四国の讃州高松松平家は系譜的に徳川光圀の血が入っていますし、実質的に水戸支
藩同然の勤王藩なのですから、水戸本藩の勤王派は高松松平家とその親戚で隣藩の
阿州蜂須賀家を地道に説得して抱き込んだうえで、土州山内家や薩摩島津家並びに
長州毛利家とも密接に連携し、孝明天皇の攘夷の御意思に応えればよかったのに。

実際の高松松平家は、明治元年一月三日、鳥羽伏見の戦いに幕府側として参戦した
けど薩長軍に敗れて敗走し、一月十日に朝廷は藩主頼聰の官位を剥奪して高松松平
家は朝敵指定されます。さらに時を置かず、一月二十日には土州山内家は朝廷から
高松征討の命を受け、土州家老で総督の深尾丹波と大軍監兼大隊司令の乾(板垣)
退助が土佐勤王党員の郷士を中核とする土州迅衝隊を率いて疾風怒涛の如く高知か
ら出陣し、進軍の途中で合流した丸亀藩兵、多度津藩兵と共に高松領内に着陣。高
松城は為す術もなくあっという間に朝廷政府軍に包囲されてしまいました。

これにより高松松平家の家中は勤王・佐幕に分裂して大混乱に陥りましたが、勤王
派の高松松平家御連枝の松平左近が病を押して真夜中に闇にまぎれて早馬で駆けつ
け、評定の場で孝明天皇恩寵の中啓をかざし、「当家は藩祖英公(頼重)より尊王
が家訓。官軍と戦うなら先ず、この左近が首を刎ねよ」と一喝したことで漸く藩論
の統一が成り、藩主・松平頼聰が降伏開城を決断。その後、家臣団同士が血で血を
洗う大規模な藩内抗争を展開することもなく、また高松の御城下は一切戦火に巻き
込まれずに一人の領民の犠牲者も出さず無事、平和裏に無血開城へと至っています。