【第四十三回】太平記part.43『足利家の内紛』
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右馬の介って検索したら官職名なんだね これからは『右馬の介様』と呼ばないと >>297
正式な叙任じゃなくて勝手名乗りの通称名だな。
まあどちらにしても架空の人物だけど。 かつてオウム真理教が教団内部で〇〇大臣という役職を決めていたが
それって官職を勝手に名乗るという意味では、中世武士的といえるのかもしれない 足利尊氏と天皇は数百年遡れば親戚なんだけど、そういう感覚はないのかね? >>308
臣籍降下した時点でそういう感覚は切れてる
ただ一族同士の感覚は密だったみたいだな
最近の説だと新田も足利一門扱いだったらしいし >>305
受領名みたいなのが出てくるには作中時期的にまだ早い。
守護が各地で配下を増やし、支配を強め出してから恩賞として発給しだすから。 >>308
古典太平記に、我は源家累葉の貴族、王氏を出て久しからずという表現がある
尊氏の言葉ではないにせよ、時代的にそういう感覚はあったと思う 現実には平将門が6世の孫でも都に上ればあの扱いだからな
尊氏くらいの世代なら言わずもがな >>312
今の写真を見れば、おっきしたものが縮むから、そうやって醒ませや >>315
将門は5世孫。
ただ将門の時代より尊氏の時代のほうが武士の社会的地位は高い。 高師直の果たす役割がどんどん大きくなっていく後半の
ドロドロ劇はよ >>308
母系入れると親戚関係が訳分からなくなるから氏族単位で考えてたのかもね >>308
天皇との血縁関係の実際の遠さ近さより、「皇族」という身分なのかどうかというほうが重要なのでしょう。
だから例えば伏見宮家などは、南北朝期に皇統の嫡流から枝分かれして、直近の天皇から10世
以上(約400年)離れた傍系であっても、代々の当主が親王宣下を受けて皇族扱いだったから、
江戸時代後期に後桃園天皇が後継ぎを残さずに崩御したときに、皇位継承者候補に名前が上がったりした。
しかし一方で、東山天皇の皇孫が臣籍降下して養子に入って継承した五摂家のひとつ鷹司家などは、
血縁関係という点では、伏見宮家よりはるかに天皇に近かったけれども、あくまで臣籍で皇族ではなかったから、
皇位継承者候補としては全く声がかからなかった。 >>322
母親の血筋
ずっと遡ると尊氏は皇室と藤原氏の間の子になるけどそうは見ないってことかな 今の天皇陛下も60で物凄くセックスがしたい時期のはず 陛下がもっと暴れん棒になって皇室を繁栄させないと >>312
沢口靖子の容姿の全盛期はもうちょっと後の秀吉 >>324
そもそも清和源氏なんだからバリバリ男系でしょうよ 清和源氏で思い出したが、大正天皇は側室を置かずによく男系が維持できたよね
側室置いていたら清和天皇の皇子なみだったかも 将軍家も天皇家も
何で女は民間人でもよくて男は民間人は許されなかったんだろうね 子種という言葉があるように、種を持ってるのは男だけだと思われてたから
遺伝子とか、精子と卵子なんてものがあるとは知りようが無い時代
そしてその伝統を今さら変えられないのが天皇なんだろうな ヨーロッパなんかは嫁さんの身分も高いからね
日本の場合は嫁さんの身分は割と適当
特に徳川将軍家は女系の系図が作れない >>312
当時は美人女優の代名詞的存在だったよな
美少女といえばゴクミ >>330
英仏百年戦争も、女系でカロリング朝の血を引くイギリス王が、男系とはいえ傍流に過ぎなかった当時のフランス王に、フランス王位を要求したことがきっかけだったからなあ。
世界中見回しても、女系を正統とみなす風習はほとんどないな。 >>328
男系、女系じゃなくて近年だと豊臣秀頼と徳川家光は従兄弟だけどそういう風にはあまりみないでしょ?
