【明治の罠】●小見出し・“明治礼賛”の罠(続きです)
 「殷鑑遠からず」という言葉がある。歴史を学ぶ意義には、前時代の失敗をたどり、教訓とするという意義がある。エンタメとして楽しむ歴史は、楽しければそれはそれでよいのですが。
 正史がそれではいけないというのは、当然のことだとは思うのです。
 正史と娯楽の混同。
 混同した上で、国のトップがそれを教養なり教訓にしている。
 しかも、その理屈が通じるのは日本国内のみ。
 そういう状況でも、昭和まではそこまで実害がなかったのかもしれない。
 けれども、状況は既に危険水域を超えました。松山市は、ご当地起こしの材料に『坂の上の雲』を推す。かくして司馬遼太郎本人の遺志を無視し、2009年から2011年にかけて、NHKでドラマ化されました。
 そのあとの2010年代大河は、露骨な明治礼賛になってゆく。2013年『八重の桜』は例外として、2015年、2018年、そして2021年。前述の通り、朝ドラの『あさが来た』でも明治礼賛。維新150周年に向けて、国策として明治礼賛が定着しました。
 これがどれほどど異常な話か、考えてみましょうか。
 イギリスのドラマ『ダウントン・アビー』にせよ、『ヴィクトリア』にせよ。単純な当時の礼賛でもない。『エノーラ・ホームズの事件簿』では、フェミニズム要素も取り込む。
 アメリカは、奴隷制を振り返り反省する映画が当然のことながら多い。いちいちあげるまでもない。
 中国ですら、『三体』は文化大革命を批判的に扱っている。
 韓国も圧倒的。『タクシー運転手』は傑作でしたね。
 自国の歴史を「スゴイ! スゴイ!」と手放しで褒める。その背後に国家がチラつく。そんなこと、まっとうな近代国家ならば堂々とやらかしませんってば。もう2020年代ですよ!

 日本では、そうでもないらしい。そんな嚆矢を切ったのが『坂の上の雲』です。そもそもこの作品って、明治維新100年を記念すべく、産経新聞に連載されたものです。おや、なかなか素晴らしい条件が揃っているじゃありませんか。
 どうしたって、切り離せないほど圧倒してくる司馬遼太郎パワーと日本スゴイという何かを感じます。そのパワーが、もはや頓挫し見直しが必要だということを確認しましょう。
 だからこそどうせなら、時代の一歩先を歩きたい。見据えたい。ゆえに、こんな長文を書いております。
 なお、このあたりの明治礼賛の危険性については、斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』をお勧めします。