【2022年大河】鎌倉殿と13人part3
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けど早めに女の味を覚えさせないと実朝みたいになっちまうぜ 頼朝=両刀
頼家=女好き
実朝=女ダメ
なぜこうもバラバラなのかこの一家は >>800
空気が読めないとか、何処が?
俺が政子ちゃんでも、足利氏から正室を迎える
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛 
三河縁故の武士が、裏でガッチリタッグを組んでいたわけだ
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)  であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ  
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった 
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成) 
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する 
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する 
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する 
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める 
・源実朝 
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝 
葛山景倫(願性) 
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性) 
・安達景盛 
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?) 
・足利義氏 
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)  >>806
若狭局は正室じゃないぞ
正室は三河武士の娘
源頼朝は嫡男の正室に、曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁
■修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
木造大日如来坐像
http://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA/
本尊の大日如来像は1984年に解体修理され、像内から銘文と納入品が発見された。これによって、1210年に実慶が造ったものとわかった。
実慶は「運慶願経」(1183年)に名前の見える慶派の仏師である。この修理の時点では作品は知られておらず、重要な発見となった。新聞でも報じられたそうである。
納入品は美しい布に包まれた髪の毛であった。
髪はB型とO型の血液型の人のものであるとのことで、2人分であることが判明している。1210年というのは、この地で非業の最期をとげた鎌倉幕府の2代将軍源頼家の7年忌にあたることから、頼家ゆかりの人の髪と考えられる。
『吾妻鏡』の1210年7月8日の条に頼家の妻辻殿が出家をしたという記事があり、辻殿の髪と思われる。またもうひとりは、母である北条政子である可能性がある。 信子がどういった経緯で推薦されたか不明だが
やはり、これも三河国が鍵とみる
・源実朝(3 代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →実朝
藤原経忠→信輔→信隆→坊門信清→信子(源実朝室)
藤原経忠→信輔→信隆→七条院(三河国主)→後鳥羽天皇(中宮は九条兼実(三河国知行国主)の娘)
藤原経忠→信輔→親信→水無瀬親兼(室は足利義兼の娘) >>798
北条などお呼びじゃない
高野山に大塔の鐘と言う大鐘があるが、三河で作られた
計画立案は三河の源頼朝、製作は三河の寛伝、高野山で受け入れたのは三河の足利義兼らしい
三河で源頼朝と繋がる足利氏を乗り越えられなったのは、北条だけでなく他の鎌倉御家人も同じなのである
源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫→伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)→娘(由良御前)→源頼朝(初代鎌倉将軍)
寛伝(三河国滝山寺僧)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝
足利義兼
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代源姓足利氏)
その縁故は日光東照宮にもつながる話なのさ
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>808
「吾妻鏡」では頼家が乳母一門の比企を重用し専横政治を行ったために
御家人たちの人望を失ったとしている
比企氏の乱は比企能員が源頼家が病になったときに北条時政が
比企氏を外戚とする頼家の嫡男一幡を頼家の後継とするのではなく
一幡と弟実朝に分割したことに激怒し自ら北条打倒の兵を上げる計画をした
しかしなぜかこれを政子が盗み聞きしており時政に伝え
時政は先手を打って比企を討ったとなっている
しかしこれ普通に北条が実朝を後継にするために
邪魔な一幡とその外戚を滅ぼしただけだろ それを悪く書いたと取るならそうだな
ただの闘争とも見えるが
千幡と一幡の争いがあったのは事実だし
もし北条が動かなかったら頼家と比企が北条を討ったのも確率高いからな
頼家の全成への仕打ち見ればわかる
頼朝の弟達への態度も側で見てたし千幡が子供のうちは見逃されても
成長したらヤバイ思ってたんだろう
なんで元服と同時に一気にかたつけたあたりはなかなかw >>818
頼朝が兄弟相続を推奨し自分の後は我が子ではなく自分の弟
頼家の後は実朝という将軍相続を意図していたのならともかく
頼朝は弟たちを粛清してまで我が子頼家への相続を優先したのであり
普通に考えれば頼家の後の将軍はその子
北条が実朝を担ぎ出すのが混乱のもと
それを「北条が正しい」と正当化しても 正しいも何もやられる前にやるってとこだろうという
義時が比企の婿になり時房が頼家の側にいたから
頼家路線を前提に北条も動いてたと思うよ
でそっちをやめて千幡路線にしたってとこ
縁戚の三浦と畠山以外に和田や小山が一緒に比企合戦に出てるから
その辺りとコソコソやってたんだろう >>820
頼朝は乳母一族である比企一族を高く買っていた
だから頼家の妻に選んだし義時とも縁組させた
頼朝は頼家への直系継承を望んでいたから丸く収めたつもりだった
頼家の血統が続く限り実朝は傍系にすぎなかったからね
比企を殺さなければ北条と実朝が殺されるんだ
北条が比企と一幡を滅ぼしたのは正当防衛だというのは
北条が編纂に携わった「吾妻鏡」の見解であって
比企が意図的に悪く書かれている可能性が高いって話なんだが
だいたい「吾妻鏡」は頼家の死を一切描いてないからね
公家の日記から頼家の「ふぐり(金玉)取りて」という
惨殺状況が把握できるが >>820
頼家の外戚は北条だが一幡の外戚は比企
北条は頼朝存命中には大きな声が出せなかっただけで
不満は大きかったと思うよ
頼朝が死んだら比企を滅ぼして一幡と若狭局を殺し姫の前を離縁し
頼家も殺して生き残った頼家の息子たちは出家させ
政子に引き取られた鞠子を除いて根絶やしにしているから
頼家を応援するつもりが実朝に路線変更ってもんじゃない 頼朝が征夷大将軍になった祝いに摂関家から正室を迎えてたらよかったのにね >>821
いやいや
君も頼朝は弟粛清して子供に継がせた言ってるやん
頼家がそうしない理由はないと普通に思うぞ
現在から見てもそう思うから当事者はビビってたろうなw
ただ北条は大人しく従うキャラじゃなかった
梶原追放の背景にも千幡派の動きがあったというから
頼朝死後から蠢いてたとは自分も思うかな
ただ一応保険はかけてた特に義時が
千幡が無事に成長するとも限らんし
比企合戦から頼家追放に実朝元服に将軍就任ていう一連の動き
ガチにスムーズで惚れ惚れするなw 強引さもある
草燃えるじゃ義村が感心してたがあいつも大概つるんでるだろ やっぱり小山の動きが面白い
和田は梶原と激突してたから頼家を気に食わないのはわからんでもない
三浦が江間と縁組したのは比企合戦の前年だがもともと許嫁だったから
北条と組むのもまあわからんでもない
まったく関係ない小山が梶原事件にも比企事件にも関わってるのがw
草燃えるではスルーしてたし今回も13人から外れてるからスルーかもしれんが
義時人脈だよね間違いなく
姫の前と離婚後に再婚した伊賀の方は結城朝光の嫁と姉妹だし 政子がいなかったら頼家の子どもたちを御輿に御家人たちが殺し合っていただろうな 三浦は善哉担ぐ気なら頼家支持した方がいいだろにな
実朝に系統が移ると遠ざかるぞ
義村ってほんと何考えてんだかわかんねー 13人は意外と多いぞ
単純にひと月ひとりとしたって13ヶ月になっちゃうから今の牛歩大河に合うか心配 新選組!も大人数だったが描き切ってるから大丈夫だろ
そもそも三谷の作品は群像劇が多い >>831
中原、足立、二階堂の方が空気になるでしょ 初回にキャラ紹介とかやってたら視聴率やばそうやな
順番に紹介していく形にするから 初回というかイントロに13人全員集合で解説して
本編入ったら政子のラブコメだろ 大江広元なんかは鎌倉へ下ってくるのが平家滅亡後だし最初からいるわけではない
合議制御家人たちは一人一話メイン回ぐらいだろうな
主人公の義時と親父の頼政はずっといるので別格
13人には含まれない頼朝政子頼家実朝後白河後鳥羽も出番は多いだろうし 視聴率なんかもうそんな気にしなくていいやろ、元々源平・鎌倉大河って人気無いし
まだ大河ブランドが落ちてない時期の、超有名人物主人公でジャニ主演だった義経でも全平均20%切ってたんだし
しかも北条義時とか、北条政子なら知ってるけど義時って何した人?みたいな知名度でしょ世間的には 13人も三浦義澄がメンツに入ってるがどー見ても活躍するのは
三浦義村だよな 和田義盛は体育会系で暑苦しいオヤジに描かれてるんだろうな さあいよいよ13人の合議制が始まりました!
すぐに梶原に三浦に安達が消えるってコントかよ 梶原滅亡からの怒涛の粛清の連続を三谷がどう描くか楽しみでもあり不安でもある 関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」 NHKつけたら清盛のBGMが
コロナ待機中に清盛一気に見たがやっぱ感動した
その続編の今作はまったく違う色彩の作品だろうが楽しみw 放送前に草燃えるの全話再放送をまた時専でもいいからやってくれんかな
再放送当時きちんと全部見てないのが悔やまれるから
真田丸の時は同じ日に真田太平記を再放送するという荒技はしてくれてたが 三谷は予習しないで見てくれ言ってる
ネタバレしてもつまらんだろ 一番作家の創作が入るのが泰時母だな
抹殺するとも思えんしどうするか
草燃えるみたいな派手な創作はしないと思うが 頼朝が亡くなった途端に御家人の統制がきかなくなった 実朝の制止振り切って幕府トップの北条と和田が合戦始めるんだからな
ある意味すごい
頼家は病で寝てたからまだわかる 武士とはそんな物だ一族仲良しとか言ってる清盛とかの方がおかしい >>861
そうなんだよねぇ、最後は全滅だよ
北条義時もたくさんの敵を陥れて族滅して側室をたくさん作ってセックスもしてやりたい放題やったけど、
その報いは子孫にくるんだよね
子孫は赤橋も金沢も名越も、そして得宗家も炎の中で集団自殺だから
そして悲惨なのは高時の息子の邦時少年
家臣に裏切られて粗末なゴザで恐怖の斬首 惨めすぎるよ
まるで得宗家150年の罪を一身に背負わされたようで哀れだよ >>863
そう、それは武士とはそういうものなんだけどねえ
権力の絶頂にあって姫の前はじめセックスしまくった成り上がり義時も脚気で苦しんで亡くなって、
その子孫たちは族滅斬首自殺するという悲惨な末路
こう考えると人生は虚しいよ やはり人のために生き行くのが一番だよねえ 北条は現代まで子孫がいるからましだろ
頼朝の直系は跡形も無く地上から消え去ったぞ 邦時はまだありだよ
時行が反逆しながら20年というのが凄い
潜伏先いくつあるのか知りたいw >>865
でもさ
北条は滅びても式目は残ってずっと受け継がれていくんだぜ
歴史のロマンだよな
制定者が滅ぼされたのになぜか法は生き続ける >>829
三浦義村の態度は一貫してる
義時支持だ
草燃えるで政子に惚れてたのは伊東十郎でなくて義村
てやってもおかしくないレベル コロナ対応で脚本変わってくるのかな
ロケ少な目とか
まあ三谷だし屋内の群像劇でもいけるだろうけど 「時行は捕まらずに行き長らえた」説もあるね
時行の子孫がそのまま伊豆に残って、後の戦国期に伊勢宗瑞が養子に入り後北条氏になったかとか
すごい生命力じゃないか! 膨大にあった得宗領に匿われていたんだろう時行は
時行はトキツラじゃなくてトキユキなんだな 200年後にまさかまた三つ鱗が翻るとは高時もびっくりだよ
北条は滅びぬ何度でも蘇るさ(一度だけだけど) トキツラは北条にもいたな
この大河でも出てくるぞ時連 >>872
時行の子孫の横井氏は一貫して尾張在住ですよ 時行が最後鎌倉から逃げずに捕まったのはもう動くのに疲れて最後は父祖伝来の鎌倉でって事だったんだろうな 子供の時に家を失って周りには自分の存在を頼りにしてる人に囲まれて
立たざる得ない状況だったんだろうね時行
なんかシャアに復讐をーていつも説教してたジンバラルがいたみたいなw
子供にはそういう思いさせたくないてあったんかもな 南朝は戦った相手
で戦うのももっともで別に恨む相手ではない
新田と組んだのも同じ
新田が北条を倒そうとするのも理由がある
北条に冷遇されてきたから
足利は敵
武士はそういう理屈だよ 南朝は戦った相手
で戦うのももっともで別に恨む相手ではない
新田と組んだのも同じ
新田が北条を倒そうとするのも理由がある
北条に冷遇されてきたから
足利は敵
武士はそういう理屈だよ 戦う時は敵、じゃなかったら手を組むいずれにしろ南朝はかつて高時を死に追いやった勢力。 >>888
尊氏だって南朝を担いで鎌倉幕府を滅ぼしたのに
後になって鎌倉幕府と仲良しだった北朝を担いで
北朝から征夷大将軍を貰っている 恩を受けたのに戦ってくる奴が敵
別に恩を施してない奴が戦う分には構わない
そもそも戦闘のプロだからな
時行が後醍醐や新田と手を組んで足利を敵としたのは当然 今日はその高時一族が滅亡した日だな
毎年仏寺やってる宝戒寺は義時の小町亭ということでよいんか?
小栗義時のお住まい 当然じゃねえよwご都合主義のスットコドッコイだから因縁が解消されず、最終的に戦国時代になるんだよw やれやれだぜ
義時ってそう言いながら
オラオラオラオラオラオラオラー!
てキャラだな >>880
>>子供の時に家を失って周りには自分の存在を頼りにしてる人に囲まれて
>>立たざる得ない状況だったんだろうね時行
よくわかるよ
得宗家100年のブランドを象徴、御内人残党にとってはこのうえない若様だよ >>895
中先代の乱で鎌倉から落ちるときに郎党が顔の皮剥いでから自決して自分達を身元不詳にして時行の死を誤魔化したんでしょ
もう引っ込み付かないよな 時行よりも悲惨なのは嫡男であり最後の得宗である北条邦時少年(9歳)だと思うよ
最後は一番信頼できる親族に裏切られて恐怖と絶望の中で罪人として首ちょんぱされるんだから
北条義時と得宗家に殺された以下の人々の怨念のなせるわざだよ
和田義盛・頼家・畠山重忠・頼家の幼い息子・後鳥羽院・比企能員・名越一族・平頼綱などなど
まさに因果応報 先祖の罪を一身に背負って死ぬんだよ ときゆきはさらに過酷
高時滅亡後も二十年間殺し合いをするんだからね
世が世ならば得宗として側室とやりまくりの日々だったのに >>900
その後の足利との20年戦争が怨念のなせるわざだろう
おそらくは頼家の息子一幡の怨霊じゃないかな 幼くして殺された恨みが一番強そう >>902
わかるけどわかるけどね〜
徳川将軍は最後をはじめ腑抜けすぎるけど
となると得宗もいずれは滅ぼされるのは上等ってことで他の一族を族滅しまくっていたんだね
悲惨な一族だよ まあ竹御所が死んで頼朝の血統が絶えたときには
平家一門殺した報いだと世間は言ったが
頼朝からしたら知るかよてとこだろ さっき神保町行ったら徳川十五代将軍の現代風イケメン化みたいな
ネタのポスター見て頭を抱えたくなった 北条義時も邪魔者を主君の子供含めて殺しまくって側室をたくさん作って中だしセックスしまくって権力握って、
この世の栄華を極めたのに最後は刺殺or脚気で苦しんで死ぬ
そして子孫は族滅で最後の男の子は先祖の罪を背負って恐怖の斬首だよ
安達泰盛や後鳥羽院といった人々もあの世でニッコリしているだろうね
本当に悲惨な一族だよ おれは北条ファンだけど、そこは世の無常を感じるよ レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。