>>403
比企藤内能宗は『山槐記』に「藤朝宗」として内舎人補任記事があり、「藤内」の名乗りの裏付けがあり、
内乱以前に任官していたことが分かります。
また、『吾妻鏡』にも22回所見があり、範頼従軍関係記事に於いて、
常に能員に上位して表記されています。
北陸道勧農使は後の守護につながる職務であり、単に一国ではなく、
道に渡る広域権限を与えられたことは、頼朝の信頼を証拠付け、
かつそれだけの実力を有した御家人であることを示しています。
ですから、中世史の故石井進氏は比企掃除允の弟説を唱えたのです。