徳川家康「少し前まで"外国人を殺せ"と言ってた外様の武士らが」

攘夷の本来の意味は外国人を殺傷することだけではないし、尊攘思想はそんな簡単に消えません。
土州老公・山内容堂は藩内での尊攘活動を排斥するために家中の尊攘派に対して徹底的に情け容
赦のない大弾圧を加えましたが、数年後の明治元年二月に泉州堺で、その山内容堂公直属の側扈
従が率いる土州歩兵第八番隊がフランス軍を相手に攘夷を実行しています。

■「泉州堺列挙始末」
扨て再度の準備成るを見て、係りの役人声高らかに六番隊長・箕浦猪之吉と呼び上ぐれば、箕浦
は声に応じて身を起し、「何れも左らバ」との一言を残しつゝ直ちに割腹場へ立出づれバ、此際
右往左往に押し合ひ返し合ける群集共、呼出の声に驚ろかされ忽ち水を打つたる如く甚と静粛に
なるものから、只だ時に聞ゆるは欷歔流涕の声のみなりき

斯る処へ箕浦猪之吉、除却妖氛の詩を大書せる一紙を結び付たる指揮旗を左手に携へ、黒羅絨穎
敏の戦袍に錦の小袴を穿ち、かうそうたる志気を眉目に鍾め、稜々たる勇容四辺を払て出来り、
準備の氈上に泰然と坐し、先づ我国検視他臨場官に夫々目礼を施し、指揮旗をば坐側に突立て、
前なる白木の四方を取つて引寄せ、短刀右手に掲けて顛を掲ぐかば、眼光炯々として星の如く、
満腔痛憤の気其の面に溢る

巡かに仏人を礑と睨み「咄、仏奴、汝仏奴悪むべし! 我ここに死するは、汝が為めにあらず、
是皇国の為なり! 我今死すとも七たび生を更へて汝等が肉を喰はずして止まんや! 咄々汝仏奴、
日本男子の割腹を視よ!」と 怒髪悉く逆竪ち、叱声場内に震ふ 仏人愕然として身を戦はし、
敢て仰ぎ視る能はず 箕浦は徐かに衣を啓らき、短刀逆手に取ると見へしが、忽ち左の脇腹ヘ力
を籠めて深く突立て三寸切り下げ、右手へきり〃〃と引廻はし、又た三寸切り上げたりければ、
腹部口を開き迸る血汐瀑の如し

其時箕浦は隻手を腹中へ押入れ、臓俯を掴んで引出し、仏人を白眼みつゝ吐嵯や投付んずる容子
なれば、介錯人馬淵桃太郎急ぎ進み寄りて、技手も見せず切付しに、如何に手元狂ひけん頂の上
部を斬りたるに浅手なれば、箕浦は事ともせず、馬淵氏何とせられしぞ静かに〃〃と声掛けたり 
馬淵は仕損じたるかと気をいらち、再び斬るに此度は項より気管迄深く斬込み、首は「かつ」と
音して前に低れたれど尚ほ落ちず、鮮血淋漓として満身朱に染む 其時、箕浦は忽まち大声を張
って「まだ死なん、切るべし、切るべし」と叫びける其声、場内も崩るゝ斗遠く三丁の外に達す

満場の人々此有様を見て皆舌を捲いて箕浦が豪胆を驚嘆せざるはなく、中にも仏人は始め箕浦に
睥睨せられ既に恐怖を抱きしに、其の吾手を以て腹を割き臓俯を狐み出して抛たんとする場合は、
素より夢幻にすら一見せざることなれば、其愕ろき云はん方なく、只だ身を悶掻き如何はせんと
甚だ窮せる体なりしが、再たび箕浦が尚だ死なんとの絶叫は恰かも霹靂の頭上に堕たる如く、顔
色忽ち変じ活きたる心地あらばこそ、只だあゝゝばゞゞと呼び立てゝ席にも得堪へず立躁ぎしぞ
笑止なる 馬淵は再三の後漸く其の首領を落せしかば、係り役人は直ちに死体を彼の轎に乗せさ
せ、宝珠院へと送らしむ  箕浦時に年二十五歳

■『英国外交官の見た幕末維新』
最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につ
かんで掲げ、神の国の聖なる土地を汚した忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、
その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。(中略)フランス人は耐え切れなくなって、デュ・プチ
・トゥアール艦長が残り九名を助命するように頼んだ。彼は、この場面を私に説明してくれたが、
それは血も凍るような恐ろしさであった。彼は大変勇敢な男であったが、そのことを考えるだけ
で気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。