【第四十七回】太平記part.47『将軍の敗北』
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坂にいる敵の主力防衛部隊を別部隊で攻撃させてそちらを総攻撃と見せかけ敵を引き付ける
また山?に火をかけて敵の船団もそちらに牽制するってのもドラマでなかったけ? >>86
戦前育ちのジジイやん
推論だけで裏付け史料もない
引き潮を伴う地震があったなら記述のひとつもあるはず
可能性の一つとしか書いてない事思い込むのはいかがなものか
突発的な地殻変動や地震といった自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した[75]。 通れる、通れないって話なら警戒用の船団を配置してるってことで通れるって判断が鎌倉側にあったと思ったな
あくまでドラマでの話ね 源頼朝が幕府を開いたころは通れなかった。
それが150年の間に海退期に入り、大潮の前後は通れるようになった。
それは幕府軍も承知なので(防衛の穴なので)、強固な防衛網を築いた。
大舘宗氏はそれを突破したが、潮が満ちて戻れなくなって打ち取られた。
戦死後に総大将の義貞がみずから極楽寺方面の指揮に当たる。
そして21日夜・・・ >>101
新月・満月=大潮
上弦・下弦=小潮
潮の干満が最も大きくなる大潮から最も小さくなる小潮までは概ね7日程度
15日前後とはいってもせいぜい14〜16日辺りまでで3日もズレた18日を大潮の範疇に入れるのは無理がある
>>104
さらにいえばその通れることを警戒して北条側が配置した軍船から
大量の矢を射かけられて大舘は戦死した
ただ大舘が通れること自体は身をもって実証したから
別動隊の攻撃と放火で敵の目をそらした上で稲村ヶ崎を通る作戦を思い立ったという流れ >>76
>東日本橋大震災
すっごい狭い範囲で大震災とかいろいろ想像する 本放送の年に中世内乱史研究会が実際に同じコースを歩いて実験していた。
大潮の日を選んで計4回。結果は浅いところでくるぶし、深いところで膝まで。 同じ実験を個人的にやってズボンのポケットに入れてた携帯をダメにした知り合いがいる 地震スレになっててワロタ
まぁそれって神国思想忠臣新田に
天も味方したんじゃーバンザーイって学者の説だろ >>112
まあただ足下が見えない夜間だからな
多分義貞はこれ以前に明るい時間帯に稲村ヶ崎に来たことがあって
大体どういう地形になってるのか分かってた可能性が高いと思う でも化粧坂があんな広々としてないだろ
と見るたびに突っ込んでしまう
どこの石切場だよみたいな 吉川英治…22日をしれっと大潮に設定。
新田次郎…大潮が過ぎて悪天候の22日は北条軍の警戒が緩むと読み、波をかぶる岬回りの悪路を突破。
安倍龍太郎…直前に馬の子づくりを見物し、側室の女武者の生理から22日が大潮だと知る。
作家によって個性が出るもんだな。 >>120
詳しいな。
岬から立てに堀切のように切れ目が入っているそうだ。
人工物か自然物かは判別出来なかったそうだけど。 >>122
あの貧乏御家人の新田が英雄?
みんなどうかしてるのではないか? 相手主力を主攻と思わせ引き付けて、絡めてから一気に背後に回る→ナチスドイツのフランス侵攻のよう
天候から来ないと予想されるのに攻めに出る→連合軍のノルマンディ上陸のよう
これほど見事な作戦家なのに、京都に昇ってからの情けなさ…
決起から鎌倉攻めは勝れた軍師がいたんですかね?
ドラマでは岩松さんに思えるけどね 英雄たちの選択の新田義貞回は面白かったよ
思いがけず政治の舞台に立たされて尊氏の対抗馬にされた普通の人物の悲哀というスタンスだった >>124
ろっ六波羅はどうでも良い!それより鎌倉じゃ… >>125
ナポレオンと通じるものがあると、「太平記」漫画版の解説にもあったけど。
建武以降は悉く敗戦といえば敗戦だが、ただし局地的にはけっこう勝ってはいるし、
義貞がいなければ尊氏の一度目の上洛で終わっている。
問題は建武以降は上に親王やそれにくっついて来る公卿がおり、それが行軍にも戦闘にも大きく影響を与えたこと。
特に箱根・竹之下は二条為冬がいなければ勝っているだろう。ドラマではなかったと思うが。 >>121
そもそも旧暦22日が大潮はあり得ないんだけどな >>125
義貞はあくまで千寿王の陣代だから具体的な作戦は尊氏から派遣された足利系の者たちがやってたんやろ? 新田(山名)が足利一門って何かピンとこないんだよな
甲斐源氏でいうと佐竹や小笠原の庶流が武田一門扱いされてるみたいなものだし >>128
なるほどね〜幕末あたりは公家もいたけど口出し出来んかったんかな?
まだ公家の力もつよかったんだね >>130
ウマノスケか!?
あやつはどこにでもいるなw >>86
来週のネタバレになるかもしれないので、恐縮ですが・・・
確かに潮の満ち引きは、この時代には予測されてたかもしれないし、北条方も関知してたでしょう。
なので、海上に出ていた北条軍も稲村ケ崎は注目してたんですよ。
そこで、その注意を逸らすために・・・・
ここで置いとこう。ドラマ内の軍議で明かされるのでねw >>128
あっ、しかし湊川で船団の動きに惑わされて無血上陸を許したのはね
やはりノルマンディのロンメルの言う通り足利が浜に上陸時に隠した騎馬隊で一気に襲うべきであった… >>132
そもそも武田は佐竹の分家みたいなもの
>>134
信長や秀吉だって行軍に結構公家を同行させているぞ >>132
昔世話になった親戚だけど今はどうしようもないから面倒見てやるかって感じじゃない?
足利義兼早世後の新田義重の存在は大きかったしね >>137
ドラマに関してはその通りだな(というか、あの描き方あんまりな気が……)
古典太平記が実際の戦闘経過とみるなら、圧倒的大軍が後方の生田の森に上陸した場合、
退路が断たれる上に京都にも危険が及ぶので、あの判断は仕方ない。
二か所同時上陸をされれば打つ手ないので、あれ以外に選択肢がない。
生田の森に上陸した足利軍を破ったあと、湊川まで戻ってきて合戦規模はむしろこっちが本戦なわけだし。
最良を考えれば、楠木軍も同時に移動するべきだったように思うが・・・ ただ、そもそも後醍醐の西国鎮定の命令が多々良浜の合戦の二日後というタイミングがあまりにも遅い。 御家人たちは鎌倉に屋敷持ってる奴もいたから
鎌倉の潮の満ち引きとか、どこが攻略(防衛)上の弱点とか
共通認識とかはあったんだろうか
そこまで考える奴はいなかったのかな >>143
尊氏の生涯でも最高かつ、会心の戦なのにドラマではスルーされてるという
あれを描かないと前回ボロ負けしてた足利が優勢になってる理由がわからんだろう スレタイが「将軍の敗北」なのに鎌倉幕府滅亡の話題ばかりだな
BSプレニアムで再放送やってるから仕方がないか (´・ω・`) >>141
ドラマねw
しかしそれなら布陣の場所が疑問に残るね
陸上軍と挟み撃ちになるわけで
せめて今の神崎川あたりで防御ならと思いますが、それならもう神戸方面に出るべきじゃないという正成策になってしまうw >>144
船がよう…船がどっかいっちゃったんだよ〜 将軍の敗北と言えば、
実際に大きな戦を戦った将軍って
尊氏、義詮、大坂の役の家康、秀忠以外にいたっけ?
負けたのは尊氏位か? 重要なのは鎌倉と六波羅の同時陥落の戦略性だろ
日野俊基が生きていたのか? >>150
鎮西探題もやで
長門探題時直だけは生き残ったらしいが >>152
時間軸で考えるなら鎮西は六波羅陥落の情報が現地に伝わってから動きが具体化する
しかし尊氏の謀反と義貞の挙兵は同時並行で起こっている 尊氏と義貞の挙兵自体は同時期でも、鎌倉が落ちるまでの間に六波羅陥落が知れ渡ったから
勝ちに乗ろうとする御家人たちがどんどん義貞軍に味方していっただろうな >>156
分倍河原の戦いで突然形成が逆転して北条軍が崩壊した辺りが
ちょうど六波羅陥落の情報が関東に伝わったタイミングらしいな 関東の新田らに北条が勝ててもその後は足利尊氏らが東下して西国から大軍率いてくる
東国の反乱地域を完全制圧するには北条一門だけではもはや力が及ぶはずもない
それをよく分析してたのが、新田勢にその後加担していく御家人らなんやろ
高時が赤橋との最後の別れで語ったように北条は鎌倉を捨てて逃げる国はすでになくなってたんやろなあ >>154
花の乱でTOKIO松岡が
死んでた六角征伐 >>149
義満
山名氏、大内氏とかと戦やってる
「敗北」って言葉が合わないかもしれないけど 鎌倉滅亡の知らせに接した後醍醐のバカ笑いにドン引き そのバカ笑いが後の建武の新政の行き詰まりを象徴してるという でもあの状況からひっくり返したならバカ笑いもしたくなるだろう
後醍醐にとっては自分以外の人間は息子でさえ道具に過ぎないからね
帝王というのはそういうものなんだろうけど とくに後醍醐天皇の場合は子供が多すぎてそんなに愛情を傾けられないのもあるわな 二条河原の落書は建武政権を嘆いたように見えるけど
東国の武士、帝、貴族、特別に名指ししてないよね
内容よくわからないんだけど
上手くつらつらと書いてある 豪胆な武士でも
臣籍降下した(ばかりの)皇族や親王は殺せるけど
天皇は殺せないのかな
本放送時、後醍醐天皇の高笑いは
美しさの象徴だったけど
結構闘志満々の野心家で卑しいトコもある描写?
って思ったな >>163
どこかで
俺さえ生きていれば・・・って台詞を聞いた気がしたが
北斗の拳に出てくる牙大王だった 足利将軍は結構戦ってるな
義尚はそういえば具足付けて戦に出たら物凄い熱狂ぶりだった
みたいな逸話を中で読んだのを忘れてたわ >>162
後醍醐初登場時との落差も名演出だよね
引いては尊氏が幼き頃に見た御神体が実はただの木切れと分かって失望するというエピソードとも結びつく
貞氏は美しいだけでは長崎に勝てんという言葉を遺したが
こういうことを言いたかったわけではないのだろうけれど… >>165
二条河原の落書は建武政権の混乱ぶりを揶揄する内容ではあるが
同時に当時の新興の流行文化なんかに対しても物凄く否定的な書きぶり
だから教養水準は高くて文章力はあるけど保守的でなおかつ政権からは距離のある
公家か僧侶あたりが作者じゃないかという話だね >>166
天皇を殺したら怨念が凄いからな
院や親王はおk >>171
天皇殺して呪われた人って誰?
安徳天皇の呪いとかあまり聴いたことがない 安徳崩御は、京で後鳥羽天皇が三種の神器なしで即位しているから、上皇扱いだろうなぁ。 史実でもそうであったように後醍醐の異形の帝ぶりを最初から前面に押し出してドラマを作っていたら誰が適役かを考えていたら、なぜか内田裕也が思い浮かんだ
(自力で泳いで隠岐から脱出できそうだが、高氏が帝も醜いと絶望して出家遁世してしまう…) 小宰相を海に突き落とす樹木希林とか見てみたくなった お前らが新田の話なんかするから安倍晴明が辞めちゃったw >>170
後醍醐のバカ笑いを隣で聴いていた人が書いたのかと勘繰ったよ
外国の風刺画のように直接的でなくて
きれいなリズムのある文章でまとめるなんて面白い >>178
今頃後醍醐のようにバカ笑いしている野党関係者や反安倍の文化人もいるんだろうなあ… >>178 >>180
政治の話は止めろ スレが荒れる >>161
自身を隠岐に追いやった政権が打倒されたのだから、
「ざまぁ」高笑いは、まあ仕方のないところ。
六波羅陥落を聞いた正成くらいの笑いにしとけばよかった?
でも、後醍醐帝のあの笑いは美しゅうないのう。
それを見てないからなぁ、高氏は。。。 >>178
新田は旧時代を滅ぼすのが役割なのだよ
新時代の主役になれないにしても。 >>126
これって、いつ放送してました?
通常の放送は、スペイン風邪パンデミックやってたはず。
今年の3月初回の再放送なのは知ってますけど、
録ってない可能性があるので、気になった。 新田は流れ矢にあたらなければ、足利はもっとてこずったと思うけどな。
お前ら新田を低く評価しすぎ。 そりゃあ六波羅を落としてこれから関東に攻め入るぜ、って時に鎌倉も陥落しましたと聞いたら笑いたくもなるわな 義貞の最後は確か少人数の隠密行動をしてたら斯波高経の軍と遭遇戦になってやられた。
高経も討ち取ったのがまさか義貞とは思わずw 稲村ヶ崎の手を振るオッケー三人組w
なんかあそこだけ現代劇で笑う >>187
流れ矢が当たらなければ(白羽の矢なので流れ矢じゃないと思うが・・・)
足羽七城を落城させて越前を平定。斯波高経戦死
↓
敦賀から湖北へ進出。義貞の主力は今浜から東山道へ。一部は比叡山へ。
美濃から堀口貞満が合流。男山の北畠軍生き残りも山崎へ。
↓
足利直義を総大将として迎撃軍が出るが、義貞に一蹴される。
↓
延元3年8月、京都攻撃開始。
尊氏、京都は防衛に向かないとさっさと逃亡。この際に光厳上皇ら置き去りになる。
↓
9月、後醍醐再上洛して北朝を廃して帝位へ。 そうならない道を考えると、義貞も腹をくくって後醍醐廃帝にして征夷大将軍になるしかない。
義貞敗北の原因が何かといえば、彼が後醍醐天皇に中世を誓ったことなわけだし。 後醍醐と尊氏が和睦して義貞滅亡
そして再び後醍醐と尊氏が仲間割れ >>147
「賊を都に近づけてはならぬ!遠くで迎え撃つのじゃ!! よいな?新田…。」 そもそも守備に不利な京都が政治経済の中心だった時点でなあ。
新田は不利すぎるw >>152
ググってみたけどアタックチャンスのおじが生きてたのか
二条為世・毛利時親・今川了俊みたいに鎌倉〜南北朝〜室町でも八十以上の長寿に恵まれた人はいるが百歳で長門にいて戦ってるって眉唾物だなw
二代続けての事跡がごちゃ混ぜになってるとかじゃないかと疑いたくなる >>198
相当な高齢だったから助命されたのかもともとれるな
自分の持ち場を離れてまで上役の鎮西探題助けようとは天晴れ
(間に合わなかったが) >>195
逆があったように気がする
箱根敗退後に義貞は墨俣で迎撃しようとしたが、
「都が不安だ。はよう帰ってこい。京は守りにくい?知らんがな」みたいな。 ショーケン義貞だったらこっそり尊氏と和睦しようとする後醍醐を見つけたら
輿から引きずり出してボコボコにしそうだよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています