>>549
そもそも新政府側は
「松平肥後守追々暴動ニ及候趣ニ候得共罪魁之義一等ヲ被宥候上ハ悔悟伏罪御仁慈ヲ仰ギ候ニ於テハ寛典ニ可被處候間心得違無之旨御沙汰事」
つまり降伏すれば許すって言ってますがどう思いますか?
これは仙台側の資料である仙臺戊辰史に記載ありますよ
それに会津戦争では実は長州藩の参戦自体少ないですけど、これについてはどう思いますか?
あと降伏したと思われる為の条件として首級の首を差し出すほか無いという発言に対して拒否してて、会津藩士側は
「会津藩士、皆死をもって領土を守るのみである」というふうに発言もしてますが
これどう解釈して会津はもう戦争やる気だったとしか思えないんですが、これでも長州藩だけの私怨とか言います?
後学の為にこれらの資料が間違ってる根拠くらい教えて下さいよ
私としては会津と庄内藩が同盟を組み特に降伏の意思も示してない以上、最初から長州藩薩摩藩と戦うつもりだったと思います
一応擁護すると特に会津藩に関して言えば孝明天皇から宸翰を送られていたのに朝敵扱い受けた上で降伏するのは納得し難いでしょうし軍備の整っている庄内藩も降伏の必要性を感じてない訳で、動機は全然あるわけです
あと庄内藩への薩摩藩の挑発ですが、小説等では薩摩や公家連中が相楽総三らに放火等を命じたと言う風に言われてますが、それって松平春嶽の推測以外特に根拠ないですよね
なんなら薩摩藩からは江戸の藩士に静観の指示を出しています
実際のところ赤報隊は元々土佐藩の板垣退助を頼った関東草莽の志士たちだったんですが、金のない彼らは金品強奪をしてしまったと
薩摩藩が武力倒幕したかったというのこそ推測に過ぎないでしょう