【第四十三回】太平記part.43『足利家の内紛』
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評定衆に任じられてもオレわかんねーし!とかめんどくせー!
とかで辞退してたのが御家人だよな
そういう状況だと内管領の寄合がでかい顔してもあんま文句言えないんじゃ
倒幕は純粋に利害の問題だったと思うしそのせいで南北朝gdgdに 俺の中で当時の板東武者って読み書きが不得意で政治的思考力が弱く相手に舐められたら殺す弱っても殺すとりあえず殺すというイメージがある バンデットの貞氏かw
読み書きについては、荻生徂徠が戦国期の坂東武者はきわめつけの文盲と
書いてたからその通りだろう 中世までは書状の字がやたらと美しいという話が面白かったな
その美しさ自体が力を発揮していたらしい
文字の読めない人たちには尚さら神秘的に感じだだろう 鎌倉初期は公家と坂東武士の教養や貴賤の差は絶対的だった
土建屋のおやじとキャリア官僚くらいあった
アルファベット読めない市会議員みたいなもの 良いじじいで死ぬくらいなら血しぶきの中で地獄へ堕ちるが本望だ >>273 たしか『風と雲と虹と』でもそんな場面があったね 宮廷で警護する平将門に上司の公家がしかりつけていた
「なぜ会話で『違います』と否定するのだ まず『そうですね』と肯定してから話せ!」と
たしかに関東の人間は『違います』とか『そうではありません』とか平気でつかうよね 正直であることが良いことだと思い込んでる 俺は反省した もっとはんなりとしないと >>237
執権が赤橋守時に交代しても
北条高時結構登場してるな
やっぱり得宗と言う血筋だけで北条一族のリーダー的存在なんだろうな
各出版社の漫画日本の歴史でも幕府滅亡時に
他の人間を差し置いて北条高時が残念だとか言いながら登場してるな >>259
猪突猛進の猪武者て時代を突破するにはいいかもな
新田もそんな感じか
新田に義時みたいな策略家がいれば >>276
はたから見ると病弱な高時よりも元気な弟の泰家が当主でいいじゃん
思うがやっぱ長男が得宗なんだな
そういえば高時引退後に泰家を長崎が執権にしないんで泰家が怒った
てのがあったような
さすがに得宗家の弟だと長崎も操れないんだろう
そんで庶家を執権にした
この大河では後醍醐暗殺の時に突然出てくる泰家w >>265
実際、畿内周辺の新興武士層の御家人化は結構やっているはずだよ。
ただ「御家人」という肩書き自体を一種の特権と思っている鎌倉御家人系の武士に
とっては、御家人層の拡大を快く思わない意識もあり、これも観応の擾乱の伏線になる。
まあそもそも御家人層の拡大の是非は、元寇の頃からの懸案事項だし、霜月騒動とか
鎌倉後半期の幕府の内紛にも、このことを巡る考え方の違いが背景にあるって話だけど。 >>278
泰家が執権でまとまりかけていたのを長崎が潰した
金沢が執権になるが泰家が怒っているので赤橋守時がなった。
というのが通説かな?
新田討伐軍の指揮官も泰家、分倍河原の戦い
石なんかより登場させてほしかった >>269
御成敗式目で悪口の禁止てのがあって最初は見たときは
随分礼儀正しいな思ったが単に
悪口がそのまま殺し合いに発展するからだというw 武士なんてみんな殺しあって死んでしまえばいい、的なことを石が言うシーンがあったけど、
そういう平民目線も脚本家としては捨て置けなかったんじゃないかと ただこの時代に武士と庶民の境界がどれくらいハッキリしてたのかわからないけど 戦時中は湊川の戦いが美化されすぎて玉砕や総攻撃の理由になったみたいだ 負けたイクサをみならってどうする
楠木正成を見習うのはもっと手前の部分だろ と 原作の地下人のしたたかさを持つ藤夜叉の方が好きだな 時行が長い間戦い続けられたのも得宗扱いで各地の北条氏ネットワークがバックアップしてたからなんだろうな 高氏と藤夜叉がまぐわった正中の変時の道誉の館跡は特定されてるの? 京極高辻じゃないの?
代々そこに館があると思ってたけど
それとも建武の新政後からなのかな 本拠地の方で、伊吹山中 藤川の高台って表現があるのですが、調べるとその辺りの城館跡は道誉以後らしくて…。 正成が主役なら湊川ですっきり終わるな
ただし前半生が麒麟みたいになりそうだ >>278
経時から弟の時頼に執権が変わって経時の子供達は無視されて出家した前例があるからな
高時も反対した可能性もある >>290
伊吹山の館は次の話で道誉が花夜叉一座連れていった場所だよ
時宗の輩に貸していたらボロボロにされてしまったとか言ってたところ >>291
その場合は桜井の別れの伏線回収が残るから正行(正時、正儀)はナレ死させられるのかw >>289
佐々木京極氏の「京極」は、道誉の曾祖父である初代氏信の京都での館が京極高辻に
あったことに由来するはず。
また近江源氏の嫡流である佐々木六角氏の「六角」も、初代泰綱(氏信の兄)の京都での
館が六角東洞院にあったから。
ちなみに泰綱・氏信兄弟は、北条泰時の外孫にあたる。
>>290
伊吹山中の館っていうのは、室町以降に京極氏の近江における拠点になる上平寺城の
ことだと思う。
鎌倉段階での佐々木京極氏の本拠地は、もう少し南西の彦根とか多賀大社とかがある
辺りだったように思うけど。 右馬の介って検索したら官職名なんだね これからは『右馬の介様』と呼ばないと >>297
正式な叙任じゃなくて勝手名乗りの通称名だな。
まあどちらにしても架空の人物だけど。 かつてオウム真理教が教団内部で〇〇大臣という役職を決めていたが
それって官職を勝手に名乗るという意味では、中世武士的といえるのかもしれない 足利尊氏と天皇は数百年遡れば親戚なんだけど、そういう感覚はないのかね? >>308
臣籍降下した時点でそういう感覚は切れてる
ただ一族同士の感覚は密だったみたいだな
最近の説だと新田も足利一門扱いだったらしいし >>305
受領名みたいなのが出てくるには作中時期的にまだ早い。
守護が各地で配下を増やし、支配を強め出してから恩賞として発給しだすから。 >>308
古典太平記に、我は源家累葉の貴族、王氏を出て久しからずという表現がある
尊氏の言葉ではないにせよ、時代的にそういう感覚はあったと思う 現実には平将門が6世の孫でも都に上ればあの扱いだからな
尊氏くらいの世代なら言わずもがな >>312
今の写真を見れば、おっきしたものが縮むから、そうやって醒ませや >>315
将門は5世孫。
ただ将門の時代より尊氏の時代のほうが武士の社会的地位は高い。 高師直の果たす役割がどんどん大きくなっていく後半の
ドロドロ劇はよ >>308
母系入れると親戚関係が訳分からなくなるから氏族単位で考えてたのかもね >>308
天皇との血縁関係の実際の遠さ近さより、「皇族」という身分なのかどうかというほうが重要なのでしょう。
だから例えば伏見宮家などは、南北朝期に皇統の嫡流から枝分かれして、直近の天皇から10世
以上(約400年)離れた傍系であっても、代々の当主が親王宣下を受けて皇族扱いだったから、
江戸時代後期に後桃園天皇が後継ぎを残さずに崩御したときに、皇位継承者候補に名前が上がったりした。
しかし一方で、東山天皇の皇孫が臣籍降下して養子に入って継承した五摂家のひとつ鷹司家などは、
血縁関係という点では、伏見宮家よりはるかに天皇に近かったけれども、あくまで臣籍で皇族ではなかったから、
皇位継承者候補としては全く声がかからなかった。 >>322
母親の血筋
ずっと遡ると尊氏は皇室と藤原氏の間の子になるけどそうは見ないってことかな 今の天皇陛下も60で物凄くセックスがしたい時期のはず 陛下がもっと暴れん棒になって皇室を繁栄させないと >>312
沢口靖子の容姿の全盛期はもうちょっと後の秀吉 >>324
そもそも清和源氏なんだからバリバリ男系でしょうよ 清和源氏で思い出したが、大正天皇は側室を置かずによく男系が維持できたよね
側室置いていたら清和天皇の皇子なみだったかも 将軍家も天皇家も
何で女は民間人でもよくて男は民間人は許されなかったんだろうね 子種という言葉があるように、種を持ってるのは男だけだと思われてたから
遺伝子とか、精子と卵子なんてものがあるとは知りようが無い時代
そしてその伝統を今さら変えられないのが天皇なんだろうな ヨーロッパなんかは嫁さんの身分も高いからね
日本の場合は嫁さんの身分は割と適当
特に徳川将軍家は女系の系図が作れない >>312
当時は美人女優の代名詞的存在だったよな
美少女といえばゴクミ >>330
英仏百年戦争も、女系でカロリング朝の血を引くイギリス王が、男系とはいえ傍流に過ぎなかった当時のフランス王に、フランス王位を要求したことがきっかけだったからなあ。
世界中見回しても、女系を正統とみなす風習はほとんどないな。 >>328
男系、女系じゃなくて近年だと豊臣秀頼と徳川家光は従兄弟だけどそういう風にはあまりみないでしょ?
だから普段は母の一族を考慮せずに考えてるよねって言いたかっただけ >>335
ただ民間まで王家が受け入れた国も珍しいんじゃないかな 家の発想だと男系
女系はネットワーク
だから京とか鎌倉とか狭いとこだと女系見るといろいろ
コネがわかったりする >>337
スウェーデン王室はナポレオンと敵対した
ベルナドットの子孫だな >>335
即位するのに皇女と結婚して
婿殿の立場が必要な国は多い
東ローマ帝国皇位継承も多くは婿殿
中央アジアのポストモンゴルは
チンギス・ハーンの血をひくモンゴル皇女を娶った婿殿の王国ばかり
チムールもモスクワ公国も婿殿 日本の天皇家も正室は基本的に皇族か上級貴族(摂家など)出身。
例外的に武家の棟梁家出身が2例(平徳子、徳川和子)、平民出身が2例(前皇后、現皇后)。 徳川将軍家も正室は摂家だけど世継ぎを正室が産んだケースがほとんど無い >>335
イギリスは王位を継ぐのは女系でもOKだけど
未だに貴族は例外を除いては男系のみだったりする 家光の生母は実は斎藤利三の娘だもんね
でもさすがにそれは不味いんで正室の子という事にして乳母になって育てたけど >>330
Y遺伝子は男が遺伝。それを感じとったんやろ
偉大やで 源氏も平氏も天皇家の子孫なのに
公家から尊重されるのは、初代くらいかな
将門とか義家とか為義とか、貴族の犬扱いだったし
新田が「源氏なら決起しろ」みたいな事を言ってたが
源平の戦いは
為義系統の源氏(河内源氏?)と清盛の平家との争いだから
全源氏対全平氏みたいに煽るのはミスリード? >>335
女系で受け継がれるミトコンドリアDNAなどより、男系で受け継がれるY染色体などの
ほうが、言語や民族の分布や遠近と強い相関関係があるらしいから、人間というのは
本質的に男系血縁を基軸に社会的な集団を作るものなのだろう。 >>329
それは単に男子4人産んだ貞明皇后がすごいんでは
複数側室置いても生き残ったのはほぼ皇女ばかりだった明治天皇の例もあるし 尊氏と登子の間には義詮・基氏の他にも女の子が一人できてたんだな 俺にも清和源氏や藤原摂関家みたいな気高い血が流れてるのかも...とかたまに妄想する時があるわ
先祖は間違いなく農民だろうがな 気高い血を引いた人がレイプした農民の娘の子供の子孫かも 十代前の先祖が千人ほどいることを考えると一滴くらい血が入ってる可能性が無きにしもあらず 気持ち悪い男系が強いだの
そういう輩が沸いてるな・・あー気持ち悪い
何を支持してどの団体に熱狂してるか手に取るようにわかる >>347
貴族化武家vs一所懸命武家より紅白合戦の方が物語としては都合が良い。坂東平氏がどちらに付いたかを見ればよく分かる。 >>341
一昔前のヨーロッパの場合、女系による継承がNGというより、女性が継承するのがNG
という雰囲気のほうが強い気がする。
なので、入り婿はOK(その場合子供は女系でしかそれ以前の家系と繋がらない)でも、
娘が継承者というのは避けるような。
イギリスも中世以前だと、女系継承はあっても女王は皆無だし。
フランスやドイツに至っては、近代になるまで女性君主は基本的に存在しない。
唯一の例外はマリア=テレジアだが、彼女のケースも名目上は夫のフランツ1世を
神聖ローマ皇帝に即位させている。 その点では、女系継承を忌避する意識は東アジアのほうが強いと思う。
日本でも中世だと、女系で繋がっていたとしても他姓養子は嫌がる雰囲気が公家・武家を
問わず強い。
もっとも近世になると、家の無嗣断絶を避けることが第一になって、誰彼構わず養子に
連れてくる傾向が出てくるが、それでも将軍家や歴史ある大名家なんかは、男系継承に
こだわっている。 称徳天皇が10年長生きしてたら、後の世の人たちが皇位継承で男系とか女系とか
小難しいこと考える必要もなくなったかもしれんね(´・ω・`) >>342
武家の棟梁に関しては、頼朝や尊氏も娘の入内を考えていたが、実現しなかったな。
あと天皇の正妻(皇后・中宮)は、なれる家柄が摂家・清華クラスの上級貴族に
限られてはいたが、中世・近世だと、実際にはそれよりも低いランクの家から事実上の
天皇の正妻が出ていても、正式な立后はしないだけという感じだろう。
>>347
当時は皇孫なんて無数にいるし、王氏だろうと賜姓皇族であろうと、官位が低ければ
そんなものだろう。
ただ平安中後期の武家の棟梁クラスの武士(軍事貴族)は、中下級貴族と同等レベルの
官位は獲ているけどね。 >>351
大正天皇は生まれつき病弱で長生きはできないと最初から見られていたからこそ、
とにかく若くて健康な人を皇后に連れてきたということらしいね。
そのため、貞明皇后の母方が庶民であることにも、目を瞑ったとか。
>>363
数え年57歳で亡くなった称光天皇が、仮に10年長生きしたところで、子供を儲けることは
なかったと思うが・・・? >231
麒麟もまだ桶狭間で、本能寺まで終われるのかって感じ
ベース配分が前半型な個性なんだろか 皇室の血筋なんて意味ないんだよ
中世人だって理解してることを今こだわる人ってw >>352
赤橋登子は子供を7人産んだが5人は夭折
義詮と基氏も若死してしまっているし
こうなると直冬の丈夫さが惜しいというかなんというか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています