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【イエズス会1582年日本年報追信】
6月2日朝、三七殿(信孝のこと)岸和田城で報を受け信澄が籠る大坂城(石山本願寺跡)へ向かうが兵が離散する。
三七殿の兵は自国の北伊勢2郡以外からの傭兵である。

【多聞院日記】
6月5日、伊賀国では織田信雄の兵が城を捨て逃亡、牢人衆が城を占領した。
信雄はその後、蒲生氏郷と合流し伊賀国へ城奪還の為、出陣す。

【上杉家御年譜】
6月7日、信長の兵は離散、甲斐・信濃・越中は台風が止むが如く静かになった。

軍規が厳しい織田家でも当主(信長と信忠)が死んでしまえば一旦、軍規より当時の倣いどおり職場放棄して自己の身の安全を優先したようです。
血縁でもない限り義理を重んじる人は少なかったと思う。