【第四十七回】太平記part.47『将軍の敗北』
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>>38
当時の心境としては、やむを得ないところだが、
このせいで、世界遺産登録するには、残された物が足りなすぎ。
まあ、いいんだけどね。登録なんかされなくても、鎌倉は安泰だw 東勝寺自害シーン数十人ぐらいしかいなかったけど
実際はその10倍以上が自害したわけだからちょっとエキストラ足りなかったw >>42
バブル真っ盛りな頃でもムリだったわけで仕方がないな >>38
実は焼いたのではなくまず鎌倉に大地震が来た。そして退潮現象で稲村ヶ先が干潟になったので、
そこを通って新田軍鎌倉へ。
次に津波が来たので残っている文化財が少ない。 >>42
葵では、関ヶ原で予算使いきったとか言われて
金がかかるみたいだから仕方ない >>31
「一休さん」が大河ドラマになったら、一方の主役格になれるだろうな >>40
赤橋登子は義満が8歳の時、足利義詮は義満が11歳の時に死亡
みんな義満が子役のうちに早期退場で「続」というほど旧キャストの出番がない
佐々木道譽がかろうじて義満元服まで生きてるが
それでも義満15歳の時に死亡 鎌倉末期は、六波羅探題北方の方が南方より格上だったのかな? >>51
最初から北方のほうが南方よりも格上じゃないか?
南方は長期間不在のこともあるが北方が空席のまま放置されることはない
また六波羅が発給した下知状・御教書の署判の仕方をみれば
六波羅における北方と南方の関係は鎌倉における執権と連署の関係に同じ そういえば大河「時宗」のときに
六波羅北方=赤橋義宗、六波羅南方=時輔(得宗家出身)は異常みたいに言ってたけど
あの頃って鎌倉も執権=政村、連署=時宗だからなぁ >>45
何度か津波で文化財などが消えうせたという話はよく聞きます。
大仏殿も地震や津波で倒壊したとかは文献でもあるようですが、
このタイミングで地震があったという文献を見たことがないし、
事実ならもっと知れ渡っていてしかるべき出来事ですが、
ちょっと初耳だな。
どこにその事実を載せた文献があるんですか? >>54
「七里ガ浜の磯伝い、 稲村ケ崎名将の、剣投ぜし古戦場」
義貞が黄金の太刀を龍神に捧げ海に投げ入れると、潮が突然引き目の前に干潟が現れ
それを渡って鎌倉へ攻め込んだ(場所は稲村ケ崎の干潟です)
この伝説の検証として、大地震があって潮が一時的に引いたのでは?とする研究家が
いるのです。 >>47
時行は20日ほどしかいなかったのに中先代と言われたからね
新田は何日いても支配者と認められなかった
出て行って正解 >>54
地震というのは平禅門の乱の直前の永仁関東地震(鎌倉大地震)
津波は大仏殿が流された明応関東地震のことなんじゃないか?
>>45の日本語力に難があるのはその通りだが >>56
その研究家とやらはアホじゃないのか?
そんな大地震があったなら、潮が引くとかそう言う問題以前に
地震なり津波の記録があるはずだろw まあ大きな地震なら揺れる範囲も広いだろうし何も記録が残らないのはあり得ないだろうな とりあえず大日本史料のデータベースを見る限り元弘3年(正慶2年)に大地震の記録はなさそうだ 漸くクーラーなるものを付けもうした
これで在宅労働が捗るものじゃ 畏れながら、大御所におかせられては御隠居なさるのでございますか? >>60
まあ研究者じゃなくて研究家ならその辺突っ込んでも仕方ない >>52
鎌倉も六波羅も二人体制なのに何故か鎮西探題は単独なんだよな 室町幕府は奥州探題も九州探題もまともに機能した期間の方が少ないよね
遠くのことは遠くで解決してねというスタンスにならざるを得なかったんだろうけど >>63
太守!太守!この守時にクーラーの効いた部屋で休むことを賜りたく!
この守時とて北条の男、この様な暑い時に部屋の外でただ見ているわけには参りませぬ! 鎌倉武士がクーラーに頼るなど武門の恥辱であろうに
ナレ)後に、夏の暑さに負けてクーラーを付けた事が>>63を痛く傷付ける事になる >>70
儂は鎌倉武士などではない!
千早赤坂の出なるぞ
冷房機なるものが今まで無かったので夏バテである >>64
大御所じゃなくて大殿
師直は尊氏を「大殿」と呼んでいたはず >>64
大御所じゃなくて大殿
師直は尊氏を「大殿」と呼んでいたはず 足利が京六波羅に入る!
諸国の御家人がすべて源氏に入れ替わる
赤橋の方も頑張る、他の北条も頑張る
ここで新田に、大事な大事なアタックチャーンス! >>45が物を知らないアホ
関東大震災や東日本橋大震災で海岸線変わったろ
何年も浮き上がったところ戻らなかったろ
その話だろうに
さも1331年夏に地震があったドヤ!
とか恥ずかしすぎ 稲村ヶ崎の新田義貞徒渉伝説では、義貞が海の龍神に黄金の太刀を寄進したら水が引いて干潟が現れ
そこを渡って鎌倉へ攻め込んだ
まずこれが事実かどうか?、事実であれば龍神のおかげとかじゃなくて科学的に説明が付く理由があるか?
なんらかの天変地異が起こった可能性はあるのか?ってだけだから、地震と決めつけてるわけじゃないけどね 干潮を利用して突破したのを脚色したというのが一般的だろ
新田以前に大舘も突破に成功してるし 大地震の引き潮で突入したなら攻め手もタダじゃ済まないだろ 引き潮の後、稲村ジェーンに矢盾で乗った勢いで波乗り武者が攻め寄せて来るんだよ >>77
新田が黄金の太刀なんて持っていたのか、はたまた分捕ったのか。 七里ヶ浜の磯伝い
稲村ケ崎 名称の
剣投ぜし古戦場 >>76
まあ同意だけど義貞の鎌倉攻めは1333年夏な というか稲村ヶ崎の場面はドラマのなかで義貞が引き潮の時刻を側近に尋ねていて
それに対して側近が「四更の丑三つ時」と答えている
少なくともドラマの制作側は津波とかではない普通の引き潮のつもりだろう
その後のナレーションではもっと具体的に午前3時前と言ってるが
あとその前に敵の目を逸らすため「月が昇る頃に攻撃を仕掛ける」云々の発言もあったが
この月が昇る頃は午前0時頃だな
旧暦22日は下弦の月のはずなので あたふたする貞顕、冷静さを装う円喜・・・
でも貞顕の予測があたってるし、遠い六波羅より足元に火がついてる
関東を!の判断も正しい。
でもまさかこの半月後に一族ことごとく自害することになろうとは
思ってないんだろうな・・・。 >>54
45です。自分が朝書き込んだことについていろいろ話になっていますが、
まず、「地震退潮説」は峰岸純夫です。近著では『新田義貞』(人物叢書)
稲村ヶ先の退潮現象は両軍想定の内であり、新田軍の攻撃が成功してのは予想外の自然現象が起きたのではないか。
元弘元年には諸国で大地震が発生しており、紀伊千里浜二十余町の遠干潟が、
同年の別の地震で富士山が大崩落を起こしている。
これらの関連地震(余震、本震)として5月8日の鎌倉沖に地震が発生し、
退潮現象を引き起こしたのではないか・・・というもの。 14回「秋霧」に宇宙刑事シャリバンの渡洋史が出ているが、セリフ回しが大仰
この人が俳優として大成しなかったのは、そんなところに理由があったのかも 鎌倉幕府滅亡 バブル崩壊 鎌倉幕府もバブルも終わりがくるとは誰も思わなかったに違いない 軍事力や権力の大きさからすると江戸幕府こそあんなに呆気なく終わるとは思わなかっただろう >>84
自分で峰岸説を出しておいて何ですが、ドラマはもちろん干潮説を取っている。
引き潮の時間は明治時代からいろいろな人間が計算しているが、午前2時57分。
そして月の出は21日22時43分だった。 前日に大舘が稲村ケ崎通過して攻め込んでるから奇跡もなにもない
普通に通れる道だ
ドラマは軍船が移動したことを奇跡と表現して、うまく処理してると思った >>91
そうそう義貞の通過の数日前に大舘宗氏が稲村ヶ崎から鎌倉市中に入り込んだわけだし
当時は普通の引き潮で簡単に通れる場所だったと考えるのが妥当だね 大舘が入った18日は大潮
普段から通れる道ではない。 おいおい大潮って新月か満月のときだから
旧暦なら毎月1日・15日あたりのはずなんだが そういえば確かに5月22日は日付的に下弦の月だが
ドラマのなかで一瞬映った月もちゃんと下弦の月になっていて
制作スタッフの仕事の緻密さに感心したな
しかしタッキーの「義経」ときの一ノ谷の戦い場面は
2月7日のはずなのに月の形が上弦の月じゃなくて残念な気分になった
大河のスタッフの劣化を感じた瞬間だな それな
時代劇の制作陣ならそこはちゃんと押さえてほしいよな >>95
逆に22日は小潮のはずだから、この日の引き潮で通れるなら
当時は引き潮なら基本普通に通れたことになるんだよな。 >>95
大潮は満月前後の数日をなので18日も大潮でいいんじゃないのか? 坂にいる敵の主力防衛部隊を別部隊で攻撃させてそちらを総攻撃と見せかけ敵を引き付ける
また山?に火をかけて敵の船団もそちらに牽制するってのもドラマでなかったけ? >>86
戦前育ちのジジイやん
推論だけで裏付け史料もない
引き潮を伴う地震があったなら記述のひとつもあるはず
可能性の一つとしか書いてない事思い込むのはいかがなものか
突発的な地殻変動や地震といった自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した[75]。 通れる、通れないって話なら警戒用の船団を配置してるってことで通れるって判断が鎌倉側にあったと思ったな
あくまでドラマでの話ね 源頼朝が幕府を開いたころは通れなかった。
それが150年の間に海退期に入り、大潮の前後は通れるようになった。
それは幕府軍も承知なので(防衛の穴なので)、強固な防衛網を築いた。
大舘宗氏はそれを突破したが、潮が満ちて戻れなくなって打ち取られた。
戦死後に総大将の義貞がみずから極楽寺方面の指揮に当たる。
そして21日夜・・・ >>101
新月・満月=大潮
上弦・下弦=小潮
潮の干満が最も大きくなる大潮から最も小さくなる小潮までは概ね7日程度
15日前後とはいってもせいぜい14〜16日辺りまでで3日もズレた18日を大潮の範疇に入れるのは無理がある
>>104
さらにいえばその通れることを警戒して北条側が配置した軍船から
大量の矢を射かけられて大舘は戦死した
ただ大舘が通れること自体は身をもって実証したから
別動隊の攻撃と放火で敵の目をそらした上で稲村ヶ崎を通る作戦を思い立ったという流れ >>76
>東日本橋大震災
すっごい狭い範囲で大震災とかいろいろ想像する 本放送の年に中世内乱史研究会が実際に同じコースを歩いて実験していた。
大潮の日を選んで計4回。結果は浅いところでくるぶし、深いところで膝まで。 同じ実験を個人的にやってズボンのポケットに入れてた携帯をダメにした知り合いがいる 地震スレになっててワロタ
まぁそれって神国思想忠臣新田に
天も味方したんじゃーバンザーイって学者の説だろ >>112
まあただ足下が見えない夜間だからな
多分義貞はこれ以前に明るい時間帯に稲村ヶ崎に来たことがあって
大体どういう地形になってるのか分かってた可能性が高いと思う でも化粧坂があんな広々としてないだろ
と見るたびに突っ込んでしまう
どこの石切場だよみたいな 吉川英治…22日をしれっと大潮に設定。
新田次郎…大潮が過ぎて悪天候の22日は北条軍の警戒が緩むと読み、波をかぶる岬回りの悪路を突破。
安倍龍太郎…直前に馬の子づくりを見物し、側室の女武者の生理から22日が大潮だと知る。
作家によって個性が出るもんだな。 >>120
詳しいな。
岬から立てに堀切のように切れ目が入っているそうだ。
人工物か自然物かは判別出来なかったそうだけど。 >>122
あの貧乏御家人の新田が英雄?
みんなどうかしてるのではないか? 相手主力を主攻と思わせ引き付けて、絡めてから一気に背後に回る→ナチスドイツのフランス侵攻のよう
天候から来ないと予想されるのに攻めに出る→連合軍のノルマンディ上陸のよう
これほど見事な作戦家なのに、京都に昇ってからの情けなさ…
決起から鎌倉攻めは勝れた軍師がいたんですかね?
ドラマでは岩松さんに思えるけどね 英雄たちの選択の新田義貞回は面白かったよ
思いがけず政治の舞台に立たされて尊氏の対抗馬にされた普通の人物の悲哀というスタンスだった >>124
ろっ六波羅はどうでも良い!それより鎌倉じゃ… >>125
ナポレオンと通じるものがあると、「太平記」漫画版の解説にもあったけど。
建武以降は悉く敗戦といえば敗戦だが、ただし局地的にはけっこう勝ってはいるし、
義貞がいなければ尊氏の一度目の上洛で終わっている。
問題は建武以降は上に親王やそれにくっついて来る公卿がおり、それが行軍にも戦闘にも大きく影響を与えたこと。
特に箱根・竹之下は二条為冬がいなければ勝っているだろう。ドラマではなかったと思うが。 >>121
そもそも旧暦22日が大潮はあり得ないんだけどな >>125
義貞はあくまで千寿王の陣代だから具体的な作戦は尊氏から派遣された足利系の者たちがやってたんやろ? 新田(山名)が足利一門って何かピンとこないんだよな
甲斐源氏でいうと佐竹や小笠原の庶流が武田一門扱いされてるみたいなものだし >>128
なるほどね〜幕末あたりは公家もいたけど口出し出来んかったんかな?
まだ公家の力もつよかったんだね >>130
ウマノスケか!?
あやつはどこにでもいるなw >>86
来週のネタバレになるかもしれないので、恐縮ですが・・・
確かに潮の満ち引きは、この時代には予測されてたかもしれないし、北条方も関知してたでしょう。
なので、海上に出ていた北条軍も稲村ケ崎は注目してたんですよ。
そこで、その注意を逸らすために・・・・
ここで置いとこう。ドラマ内の軍議で明かされるのでねw >>128
あっ、しかし湊川で船団の動きに惑わされて無血上陸を許したのはね
やはりノルマンディのロンメルの言う通り足利が浜に上陸時に隠した騎馬隊で一気に襲うべきであった… >>132
そもそも武田は佐竹の分家みたいなもの
>>134
信長や秀吉だって行軍に結構公家を同行させているぞ >>132
昔世話になった親戚だけど今はどうしようもないから面倒見てやるかって感じじゃない?
足利義兼早世後の新田義重の存在は大きかったしね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています