>>873
元々、水戸の特に尊攘派はしばしば士民挙げてのデモンストレーションを行っていたから
挙兵と言っても横浜鎖港を求める政治的アピールと受け取って
元々が斉昭の子で尊攘派に理解のある慶篤も武田耕雲斎等の上で必ずしも否定的ではない政治的態度だったけど、
栃木の件でそうも言っていられなくなった

水戸の当主は俗に副将軍と言われる様に江戸在府で、
しかも他の御三家の帰国が重なったために江戸を動けなかった

だから、支藩である宍戸藩の松平頼徳に水戸家当主名代として事態の収拾を依頼したんだけど、
頼徳自身が尊王攘夷主義者だった事もあって、
藤田小四郎等の挙兵に対応するつもりが別の天狗一派と合流してしまった。

水戸城を制していた市川三左衛門が、こんなのを迎えたら身の破滅だと
武装解除して身一つで来いと実質的な入城拒否
市川の言い様に危険を感じた上に非礼だと言う事もあって
何時の間にか天狗も加わった宍戸勢と市川、幕府軍が交戦状態に陥って
田沼意尊からお前ら普通に天狗一味だろうと扱われて藩ごと命取られてる