由は曽我事件は頼朝に対するクーデターで(首謀者は時政?)、頼朝に代わる御輿が範頼だった
永井説 北条の血をひいてる頼家の後継の立場を確実にするために
頼朝と北条が組んで弟たちが粛清されたという説は現代語訳吾妻鏡にも載ってたな >>431
逆に、源氏が力を持ちすぎるからこそ排除されたんでは 西征の目的は安徳天皇と三種の神器の奪還で一ノ谷の戦いもその和平交渉が決裂した結果。闕所処分が武士だけで勝手にやれなかったのだから、朝廷の意を酌むのは当然。 >>432
宗盛「屋島引き払ってこっち来ちゃった」
全てはこれに尽きる >>439
義経に追い落とされたからな
屋島と彦島抑えて鎌倉軍を山陽道に封じ込め締め上げてたのが
範頼軍が封じ込め突破して九州に上陸、同時に義経が屋島攻略
気がついたら逆に彦島の両岸を鎌倉軍が抑えて逃げ場なくなった平家軍
なかなか面白い展開
頼朝が義経をカードとして置いておいたのが意図的だったのかどうか >>435
永井路子は頼朝と時政を暗殺して範頼を立てるクーデター説だったな
敵討ちにしては死傷者が多すぎて多くの兵が動いたんだろうというのと
死傷者をみると時政の周辺を警護してたらしいのが多いというのが理由 >>442
屋島を全滅覚悟で死守しないといけないのに宗盛がさっさと逃げたから・・・
そもそも子供好きの優しいおじさんに総大将なんて無理やったんや 学者でも普通にその説とってない?
範頼無実説と範頼も不満持ってた説がいる
後者の理由は頼家への権力継承とか >>444
範頼軍は船がないから彦島を攻撃できなかっただけで、
迂回して九州に渡り陸戦でも原田種直ら平家与党を制圧している
屋島の平氏は長門・九州との連絡を断ち切られてる
四国の阿波民部大夫成良ら在地の勢力しか頼みにするものがない
桜間能遠の城を攻め落とされた時点で四国でも陸の拠点がなくなった >>446
後出しだけどだからこそ小勢の義経を叩いて海からの梶原景時と一戦して勝つしか無かったと思う
屋島放棄してすぐ滅ぶよりかはマシってだけなんだけどね 頼朝が襲撃を受けるほど不満が高まっていたにしては、
梶原景時と比企と頼家の排斥が遅すぎるのよね ただ頼朝クーデターにしてはぬるい気がする
曾我兄弟の仇討ち事件にして表向きしゃんしゃん岡崎らを出家させて終了
てのは違和感覚える
頼朝がそこまで妥協しなければならないほど反頼朝が強いとは思えんのだ >>435
利用されたというか
そもそも兄弟の片方が頼朝の寝所に突入して抑えられてるのが
クーデター説の根拠の一つで
頼朝両刀づかい説の根拠にもw >>447
阿波の近藤親家と、屋島の平氏を実質的に支えてた田口成良は対立関係で、
義経は前者と通じて上陸直後に桜庭介能遠を攻撃してる
伊予の河野氏も反平氏勢力で、田口氏はそっちにも出陣する二正面状態
屋島の陸上戦力で阿波の反平氏勢力への劣勢は否めないので、
伊予討伐軍を呼び戻して合流するしかなかったんじゃない ここ一番で毎度源氏の遠征軍に負ける肥後菊池氏は何故なのか 当時は親子兄弟で苗字がバラバラだよね
ドラマどうすんだろ
加賀美の長男が秋山で次男が小笠原で
とかやったら視聴者が死にそうな
武田信光は最初から武田で通すかもしれんが一条忠頼は?
結城朝光は小山で行くんかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています