永井直勝は長田直勝と言って、義朝を暗殺した長田忠致の兄の血を引く
その兄は乳母が三河の碧南に住んでいて、事件後に三河に移り住んだ

その由緒を知っていた家康は、名字が悪いと言って永井に名字を変えさせた

永井の名字の由来は、大江流長井氏、長井宗秀の娘を血を引くからである
長井宗秀は長井時秀の息子であり、姉妹が尾張足利氏たる足利宗氏に嫁いで足利高経と足利家兼を生んだ

その足利家兼が三河から東北に進出し、大崎氏、最上氏の祖になったのだ



最上氏
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任


斯波家兼(足利家兼)
父:足利宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」

「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした


永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。