>>827
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源義経が伊予守に補任されたのは平家滅亡後の文治元年(1185)8月16日です。同日、山名義範が伊豆守、大内惟義が相模守、足利義兼が上総介、加々美遠光が信濃守、安田義資が越後守に補任され、以上を六人受領(国司)といいます。義経は4月に内々に後白河法皇に奏上したとありますから、3月の平家滅亡を受けての、追討賞としての推薦になります。他の5人も同様でしょう。なお、この時点での伊予の知行国主は後白河法皇と推定されます。伊予が頼朝の知行国となったのは後白河法皇と推定されます。次いで、12月には頼朝の推挙で九条兼実が知行国主になります。
中世学界では頼朝が義経を守に推挙したのは、検非違使だと京に駐留する名分がありますが、通常守に補任されると検非違使は辞任し、京を離れなければならないことを狙っての推薦だと判断しています。しかし、後白河法皇の意向でしょうか、検非違使は辞任せず守と兼任します。この兼任したことに頼朝が怒り、最終的に両人の仲違いとなったとの判断です。