だから普段は母の一族を考慮せずに考えてるよねって言いたかっただけ >>335
ただ民間まで王家が受け入れた国も珍しいんじゃないかな 家の発想だと男系
女系はネットワーク
だから京とか鎌倉とか狭いとこだと女系見るといろいろ
コネがわかったりする >>337
スウェーデン王室はナポレオンと敵対した
ベルナドットの子孫だな >>335
即位するのに皇女と結婚して
婿殿の立場が必要な国は多い
東ローマ帝国皇位継承も多くは婿殿
中央アジアのポストモンゴルは
チンギス・ハーンの血をひくモンゴル皇女を娶った婿殿の王国ばかり
チムールもモスクワ公国も婿殿 日本の天皇家も正室は基本的に皇族か上級貴族(摂家など)出身。
例外的に武家の棟梁家出身が2例(平徳子、徳川和子)、平民出身が2例(前皇后、現皇后)。 徳川将軍家も正室は摂家だけど世継ぎを正室が産んだケースがほとんど無い >>335
イギリスは王位を継ぐのは女系でもOKだけど
未だに貴族は例外を除いては男系のみだったりする 家光の生母は実は斎藤利三の娘だもんね
でもさすがにそれは不味いんで正室の子という事にして乳母になって育てたけど >>330
Y遺伝子は男が遺伝。それを感じとったんやろ
偉大やで 源氏も平氏も天皇家の子孫なのに
公家から尊重されるのは、初代くらいかな
将門とか義家とか為義とか、貴族の犬扱いだったし
新田が「源氏なら決起しろ」みたいな事を言ってたが
源平の戦いは
為義系統の源氏(河内源氏?)と清盛の平家との争いだから
全源氏対全平氏みたいに煽るのはミスリード? >>335
女系で受け継がれるミトコンドリアDNAなどより、男系で受け継がれるY染色体などの
ほうが、言語や民族の分布や遠近と強い相関関係があるらしいから、人間というのは
本質的に男系血縁を基軸に社会的な集団を作るものなのだろう。 >>329
それは単に男子4人産んだ貞明皇后がすごいんでは
複数側室置いても生き残ったのはほぼ皇女ばかりだった明治天皇の例もあるし 尊氏と登子の間には義詮・基氏の他にも女の子が一人できてたんだな 俺にも清和源氏や藤原摂関家みたいな気高い血が流れてるのかも...とかたまに妄想する時があるわ
先祖は間違いなく農民だろうがな 気高い血を引いた人がレイプした農民の娘の子供の子孫かも 十代前の先祖が千人ほどいることを考えると一滴くらい血が入ってる可能性が無きにしもあらず 気持ち悪い男系が強いだの
そういう輩が沸いてるな・・あー気持ち悪い
何を支持してどの団体に熱狂してるか手に取るようにわかる >>347
貴族化武家vs一所懸命武家より紅白合戦の方が物語としては都合が良い。坂東平氏がどちらに付いたかを見ればよく分かる。 >>341
一昔前のヨーロッパの場合、女系による継承がNGというより、女性が継承するのがNG
という雰囲気のほうが強い気がする。
なので、入り婿はOK(その場合子供は女系でしかそれ以前の家系と繋がらない)でも、
娘が継承者というのは避けるような。
イギリスも中世以前だと、女系継承はあっても女王は皆無だし。
フランスやドイツに至っては、近代になるまで女性君主は基本的に存在しない。
唯一の例外はマリア=テレジアだが、彼女のケースも名目上は夫のフランツ1世を
神聖ローマ皇帝に即位させている。 その点では、女系継承を忌避する意識は東アジアのほうが強いと思う。
日本でも中世だと、女系で繋がっていたとしても他姓養子は嫌がる雰囲気が公家・武家を
問わず強い。
もっとも近世になると、家の無嗣断絶を避けることが第一になって、誰彼構わず養子に
連れてくる傾向が出てくるが、それでも将軍家や歴史ある大名家なんかは、男系継承に
こだわっている。 称徳天皇が10年長生きしてたら、後の世の人たちが皇位継承で男系とか女系とか
小難しいこと考える必要もなくなったかもしれんね(´・ω・`) >>342
武家の棟梁に関しては、頼朝や尊氏も娘の入内を考えていたが、実現しなかったな。
あと天皇の正妻(皇后・中宮)は、なれる家柄が摂家・清華クラスの上級貴族に
限られてはいたが、中世・近世だと、実際にはそれよりも低いランクの家から事実上の
天皇の正妻が出ていても、正式な立后はしないだけという感じだろう。
>>347
当時は皇孫なんて無数にいるし、王氏だろうと賜姓皇族であろうと、官位が低ければ
そんなものだろう。
ただ平安中後期の武家の棟梁クラスの武士(軍事貴族)は、中下級貴族と同等レベルの
官位は獲ているけどね。 >>351
大正天皇は生まれつき病弱で長生きはできないと最初から見られていたからこそ、
とにかく若くて健康な人を皇后に連れてきたということらしいね。
そのため、貞明皇后の母方が庶民であることにも、目を瞑ったとか。
>>363
数え年57歳で亡くなった称光天皇が、仮に10年長生きしたところで、子供を儲けることは
なかったと思うが・・・? >231
麒麟もまだ桶狭間で、本能寺まで終われるのかって感じ
ベース配分が前半型な個性なんだろか 皇室の血筋なんて意味ないんだよ
中世人だって理解してることを今こだわる人ってw >>352
赤橋登子は子供を7人産んだが5人は夭折
義詮と基氏も若死してしまっているし
こうなると直冬の丈夫さが惜しいというかなんというか >>368
直冬長生きしすぎで晩年の動向は謎だけどどんな胸中だったんだろな >>310
また適当な事言ってんのか、偏差値50め
尊氏の手本、トモちんはどう考えいたのか調べろ
源頼朝、伊勢神宮願文
これを書いている年月日は、治承6年(1182)2月8日己酉の吉日です。
良いお日柄を選んで前右兵衛佐從五位下源朝臣頼朝が、切り紙で作った御幣と砂金・神馬などを捧げ神へ奉納の為に持って、天照大神の前に敬いでおののきながら、申し上げます。
頼朝は、先祖を調べてみれば、神武天皇が初めて日本の国を豊葦原水穂に起源を起して56代目にあたる清和天皇の三代目の孫から武芸者になり
国家を守り、近衛の役人として朝廷の権威を高めました。それ以来、朝廷に逆らう部族たちを征伐した手柄によって、賞に預かることによって、身に余る武勇の名がとどろきました。
そのお陰で日本が無事なので、蓄えも充分に増えて、三百年も安泰だったわけです。
保元の時代から京都内で戦乱が起きました。当事者達は、殷王朝を建国した湯王のような事も考えず、國を守る立場であることを覚えておらず、正義の区別も無しに、賞罰を申し行っていましたが、平治の乱の際に頼朝は罪が無いのに罪人にされました。
愁いや鬱憤をこらえて、歳月を送っているところに、清盛が強くて勇ましい連中に徒党を組ませ、一昨年の秋に頼朝を殺してしまおうとした時に、天から運を授かったので、野蛮な連中の矢を逃れられました。
元々、正しい行いなので神様の助けがあったのです。それなのにあの清盛は、反対に頼朝が謀反人であると朝廷を驚かしました。すぐにそれは、事実でないと弁明する機会が無くて、ただ天に祈るばかりでしたが、京都では騒ぎがおさまりませんで、戦乱が拡大してゆきました。
その中でも聖武天皇が草創された国家鎮護の地を決めた後、400年も経ったのに、そのお寺を燃やしてしまった事は、大勢の人が悲しまない事はありません。
しかも朝廷を牛耳って、郡や郷の農民をダメにしてしまう。これこそが謀反と云えない事は無いだろうか。そして清盛は死んでしまったが、神様が不快に思っていた事が、はっきりと露見したわけです。
それでも頼朝が心配しているのは、噂の様に熊野の武者僧だといって、悪巧みを働く連中です。去年の正月に伊勢神宮の末社の伊雜宮に乱入して、御殿を壊し、神宝を盗みました。
このために、御神体を伊勢神宮の側の五十鈴川河畔に仮に遷宮したと言うことだそうです。
又同じ月に、伊勢神宮の内宮外宮の建物の近所の人達の家へ押し入って財産を探してまで盗り、住宅に火をつけられた時、神主達は怯えて宮中に来て大騒ぎをしました。
この二つの事件に頼朝は全く係わらないことを、神様の判断を仰ぐわけです。ちょうど今、無事に京都への入洛を決め、天皇の敵をふさぎ、世の中を元のように一人の法皇に任せました。
禹王(夏王朝の始祖・禹王は民のため治水事業に没頭し、体を壊したほどだという。)の民を慈しむ心を思い出し、神様を祭ることもきちんとやり、正しい昔の習慣を継続します。
それが、平家であろうと源氏であろうと、正しくないものを罰して、忠義なものに褒美を与えますように。
ついでながら、古今の例を調べて、内宮外宮の両方の宮に領地を寄付して、伊雑宮を立て直し、神宝を寄付しようと誓います。東国の領地につきましては、前の通りに間違いなくするように、内宮外宮の書いて出したとおりに、私が命令書を書いて年貢を免除しましょう。絶対に間違えないようにします。
伊勢の皇太神宮様、この手紙をよく読み納めて、上は政治をする天皇から、下は百姓庶民に至るまで、安全で平和に守ってもらえますように、頼朝とその家来達まで夜も昼も守っていただけますように、かしこまって申し上げます。
治承6年2月8日 前の右近衛の次官で従五位下 源朝臣頼朝 義詮も基氏も直系で次に繋がったんだから良しとしないと
