【2022年大河】鎌倉殿と13人part3
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対平家だと
義経 全戦全勝
義仲 京に入るまで全戦全勝
行家 全勝全敗 義経もなぁ。行家と組まなければ…
行家の母は熊野の女だよね。平治の乱後に行家を匿ってたり義経が一時期身を寄せてたりと良く出来た話だよね平家物語 本人も源氏はオレで絶えるとか子作りする気ゼロだし
インポ説をおす<実朝
子種があるかないかはあの若さならわからんだろし
正室に子供ができないなら普通は側室を置く そういえば草燃えるでは義時が実朝に
男としてわからないどうして女を求めないのだ言って
なんか年増ブスを押し付けてた
美人を持ってこいよw >>564
藤原道長が(息子の頼通に男子ができないので)
源師房(両親ともに皇族)に摂関家を継がせようとした先例もある 五摂家のうち三家(近衛・一条・鷹司)は一族からではなく、皇室から養子を当主に迎えている。 頼朝の場合は流罪になった囚人の身だから気軽に種をばらまけなかったんじゃないの >>568
これ真剣に説を唱えてる人も結構いるんだってね
10歳頃の多感な時期に後白河に掘られまくったせいで恋愛対象は女性でも欲情するのに時間がかかったとか 政子が大騒ぎするんで頼朝女好きイメージあるが全然少ないよな 政子が正妻としては身分がアレだったので騒ぎまくっただけだよなあ 尻に敷かれてたよな頼朝
政子の言いなりで御家人斬ったり
そら御家人は御台様のご機嫌損ねるの恐れるて >>575
頼朝「義仲ぶっ殺したし後々今の自分みたいに仇討ちにこられても困るから息子の義高ぶっ殺すでー!娘大姫の婿?もう知らんわ!」
政子「大姫が嘆いてるで?誰のせいでこうなったんや?」
頼朝「ファッ⁈ しゃーない!義高討ち取った奴ぶっ殺すでー!」 頼朝は正二位前右大将だから摂関家から正室をもらうのが妥当 清水冠者が逃げたから丁寧に探して捕まえて首取って来い、繰り返し言うが丁寧に探すんだぞ?みたいな腹芸が鎌倉武士に効くわけないからな・・・ >>579
父親の木曽義仲は、敵方の畠山重能・斎藤実盛に逃がされたんだけどな 実朝が畠山重忠の遺児を捕まえてこいと命令したのにそれを無視して
はあ?捕縛なんて甘いわ!って勝手にとっとと殺害した小山氏
てのが鎌倉武士だからな >>575
「草燃える」で政子が亀の前の襲撃命令を義母牧の方の兄に命令した時はワロタわ
頼朝は政子を怒るわけにはいかず、牧の方の兄を処罰することで鬱憤晴らし 牧の方が告げ口して政子がぶち切れたんだよな
で義時がご褒美もらうという風が吹けば桶屋が儲かるみたいな展開だが
全部吾妻鏡の通りというのが面白い >>585
あのシーンはコミカルで笑える
総集編では割愛されてるかもしれんが 頼朝がずっと独り身だったのは流人だったからか?
伊東は引き裂いたし世話してた比企も娘を嫁に出したりしてない
でも北条は結局婿として引き受けた
それが可能だったのはなぜ? 怒られたりしなかったんか そっち方面はある程度それ目的の乳母が処理してたのもあるでしょ 比企尼はさすがに無理でしょ
寒河尼って頼朝とそんなに年離れてないんじゃなかったっけ
と思ったが小山党の初期の動き見るに流人時代にそんなに親密にしてた印象はないな それは本当の意味でおっぱい担当乳母w
当時子供産んでなくて年が近い乳母が付く場合は色んな教育係りも兼ねててそれには男女のことも含まれてたはず
10代中頃の若殿と20代中頃で赤子の頃から世話してくれた乳母とかメイド物の薄い本が何冊も書けるでしょw >>574
今思うと他にたくさん子供を作られると邪魔だったのかも
北条家が乗っ取りはずっと計画してたろ 比企尼も寒河尼も仕送りだけで側に来て世話はしてないんじゃね 北条フリークとしては楽しみな大河だよお!
最近、すごく得宗やら執権政治やら御内人やらに興味があります!
