>>190
さっきも書いたけど、八一八を会津側で主導した秋月悌次郎は
京都の公用方って言う殿直属からあの時代の網走に左遷させてるからな
それ自体、薩摩から見たら朝廷から薩摩をパージした一橋主導の
一会桑による薩摩外しのメッセージと見られても仕方が無い

しかも、その実態が国許の嫉妬と言うのがなんとも
丁度京都情勢が親・薩摩から一会桑に移行していた時期の上に
決定的な門閥主義の会津で京都外交に辣腕を奮った秋月が家柄の分際を超えていると
国許の門閥家老から疎まれた上での追放だからそれだけでも薩摩としては見放したくなる

一会桑体制への移行期だった上に秋月を起用した家老の横山常道が死去、
病身の容保と若手の神保修理だけでは庇い切れず
やはり薩摩とパイプのあった山本覚馬もなんとか薩摩と会津、幕府の仲介をしようとしたけど、
彼は国許でも比較的軽侮されていた鉄砲上がりの砲術担当で
京都外交を担当する公用方の主流を動かすまでは出来なかった

そんなだから、一橋慶喜が徳川慶喜になって大政奉還で徳川宗家から会津が切り捨てられても
外交人脈で大いに後れを取った挙句、鳥羽伏見の後に俊英神保修理をあたら無駄に死に追い込み
会津戦争でも援軍した友軍から匙を投げられるレベルで非効率的な門閥主義を発揮する有様