足利将軍家は中々の繁殖力なんだよな
まあ候補が多いから揉めるという面もあるんだけど >>347
源氏会河内一家頼義組
七代目組長 頼朝
が義光組と義国組と義賢組を従えて河内一家総帥となりその勢いで多田一家や近江一家など他の一家を従えて源氏会会長になり上がるのが鎌倉幕府
源氏会は若頭の北条義時に実権取られるけど義国組内足利組が源氏会を取り返すのが室町幕府
内紛でボロボロになった源氏会を義国組内新田組の構成員と名乗る男が乗っ取るのが江戸幕府
こんな風にイメージしてる 鎌倉幕府には宮将軍が大勢いるのに何故征夷大将軍は源氏しかなれないという俗説が広まったのかな >>362
乳幼児の養子の場合
氏も養家に変更してた
鎌倉摂家将軍だった藤原頼経は源氏への改氏も検討されてた >>374
坂上田村麻呂は源氏だったんだよ
なっなんだってー! >>374
むしろ鎌倉後期だと、征夷大将軍は基本的に親王というイメージだったはず。
だから倒幕戦の過程で畿内周辺の新興武士の道徳観のようになっていた護良を将軍にした
こと自体も後醍醐天皇にとっては大きな妥協だし、将軍の肩書きを要求した護良に対する
天皇自身の警戒心もかなり強かったはず。 松平健の高杉晋作「よっ!征夷大将軍!!」
「それはお前のことだろー」と突っ込みできるのを日テレ奇兵隊では気付かなかった。 もともと北条が箔付したんだよね征夷大将軍
頼朝はちょっとしかついてないし頼家もしかり
頼家追い出して実朝に跡目継がせる口実ないから
征夷大将軍に任命させて鎌倉殿だぞ!てやった
実朝死後も将軍不在だったが政子死んで幕府の箔付に頼経元服させて征夷大将軍にした
鎌倉時代の将軍職がお飾りなのも当然 >>370
吉川弘文館の人物叢書「足利直冬」を読むといい
品切れだったが、去年重版された >>378
第7代将軍の惟康親王は将軍在位期間はほとんど
臣籍降下してて
源惟康だったのだが 頼朝の征夷大将軍猟官運動って
義家以来の怨恨と悲願の地奥州を攻めるための
本当の意味での「征夷」の大義のためだからな
実際にもらったのは討伐後だけどな。
その後は頼朝も頼家もこの地位は大切にしてたかっていうと何とも言えんよな 征夷大将軍は箔付けでしょ 『鎌倉殿』だけでは説得できない武士たちも、天皇の名代である将軍なら従わぜるえない というかんじか 関東の武士は権威に弱い 征夷のほうはどうでもよくて必要なのは「大将軍」号だったんだが >>385
本当だ、wikiにも書いてある
>つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で
それも太字で たしか中先代の乱を鎮めるために尊氏が征夷大将軍をのぞむシーンがあったよね
でも認められなかった
征夷大将軍とは他の大将軍と違ってそれほどまでに重要な官職なのか 鎌倉幕府前はそれほど重要じゃないのよ
頼朝がどれにしようかな、てやってたように
鎌倉幕府が天下をとって以降は特別な意味を持つようになったのね >>388>>385
将軍と大将軍というのはどう違うの?
征夷が太平洋側、鎮てきが日本海側を進軍したの聞いてたけど
どっちもただの将軍だったような 人に聞いておいてスミマセンが、官職の名前だけの違いか
大をつけるかどうか、大将軍だとちょっと上級な感じはするね 尊氏が欲しがったのは
征夷大将軍を鎌倉に置かないと反乱祭りは終わらないっからだとおもうけど
幕府復活なんて後醍醐の構想外だからなあ 清和源氏で鎌倉期は北条氏との婚姻を繰り返してた足利は立場上どうしても鎌倉幕府を意識せざるを得なかった
自分が立ち上がらないと建武の新政に不満を持つ武士達が時行に殺到して第二次北条政権になってたかもしれん >>388
北条残党を鎮圧するために鎌倉に下る尊氏が征夷大将軍をのぞむのは
たしかに納得できますね >>382
将軍退任時に親王だったのなら、親王として記憶されているんじゃないか?
官位なんかもその人の最終的な極官で記憶されていくのが普通なわけで。
>>389
>>390
北畠顕家が鎮守府将軍に任命された際に、自分を任命するなら官名を鎮守府大将軍に
変えてくれと言ってゴネる話があるな。
>>394
せめて征東大将軍なら良かったかもね。 そういや今の総理は1000年前の後三年の役で、朝廷と真っ向から対立した古代豪族の末裔を称しとるな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています