【第四十三回】太平記part.43『足利家の内紛』
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>>352
赤橋登子は子供を7人産んだが5人は夭折
義詮と基氏も若死してしまっているし
こうなると直冬の丈夫さが惜しいというかなんというか >>368
直冬長生きしすぎで晩年の動向は謎だけどどんな胸中だったんだろな >>310
また適当な事言ってんのか、偏差値50め
尊氏の手本、トモちんはどう考えいたのか調べろ
源頼朝、伊勢神宮願文
これを書いている年月日は、治承6年(1182)2月8日己酉の吉日です。
良いお日柄を選んで前右兵衛佐從五位下源朝臣頼朝が、切り紙で作った御幣と砂金・神馬などを捧げ神へ奉納の為に持って、天照大神の前に敬いでおののきながら、申し上げます。
頼朝は、先祖を調べてみれば、神武天皇が初めて日本の国を豊葦原水穂に起源を起して56代目にあたる清和天皇の三代目の孫から武芸者になり
国家を守り、近衛の役人として朝廷の権威を高めました。それ以来、朝廷に逆らう部族たちを征伐した手柄によって、賞に預かることによって、身に余る武勇の名がとどろきました。
そのお陰で日本が無事なので、蓄えも充分に増えて、三百年も安泰だったわけです。
保元の時代から京都内で戦乱が起きました。当事者達は、殷王朝を建国した湯王のような事も考えず、國を守る立場であることを覚えておらず、正義の区別も無しに、賞罰を申し行っていましたが、平治の乱の際に頼朝は罪が無いのに罪人にされました。
愁いや鬱憤をこらえて、歳月を送っているところに、清盛が強くて勇ましい連中に徒党を組ませ、一昨年の秋に頼朝を殺してしまおうとした時に、天から運を授かったので、野蛮な連中の矢を逃れられました。
元々、正しい行いなので神様の助けがあったのです。それなのにあの清盛は、反対に頼朝が謀反人であると朝廷を驚かしました。すぐにそれは、事実でないと弁明する機会が無くて、ただ天に祈るばかりでしたが、京都では騒ぎがおさまりませんで、戦乱が拡大してゆきました。
その中でも聖武天皇が草創された国家鎮護の地を決めた後、400年も経ったのに、そのお寺を燃やしてしまった事は、大勢の人が悲しまない事はありません。
しかも朝廷を牛耳って、郡や郷の農民をダメにしてしまう。これこそが謀反と云えない事は無いだろうか。そして清盛は死んでしまったが、神様が不快に思っていた事が、はっきりと露見したわけです。
それでも頼朝が心配しているのは、噂の様に熊野の武者僧だといって、悪巧みを働く連中です。去年の正月に伊勢神宮の末社の伊雜宮に乱入して、御殿を壊し、神宝を盗みました。
このために、御神体を伊勢神宮の側の五十鈴川河畔に仮に遷宮したと言うことだそうです。
又同じ月に、伊勢神宮の内宮外宮の建物の近所の人達の家へ押し入って財産を探してまで盗り、住宅に火をつけられた時、神主達は怯えて宮中に来て大騒ぎをしました。
この二つの事件に頼朝は全く係わらないことを、神様の判断を仰ぐわけです。ちょうど今、無事に京都への入洛を決め、天皇の敵をふさぎ、世の中を元のように一人の法皇に任せました。
禹王(夏王朝の始祖・禹王は民のため治水事業に没頭し、体を壊したほどだという。)の民を慈しむ心を思い出し、神様を祭ることもきちんとやり、正しい昔の習慣を継続します。
それが、平家であろうと源氏であろうと、正しくないものを罰して、忠義なものに褒美を与えますように。
ついでながら、古今の例を調べて、内宮外宮の両方の宮に領地を寄付して、伊雑宮を立て直し、神宝を寄付しようと誓います。東国の領地につきましては、前の通りに間違いなくするように、内宮外宮の書いて出したとおりに、私が命令書を書いて年貢を免除しましょう。絶対に間違えないようにします。
伊勢の皇太神宮様、この手紙をよく読み納めて、上は政治をする天皇から、下は百姓庶民に至るまで、安全で平和に守ってもらえますように、頼朝とその家来達まで夜も昼も守っていただけますように、かしこまって申し上げます。
治承6年2月8日 前の右近衛の次官で従五位下 源朝臣頼朝 義詮も基氏も直系で次に繋がったんだから良しとしないと
足利将軍家は中々の繁殖力なんだよな
まあ候補が多いから揉めるという面もあるんだけど >>347
源氏会河内一家頼義組
七代目組長 頼朝
が義光組と義国組と義賢組を従えて河内一家総帥となりその勢いで多田一家や近江一家など他の一家を従えて源氏会会長になり上がるのが鎌倉幕府
源氏会は若頭の北条義時に実権取られるけど義国組内足利組が源氏会を取り返すのが室町幕府
内紛でボロボロになった源氏会を義国組内新田組の構成員と名乗る男が乗っ取るのが江戸幕府
こんな風にイメージしてる 鎌倉幕府には宮将軍が大勢いるのに何故征夷大将軍は源氏しかなれないという俗説が広まったのかな >>362
乳幼児の養子の場合
氏も養家に変更してた
鎌倉摂家将軍だった藤原頼経は源氏への改氏も検討されてた >>374
坂上田村麻呂は源氏だったんだよ
なっなんだってー! >>374
むしろ鎌倉後期だと、征夷大将軍は基本的に親王というイメージだったはず。
だから倒幕戦の過程で畿内周辺の新興武士の道徳観のようになっていた護良を将軍にした
こと自体も後醍醐天皇にとっては大きな妥協だし、将軍の肩書きを要求した護良に対する
天皇自身の警戒心もかなり強かったはず。 松平健の高杉晋作「よっ!征夷大将軍!!」
「それはお前のことだろー」と突っ込みできるのを日テレ奇兵隊では気付かなかった。 もともと北条が箔付したんだよね征夷大将軍
頼朝はちょっとしかついてないし頼家もしかり
頼家追い出して実朝に跡目継がせる口実ないから
征夷大将軍に任命させて鎌倉殿だぞ!てやった
実朝死後も将軍不在だったが政子死んで幕府の箔付に頼経元服させて征夷大将軍にした
鎌倉時代の将軍職がお飾りなのも当然 >>370
吉川弘文館の人物叢書「足利直冬」を読むといい
品切れだったが、去年重版された >>378
第7代将軍の惟康親王は将軍在位期間はほとんど
臣籍降下してて
源惟康だったのだが 頼朝の征夷大将軍猟官運動って
義家以来の怨恨と悲願の地奥州を攻めるための
本当の意味での「征夷」の大義のためだからな
実際にもらったのは討伐後だけどな。
その後は頼朝も頼家もこの地位は大切にしてたかっていうと何とも言えんよな 征夷大将軍は箔付けでしょ 『鎌倉殿』だけでは説得できない武士たちも、天皇の名代である将軍なら従わぜるえない というかんじか 関東の武士は権威に弱い 征夷のほうはどうでもよくて必要なのは「大将軍」号だったんだが >>385
本当だ、wikiにも書いてある
>つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で
それも太字で たしか中先代の乱を鎮めるために尊氏が征夷大将軍をのぞむシーンがあったよね
でも認められなかった
征夷大将軍とは他の大将軍と違ってそれほどまでに重要な官職なのか 鎌倉幕府前はそれほど重要じゃないのよ
頼朝がどれにしようかな、てやってたように
鎌倉幕府が天下をとって以降は特別な意味を持つようになったのね >>388>>385
将軍と大将軍というのはどう違うの?
征夷が太平洋側、鎮てきが日本海側を進軍したの聞いてたけど
どっちもただの将軍だったような 人に聞いておいてスミマセンが、官職の名前だけの違いか
大をつけるかどうか、大将軍だとちょっと上級な感じはするね 尊氏が欲しがったのは
征夷大将軍を鎌倉に置かないと反乱祭りは終わらないっからだとおもうけど
幕府復活なんて後醍醐の構想外だからなあ 清和源氏で鎌倉期は北条氏との婚姻を繰り返してた足利は立場上どうしても鎌倉幕府を意識せざるを得なかった
自分が立ち上がらないと建武の新政に不満を持つ武士達が時行に殺到して第二次北条政権になってたかもしれん >>388
北条残党を鎮圧するために鎌倉に下る尊氏が征夷大将軍をのぞむのは
たしかに納得できますね >>382
将軍退任時に親王だったのなら、親王として記憶されているんじゃないか?
官位なんかもその人の最終的な極官で記憶されていくのが普通なわけで。
>>389
>>390
北畠顕家が鎮守府将軍に任命された際に、自分を任命するなら官名を鎮守府大将軍に
変えてくれと言ってゴネる話があるな。
>>394
せめて征東大将軍なら良かったかもね。 そういや今の総理は1000年前の後三年の役で、朝廷と真っ向から対立した古代豪族の末裔を称しとるな 前9年だったな
朝廷に明確に対立の意を示したのって他に誰がいるかな 頼朝が意識してたのは頼義だろ
関東だけでなく奥州も制したんだから鎮守府将軍よりも上の大将軍の位を欲しただけ
んで色々あった大将軍から吉例の征夷大将軍を選んだ >>395
惟康親王は源家将軍として在位期間のほとんどを
御家人に対して君臨してたわけだが >>397
大国主命関連、磐井の乱、承平天慶の乱、阿弖流為の乱、承久の乱とか?
あとは我らが足利尊氏もw なんか反乱征伐に向かわせた足利尊氏と新田義貞がいつのまにやら倒幕軍となってかえってくる このあたりの心境の変化はなんかわかる気がする AA文化がまだあった頃の風林火山のopの聖歌隊前へ!!→ジャムパンあんぱん歌うAAとかのくっせー流れがすきだったわ さて、まもなく放送ですな
いよいよ、楠木正成の赤坂城の戦いが始まる 足利尊氏とか、あの時代の位の高い人達は毎日何を食べてたんだろう?粥を食べてるシーンしな見たことないわ >>410
お粥か蒸籠で蒸したおこわでしょ
今みたいなお米の炊き方はもっと後の時代から 移動時や合戦前後は消化がよくて作りやすい粥が多いのやろ
武士って普段でも合戦の準備してる生活してるようなものやから 第十三回「攻防赤坂城」
高氏たちは叔父の上杉憲房邸に滞在していた。そこへ北畠顕家と名乗る少年公家が一人で訪ねてきて、
高氏に面会を求める。憲房は顕家が後醍醐帝の側近中の側近・北畠親房の息子であることを教え、高氏
に「用心めされませ」と言う。高氏が廊下を進むと、庭で大高重成たち家臣が弓を手に騒いでいる。何事か
と高師直に 聞くと、顕家が彼らの弓を見てあざ笑ったので腕比べをすることになったのだという。的(まと)
が見あたらないので高氏が師直に尋ねると、なんと松の枝に糸 でつるした一本の針が的だと教えられて
高氏は驚く。大高が三度外した後で、顕家が弓に矢をつがえた。狙いが定まると顕家は静かに目を閉じ、
矢を放った。矢 は見事に針を射落とし、大高たちや高氏は驚嘆する。 急に左上の時刻表示が無くなっててびっくりした
ただのミスか苦情がたくさん来て対処したのか >>411
おこわかー
普段は、おかずは何食べてんだろう?
卵焼きはあの時代ないよね?
味噌汁に焼き魚とか?焼き魚はいわしとか鮭か? 鎌倉時代 室町時代 食事
で検索すればたくさん出てくる 鎌倉政権…長崎親子が私腹を肥やす
後醍醐政権…公家共が私腹を肥やす
尊氏政権…腹違いのコが暴れる、弟が反発、高師直兄弟が私腹を肥やす
そして尊氏が全て一掃。一年間通してストーリーが完結しているクオリティーの高いドラマだったな 直義は毎回「ぅあにうええぇぇぇ」と登場している。
が、いつも重要なことは教えてもらえない >>414
顕家は顔は美しいのだがいかんせん、後藤久美子が年齢的に一番体型が女になっている時期だったので
尻をみるとどうしても男に見せるのに無理があった。
オファーした時期はまだ少女然としていたんだろうけど。 ゴクミが男役やったの良かったと思うけど
別に尻なんて気にしてみてないし ゴクミって三浦和友と結婚した人だっけ?
今もファンが多いって聞いたことある >>427
三浦友和は山口百恵
ゴクミの夫はジャンアレジ
F1ドライバーだった 女が男役やる難しさは感じた
本人曰く「お姫様」をやっていたら誰だったのか気になる。 笠置落城は、結局、正成の進言で守りを手薄にしたのは失策だったんじゃ
ああも簡単に笠置が落城して帝が捕らえられたら意味無い
正成党だけでも笠置に居残って帝を守れば良かったのに 帝は捕まったからって殺されないから別段どうでもいいってのはある
実際配流先から帰ってきたするわけだし 独眼竜→太平記のゴクミはいいんだが
太平記→元禄繚乱の宮沢りえはキツイものがある >>432
独眼竜のゴクミはあれでいいがな
元禄繚乱の宮沢りえはガリガリやったからなあ 時刻表示なくなったな
要望出してよかった
しかしそれなら初回からなくしてくれればいいものを >>284
『毛利元就』の尼子経久やけどね。判官殿の子孫。 >>326
今のご時勢で、側室を持つなんて考えは想定外なのがキツイところ。。。 >>431
帝に付いて挙兵して笠置山に集まった連中は神輿を失うやんか >>379
このシーンは『新選組!』でもあったね。
慎吾ちゃんの近藤勇が血相を変えたw >>430
正成の赤坂城だって落城したし、あの段階では宮方に勝ち目なし。 >>429
先週の独眼竜回帰特番で、愛姫やった数年後が顕家w
大河の裏だった『西遊記』の夏目雅子さんの三蔵は
美しさを保っての男役ハマったけどね。 今日も面白かったけど、主役級ではない役者のレベルが危なっかしい。
これはやっぱり相当なキズではないの。興を削がれてしまう。
それとクドくて済まぬが、兄上ーーー(怒)のワンパターンで激情型の直義は疑問。 ゴクミ顕家はナイスキャスティングだと思うね。
今やったら盛大に突っ込まれるだろうが。
今の大河であれば攻撃仕掛けるだろうおたくらが、至って鷹揚なのは不思議ですけど。 今朝の回を見直して、気づいたこと。
今まで、正成の息子は多聞丸(正行)しか出ていないと思ってたが、
楠木の屋敷を一族郎党が出ていく時に、幼少の正時と正儀が出てたのね。
侍女たちが連れようとしてるシーンを見落としてた。 後藤久美子は見た目はいいけど演技が酷すぎる
赤井英和、筒井道隆、柳葉敏郎、後藤久美子の4人の場面は萎える >>444
正時の「弟はつまらんものじゃああああ」の声が届いたんじゃないのかな? ゴクミ顕家は死ぬ時も超絶ダイコンだったからなw
近藤正臣との落差がキツかった記憶 貴公子を希代の美少女が演じたのだから、演技力については目を瞑りたい。
女が男を演ずる挑戦自体は悪くない。
同じ貴公子でも大塔宮の方がちょっとなー。 >>327
石ことギバちゃんの秀吉でもお市の方&淀君をやった
ちな浅井長政が足利尊氏で柴田勝家が桃井直常w >>442
>激情型の直義は疑問。
番宣で「熱血漢の弟」って言ってたからキャラ設定上外せないんでしょうな
逆に師直のほうがクールなんだよな
後にバサラ寄りになってくるけど 鎌倉幕府はあたまがいいな まずあらたな天皇をたてる そして後醍醐の大義名分を奪う 長崎殿のさしずでしょうか 後に赤松円心が尊氏に同じ方法を勧めるんだよな
しかもそれが結構効果があるところが日本史の不思議でもある
ただ単に力があるだけでは駄目なんだよな >>418
風林火山の虎王丸は美男子だったのに
柄本明の息子になってブサイクでがっかりした
真田広之が白拍子の宮沢りえに産ませた男の子は
成人して再登場するんですか
さぞかしイケメンの俳優さんが演じるんでしょうなあ〜
楽しみです >>453
尊氏もそうだけど、直義も序盤と終盤では別人か?というくらい全然演技が違うから、
あえて若年期と熟年期で差をつける演出という部分もあるのでは?
>>454
そもそも文保の和談のときの、在位は10年までという約束を無視して後醍醐帝が帝位に
しがみついている状態で、あの事態になったのだから、量仁親王(光厳帝)の登極に
幕府が動くのは、当然といえば当然だよ。 >>456
筒井道隆だよ
去年の白い巨塔で菊川教授やってた人 >>456は皮肉で書いているんでしょw 確かにイケメンではあるけど 始まる直前の二万人に今登りたい山緊急アンケート、京に来た幕府軍二万人に聞いたら笠置山がトップになるなと思ったw >>445
後世の結果を見てその時の判断の正否を考える方が愚かと思うが >>461
後醍醐は捕まったけど他の山城に籠る奴は戦いを継続して最終的に勝ったわけだ。
で、君は何を問題にしたいの? 平家が安徳担いで逃げたら京で新たに後鳥羽天皇たてた
だいたいそのやり方をとるのがパターンだよね その対策で天皇の候補者も殆ど連れ去るという暴挙に出ても残ってた皇族でで即位されたと
河内源氏の親戚族滅は正しかった >>448
顕家戦死を告げに来た武士を追い払い、「和泉のどこじゃと申した!」と叫んで落涙する親房は、
大河史上に残る名演だと思う。いうなれば、足でピアノを弾く以上に! 服部(後醍醐方)vs柳生(幕府方)だったとは驚いた。 >>403
この流れでシレッとレスしやがってw
>>412
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