>>551
一般には世良修蔵が総督府下参謀の大山格之助宛に「奥羽皆敵。人数も増員し軍艦を酒田に派遣し日本海側と
仙台を挟み撃ちにするしかない。越後口にも人数を増員し警戒する方がいいとする。また会津は恭順謹慎など
開城すらする気もなく首級を差し出させる方が良いでしょう」という趣旨の密書を書いたが、それを入手した
仙台藩士らにより斬られたために和平の道筋が途絶えたとなっているけれど、その資料を書いた人でさえその
密書の存在については否定はしてないよ。世良の理解者ということでかなり擁護はしているけどね。
君の資料が正しいとしても、世良はそれを良しとは考えてなかったということだね。世良さん、無茶苦茶闘い
望んでいますし、会津藩と庄内藩は関係ないよ。和平を斡旋しようしていた仙台藩が理由なくして世良を斬る
まではしないと考えられるし、斬った人は処分されているね。

それにさ、会津戦争では実は長州藩の参戦自体少ないからと言って「長州の私怨と新政府の集金」が否定され
ることはないよ。

戦争が始まってしまえば「会津藩士、皆死をもって領土を守るのみである」は普通だろ。資料の時系列が不明。

薩摩御用盗という呼び名は徒党を組んで強盗、火付け、暴行等を繰り返し悠々と薩摩藩邸に帰還することから
つけられたんだよ。名誉のため言っておくけれど、赤報隊一番隊の相楽総三たちは偽官軍として処刑された。
これは新政府が年貢の軽減という空手形を掲げていたがこの実現が難しくなったため、その罪を着せられた上
に切り捨てられたというのが一般的な見方だよ。政府と結びつきの強かった二番・三番隊は生き延びている。
「金のない彼らは金品強奪をしてしまった」は君の推測としても酷いな。