やっぱり不思議な一族なんですよねぇ、この北条得宗というのはねぇ
氏素性の知れない一族が100年間日本のトップだったんですからね
本当に謎の一族ですよ! 会津は被害者ビジネスでリベラルのヒーローになってるんだよなあ 北条氏は(もちろん北条義時も)
コンプレックスと恐怖心の塊だということを理解する必要がある
後代では、長州閥と(世界の)共産党が北条氏と非常によく似ている
13世紀に現れた、その先駆性は世界的にも稀有で、恐ろしく早い
長州閥と反日左翼による合作の反皇室プロパガンダ、共産主義者の破綻した陰謀論、
明治天皇替え玉説(笑)や田布施システム(笑)なるものがある
反日左翼は実は「似た者同士」の長州閥が大好き、
長州を過大評価、長州の虚像を広めることで、長州のお手伝いをしている
私は最初、追い込まれている、しょぼい長州閥が
自分たちを大きく見せるために、この手の捏造プロパガンダを流してると思ったら、
どうやら本当にアカが流しているようで、アカのあまりの頭の悪さに大爆笑したものだ
もちろん、長州閥と(既存の組織に寄生して乗っ取りを得意とする)共産党が
地下でしっかりつながっている可能性もあるがね┐(゚〜゚)┌ 【長州閥の実像】
幕末に、尊皇攘夷のカルトテロリスト集団が手の平返しをして、長州征討で滅亡寸前だったところを、
外国の力まで借りて九回裏2アウトから逆転サヨナラホームランを打っただけ。
当時、明治天皇以外にもフツーに男性皇族はいた、江戸幕府はそれ以外に輪王寺宮というカードも持っており、
すり替え()など政治的に自殺行為。 また明治天皇の生母の実家の中山家で
明治天皇の幼少期の養育に関与していたのは、長州ではなく、むしろ薩摩である。
もちろんすり替え()・替え玉()などしたら、薩摩が黙っていない。
マイノリティが一瞬の差し脚、ただのクーデターで権力を手に入れただけだから、
明治維新後も、(薩摩と比較しても)異様に権力に執着して、
山県有朋という足軽未満の中間(ちゅうげん)上がりの小心者が、
ハリネズミのように陸軍や内務省(警察)をピンポイントで抑えにかかった。
このあたりは、ソ連共産党始め世界の共産党の権力奪取パターンと非常によく似ている。
歴史的には、共産党よりも長州閥の方が早く、さらに言えば鎌倉幕府の執権北条氏の二番煎じ、再来とも言える。
北条氏が真っ先に抑えたのも鎌倉幕府の軍事・警察を司る侍所であった。
(長官の別当(執権)だけではなく、初期の頃から次官の所司も
「御内人の嚆矢(こうし)」とされる金窪行親が就任、その後も御内人トップの
内管領が侍所所司を兼ねることが多かった)
薩摩は徳川将軍とも皇室とも縁戚であり、どっしり構えて、そのようなことをする必要はないのである。
それでも長州閥というのはショボくて、戦前も、昭和の段階で、すでに押されまくっていた。
ちなみに長州閥は実に4回も歴史的な国民暴動(※)が発生している嫌われ者の無能集団なのである。
(※)日比谷焼打事件(×第1次桂内閣)、第一次憲政擁護運動(×第3次桂内閣)、
米騒動(×寺内内閣)、60年安保(×第2次岸内閣)
ただし、ここでは、嫌われ者の無能集団であることよりも、
長州閥には自分たちが嫌われている自覚(被害妄想)がある、
恐怖心・コンプレックスを理解することの方が重要である。
ちなみに、逆に日本人に暗殺された長州閥の総理というのは1人も居ないのである(お察し)。
(伊藤博文は、朝鮮人の安重根に暗殺された) (>>606の続き)
大正の頃から、すでに薩長史観批判があったのは(内藤湖南など)、
薩長や公家が弱すぎて、佐幕勢力を一掃できなかったから、
華族・士族の支配階層として、そっくりそのまま温存せざるをえなかったからである。
長州閥の田中義一が、張作霖爆殺事件で若い昭和天皇に一喝されて内閣総辞職したのは、
それくらい長州閥の立場が弱いから、皇室に頭が上がらないからである。
(憲法上は、総辞職の必要はまったくなかった)
宮中某重大事件で(薩摩その他に)完敗して、失意のうちに死んだ山県有朋も同じ。
安倍晋三と不仲であることが周知の上皇陛下も、退位問題で安倍を振り回す一方で、
政府主催の明治150年記念式典
(長州閥の歴史的正統性をアピールする、とっても大切な式典)は欠席した。
安倍晋三が即位の礼はじめ皇室関連行事を最大限に利用するのは、
鎌倉幕府の執権が「鎌倉殿の命により」と言う(言わざるを得ない)のと同じであるが、
目的が勤皇ではなく、あくまでも自分の権威付けなので、1年に3回も世界覇権国・宗主国の
トランプ大統領を日本に呼びつけようとしてトランプを激怒させ、
序列13位の末席の女性閣僚を派遣されるような大失態を犯すわけだ。
今上陛下のために、たった1回の来日に絞れば、
トランプを即位の礼に呼ぶことも十分に可能だった。 やる夫が鎌倉幕府を成立させるそうです 第六幕 「次郎実朝」 後篇
(一部抜粋)
吾妻鏡が北条氏の歴史本で、北条氏にとって都合のいい本だと知っているだろう。
それは正しい、ただ……、北条一族の重要人物の中で、
どうも一人、“妙に吾妻鏡が厳しい目を向ける人物”
……そういう人物がいるのをご存知だろうか。
北条義時、である (中略)
このように、義時は何かやるにしろ必ず実朝なり家族なりに諌められている。
はっきり言って書く必要はないのに、だ。
ただ、義時が諌められている事項を抜き出すとあることが分かる。
★★被官にえこ贔屓すること、大御家人に便宜をはかるため道理をねじ曲げること。
権威のために寺社に資材を大量に浪費すること……。★★
それらで義時と共通する存在、それは―
吾妻鏡は義時に、―鎌倉時代末期の北条氏を重ねているんだよ!
義時の状態は、権威も格もない新興氏族が陥りやすい状況であり、
彼自身の意識よりも、そうせざるをえない部分がある。
油断するとこうなる、そう言った見本のような部分があった。
後に陥る状況を、予言のようにはっきりと言う実朝は、義時の状況を見た上で論理的に出した結論なのだろう。 義時は日本のフィリップ4世という人もいる
でインノケンティウス3世が白河上皇w >>513
喜連川は細川だけど
細川護煕墓参記念碑(三河県岡崎市)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html
現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46)
大給松平家
菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) >>226
関東とかくだらないドラマになる
メインはやはり三河で、頼朝と三河で繋がる人々の人間模様にしろ
例えばだ、東三河出身の藤九郎盛長が、同じく東三河に縁のある伴氏繋がりで政子を頼朝を紹介した
こう言う新しい視点だよ
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>412
三河にもあったらしいぞ
政子の13回忌に、足利義氏が三河県岡崎市の滝山寺に実朝と政子の骨を分骨した
滝山寺は源頼朝と足利義兼の母方の菩提寺
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 >>412
高野山も、関係者は全員三河
高野山金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、三河守護の足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・公暁
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) 日本人における北条流知名度ランキング
1位 高倉健
2位 川端康成
3位 北条政子
4位 横井小楠
(超えられない壁)
5位 北条時政
6位 将門の従兄弟
7位 北条時宗
(超えられない壁)
義時「あのーオレは?」 >>616
横井小楠好きだけど
大した壁じゃないw
時政との壁は 8位 北条早雲 「ワシは違うぞ」
9位 御成敗式目の人 「式目の名前のインパクトに負けます」
10位 北条氏康 「だから違うって」
11位 承久の乱の人 「姉上は遠いな…」
12位 鉢の木の人 「こんな若かったん?!といつも言われます」
13位 北条時行 「こんなに長生きしてたの?とよく言われます」
14位以下うにゃうにゃ 「北条と時がついてる」 貞時は得宗家を体現したような人なので是非有名になってほしい >>616
川端康成って北条の何流なん?
高倉健は名越流らしいけど 身分、家格が低すぎて皇室に輿入れできないのも北条氏と長州閥は共通してるね
会津藩主、会津藩士の家系からすら輿入れできているのとあまりに対照的
(秩父宮妃勢津子、秋篠宮妃紀子)
だいたい皇室に輿入れどころか貴族院議長、副議長にもなれない
長州閥の場合、関が原以来の長い経緯もあって
長州藩主家と旧藩士の長州閥の関係がそもそもよくない、ギクシャクしてるという事情もある
旧藩主家と旧藩士の結び付きが強かった薩摩藩や尾張藩とも対照的 >>599
上皇島流し天皇廃位に
フビライハンと対決してこれを退け
子孫はノーベル賞
確かにこういう一族あんまないなw
そんな家の近くに頼朝がいたという歴史の不思議 >>626
時頼以降は実務は北条氏云々ではなく、御内人、得宗家という組織で動いてるからね
寄合衆に御内人が進出するようになるのが時頼期
御内人含めた北条氏一族が共産党で、幕府(政所・問注所・侍所)が中華人民共和国政府だよ
太子党が北条氏庶家、共青団が御内人 成人する前に滅亡、死んでしまったが、太郎邦時が執権・得宗になっていたら、
御内人の中で五大院氏の家格もかなり上がったと思われる 義時の長男泰時が得宗家
義時の次男朝時が名越家
歴代頭のいい奴揃いの得宗流の子孫が横井小楠や川端康成
ちょい派手個性派の名越流の子孫が名古屋山三郎や高倉健
個性が出てるなw
人がよいイメージの重時流の有名子孫も欲しいところ 極楽寺流が一番栄えてないか?
