>>757
棚ぼたなわけ無いだろう
日本は三河が勝つよう出来ているとみるしかない
三河は選ばれた国

強いて言うならわ三河に生まれた事が棚ぼただな


やりゃ、家康など語る価値もない、三河の諸先輩が築いたレールの上をただ歩いたラッキー大将だと分かる
分かれば出る結論は、三英傑(笑)だとかいうくだらないものなどドラマにするなだ


三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだだけの三河の徳川家康


滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた、頼朝等身大の聖観音像

全てはこの仏像に秘密がある


源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる

そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘

源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)

生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである


三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む