赤橋に普恩寺、塩田などなど。 板部岡江雪斎も時行子孫だから得宗流だな
時政以来、外交系は北条の強いところ 板部岡って前北条氏の出で後北条氏に支えたのか!
面白い 真田丸なら平野長泰も時行子孫だぜw
なんかスルメかじってたっけ 前北条氏の地盤がまるっと後北条氏の地盤だもんな
氏綱の嫁が横井氏説があったっけな 時行の孫の時任が尾張(横江村→横井村)に住み始めたのは確認できますね
写真を見るに川の中州のような場所に逃げ込んだのでは?
https://ameblo.jp/kanezane2/entry-12555867418.html
安達氏も尾張に移って熱田神宮社領を押領してる記録がありますね(こちらは歴史の表舞台から消えた)
北条時行―時満―時任(尾張移住、愛知郡横江村→横井村)―時利
―横井時永(海西郡赤目村へ移住)―時勝―時延―時泰(以降、尾張藩士)
この辺りを支配する斯波氏(初代家氏は北条一門格)と今川氏(霜月騒動で得宗・平頼綱側に加担)が
ともに北条の残党に甘いのには理由がありますしね
(今川那古野家は母方の今川姓を名乗った名越流の末裔) >>642
横井て中村区にあるんだ
秀吉も中村区だよな加藤清正も
秀吉の木下家は今川那古野氏の領民だった言われてた
そんで寧々との仲人が那古野氏だの家族と那古野氏を結婚させただのさ
得宗家と名越家て仲がいいんだか悪いんだかて不思議な関係がここにもw >(今川那古野家は母方の今川姓を名乗った名越流の末裔)
だから尾張に同族の今川氏豊がいたのか 今川氏豊が尾張の今川那古野家の養子に入って当主になったんだよね
で織田信秀に追い出されたけど那古野家自身は残って織田と縁組した
那古野高久が信長やお市の方の従兄弟言われてる
那古野家は江戸期には元の名越家に戻したとか
愛知県は名古屋市になってるね へー、名越→那古野→名古屋と続くのか
勉強になった >>647
那古野高久の外祖父が信長の叔父の孫と言われているだけで
信長やお市の従兄弟じゃないぞw 桶狭間の戦いが斯波氏のお家騒動と考えると違った見方が出来そう 【金銭寄付】
坂上忍 緊急事態宣言が解除されるまで個人収入を全て寄付へ
天皇陛下 2団体に1億円
コンサドーレ 選手年俸から1億円を球団に返還
田中将大 3700万円(日米総額)
YOSHIKI250万円
YOSHIKI1080万円(音楽業界を支援する「COVID−19救済基金」)
YOSHIKI1000万円(国立国際医療研究センター)
GLAY 1000万円に加えマスク5000枚医療機関に寄付
日本競走馬協会 1000万円
長友 500万
西川貴教 300万円(滋賀県に新型コロナ対策で)
【募金主催、物資寄付】
NPB クラウドファンディングで寄付を募ることを発表
イニエスタ マスク寄付 故郷スペインに2000枚
【無寄付、国に金銭補償を要求】
椎名林檎 ライブ強行
坂本龍一、倖田來未 七尾旅人 綾小路翔 ホリプロ社長 「国に補償を!」 >>645
こないだ名古屋行った時に豊国神社行ったんだけど
周囲に秀吉グッズ売ってる店が全然なかった
生誕地じゃ人気ないんだろうか >>648
なごや荘自体は平安の昔からあるみたいだよ
今川に庇護された名越がそこにきたのは偶然か?
那古野や名古屋はなごやと読むのはわかるけど
名越は読み方はいろいろで
なごえ、なごや、なごし、とかあれこれ
鎌倉北条はなごえで一致してるみたい >>655
秀吉を売りにしてるのは、両口屋是清の一番人気商品「千なり」(どら焼き)くらいだろうね
※秀吉の馬印である千なり瓢箪の焼印が入っている
基本、愛知人・名古屋人が秀吉を語るときは、
○歳の頃はどこで奉公してたとか、そういう話になるから
矢作川での蜂須賀小六との遭遇とか、
松下嘉兵衛に奉公してかわいがられたけど、他の家来にいじめられた話とか、
そういうのはみんな知ってるけど
大阪の方がはるかに人気あるじゃないかな
尾張出身者が多数排斥された秀次事件(淀君や石田三成などの近江閥の勝利)や
260年に及ぶ尾張徳川家による支配も影響してるかもしれない 太平記に出てくる名越高家が尾張守だったし
守護も北条がつとめたりして尾張に北条の地盤があるのはわかる
>>631の尾藤氏は尾張と関係あるの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています