日本もそろそろ古墳時代を大河ドラマにするべきだと思う
主人公は事実上の初代天皇とされるミマキイリビコこと崇神天皇で良いでしょう
国興る疾風迅雷のとき
これは面白くなるぞ! >>70
戦いは人類が誕生した時から存在したよ。倭国大乱など戦わなければ自分が殺されるという状況はいくらでもあった。闘争本能は人間のサガみたいなもんだから無政府状態なら戦いは頻繁に起きる。アフリカのように。 戦争が不可避だとしても戦場に立たされる兵卒は好き好んでやってるわけじゃないと言ってるんだよ >>61
パキスタン国イスカンダル・ミルザ大統領「なにか用か?」 渡来人温羅が持ち込んだ技術で栄えた古代吉備国。
それを侵略するためにヤマト王権から派遣された吉備津彦命。
こんな物語を希望します。 北九州、出雲、吉備、近畿に勢力があって、それが近畿勢力に吸収合併されて大和朝廷が成立したという理解でいいのかな? 西国の連合国家が邪馬台国で、それに対抗した狗奴国という構図か。
卑弥呼とヤマト朝廷の関係が如何なるものか?だな。
それについては次回の倭の五王に乞うご期待 NHKスペシャル面白かったな
大河がクソなだけに尚更 倭の五王は400年代だし、仁徳天皇の息子3人と孫2人と推定されている。ってことは卑弥呼の死んだ250年頃からの100年間が日本史の暗黒時代と言うことか? 「該当する人物は今のところ1人しか居ない。ズバリ卑弥呼だ」
いかにもミスリード的で引っかかったな 応神大王は金官加羅からやってきた傭兵隊長。
舒明こと大王田村王子は義慈元年に倭国にやってきた男らしい。 箸墓古墳の内部調査ができればいろんなことが分かるのに。
なぜ宮内庁は許可しない。なんか不味いことでもあるのか? >>85
天皇家が朝鮮系という証拠が出るんだろうな 大陸系、半島系(百済?)でも別に驚かないけどね。
地球外生命体なら驚くけど。 >>85
長頭骨とかでてきたら面倒いことになるからね
金髪みたいにコーカソイド系だったらなおさら面倒 >>80
三国志がからんでたから
大河よりおもしろかった 邪馬台国がどこにあったかで喧嘩になっちゃうんじゃないの 誰の墓か分からない古墳も参考地としてけっこうな予算が出てるのに誰も文句を言わない不思議 畿内を中心に発展した邪馬台国だけど、九州・出雲・吉備などの勢力を完全に抑えきれない状態だった。そこで親魏倭王の称号を得てとりあえず他の勢力からは一歩抜けん出た存在になった。男の王を立てても治まらなかったのは権力をかさに着ても他の勢力の反発を受けるためだったため。ところがシャーマン的女王を立てたら上手くいった。邪馬台国が他の勢力を完全に支配したというよりも何かを決める際には田勢力の代表者も会議に参加させますよヨロピクネということだったんだろ。そういう意味で邪馬台国連合と言うのは理解できる。だけど、西国の諸勢力が集まって邪馬台国を作りましょうというのはあまりにも非現実的すぎる。もともと争ってた勢力同士がどうして連合できるのか?やっぱ、まずは中心的な勢力がありその周辺が緩やかに結びついていくものだろうよ >>89
日本人は異星人の血を濃く引き継いでいる可能性が
あるんだっけ
そう考えないと辻褄が合わないのもあるとか…
日本人しかもちあわせていないものもあるしな NHKで日本人は何処から来た的な番組なかった?
DNA分析して北東?アジアから来てるとか。 >>97
タイの何とかって部族のDNAが縄文人に似てるってやつな。
でも、今の日本人のDNAは古墳時代の人とほぼ同じ構造だそうだ。 朝鮮征伐で高句麗との戦いで初めて騎馬を目にしたヤマト王権は、馬産を招致し東国に牧を作った。
元々高句麗の馬産が多かった信濃と大陸交易を望んでいた上野の毛野氏を引き入れたのが大きい。
4世紀の朝鮮征伐を主導した毛野氏以降は群馬が東国の中心になり積極的な大陸外交と共に栄えるようになる。
4世紀からはヤマト王権によって伊那盆地が馬の生産管理拠点に定められたことが想定される。
また、そのような馬の導入によって内陸交通網の整備が進み地域間交流が発展したことが、各古墳の多様な様相の背景として想定される。
このように本古墳群は飯田地域がヤマト王権の東国経営拠点かつ東西交通の結節点として機能したことを表象する遺跡であり、
内陸交通網の整備による王権の国づくりの一面を表すとして重要視される遺跡になる。 4世紀、倭王権の一翼を担った上毛野勢力が対外活動のために結集するに当たって,それまでの経済圏を越えて,
「外交・軍事指揮者」を共立したのがその歴史的背景であったと考えたい[若狭 2017]。
上毛野全域の集団は,外来文化という果実を手にするために大団結したのである。
その結果として5世紀中葉以降の上毛野地域に現出したのが,後述するような「渡来人と多様な技術群」であった[若狭 2011,亀田修一 2012]。
『日本書紀』神功〜仁徳紀には,上毛野氏祖による朝鮮半島での度重なる軍事・外交活動(荒田別・鹿我別の新羅征討[神功49年],
荒田別・巫別による百済からの王仁の招聘[応神15年],竹葉瀬・田道による新羅征討と四邑民の連れ帰り[仁徳53年])が記されているが,
この文献上の記述と,実際に上毛野地域で確認される考古学的事実(渡来文物の多出)との間には,整合する部分が認められる。
したがって,『日本書紀』の記事には5世紀の地域史の実態が埋め込まれていると考えられる[若狭 2015]。 古墳と祭祀遺跡は、いずれも古墳時代を考える上で重要な要素である。
石製模造品は、その両者を共通して分析できる数少ない遺物の一つであり、古墳時代中期を代表する祭祀遺物である。
畿内を発祥の地とし関東地方まで盛行することから、大和政権の東国に対する勢力伸長を反映するものと理解されてきた。
この考えは、今日にいたるまで基本的な視点として受け継がれている。
倭の五王の時代、律令制国家以前
赤線は内陸部主要交通ルート
https://i.imgur.com/hoHEdkE.png
https://i.imgur.com/TA3rE0o.png これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が発見された。
最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ入る程の規模である。
同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。
根塚遺跡からは鉄剣が出土しているが、同様の鉄剣は朝鮮半島の蔚山下垡遺跡からも発見されており、渡来人との関連性が指摘されている。
紀元前の遺跡としては伊勢宮遺跡と篠ノ井遺跡が発見されているが、この遺跡から発見された人骨は渡来人の特徴が見られた。
北信では、北は木島平村、南は千曲市までの領域に約900程の積石塚古墳が見られ、大量の高句麗系渡来人が善光寺平に至ったと考えられている。
八丁鎧塚古墳の後には、大室古墳群や安坂古墳群などが形成された。
南信の伊那谷では特に宮垣外遺跡・新井原12号墳4号土壌・茶柄山古墳群・ 物見塚古墳などには、
馬や馬具の埋葬の仕方や埋葬品の形式から、朝鮮半島南部のあたりから渡来人が至ったとされている。
伊那市の手良地区には「大百済毛・小百済毛」という地域があり、この地名の由来はその名の通り百済からの渡来人によって開発されたからである。 三陸河北新報社2022年8月24日
【東北学院大博物館学芸員 佐藤敏幸氏】
宮城県は弥生時代の集団遺跡がとにかく少ない。人類の集落や生活の痕跡が見えない中、古墳時代前期(4世紀)になって突然、蛇田の新金沼遺跡に集落が出現する。
石巻地方に古墳時代人が登場したのである。
突然、大集落が出現しただけでも驚きなのに、さらに驚いたのは住居から出土した土器である。関東・東海地方の特徴を持つ弥生土器よりも装飾のない「土師器(はじき)」と呼ばれる土器である。
東北地方の古墳時代は関東・東海地方の人々の移住から始まったのである。
ともかくも、こうして東北各地に移民による拠点集落ができていった。
岩手奥州の中半入遺跡、石巻の新金沼遺跡、大崎の名生館遺跡、多賀城の山王遺跡、仙台平野の南小泉遺跡、名取の清水遺跡などが有名だ。
いずれも結構な数の須恵器の出土が見られる。
宮城県大崎市青山横穴古墳群、大崎市混内山横穴古墳群、塩竈市清水洞窟
山形県米沢市戸塚山古墳、福島県喜多方市灰塚山古墳、福島県郡山市正直古墳群
いずれの古墳人も、縄文人の特性は見られず渡来系の特徴を持つ
当然、さまざまな道も生まれていった。
仙台平野から大崎平野をへて北上盆地に向かっては「山道」(さんどう)と呼ばれた幹線道路があったことも知られている。
「道奥」は道がなかったわけではなく、中央ヤマトがそのようにみなしただけだった。 3〜4世紀、近畿勢力・東海勢力の関東・東北への集団移住 日本考古学協会 西川寿勝 2022 年 12 月 17 日
関東平野では東海の土器をもつ集落と近畿の土器をもつ集落がモザイク状に分布。
https://i.imgur.com/JjWfCJd.png
https://i.imgur.com/xN1nfOC.png 5世紀の仙台平野に朝鮮から伝わった大規模な須恵器窯跡群が置かれ一大生産地になったのも、この頃外交を担っていた上毛野氏などが先進技術を積極的に取り入れた功績、ではなかろうか。
北東北の古墳時代の開始期には、古墳文化圏から北上してきた土師器が加わり、5世紀になると多くの土師器に須恵器が加わるようになる。7世紀以降には土師器・須恵器のみとなるのである。
土師器は、西日本における弥生土器の製作・焼成技術がほとんどそのまま受け継がれて成立した土器である。器種は壺・甕・台付甕・坏・高坏・甑・器台・小型器台・小型丸底坩などで構成され、文様は基本的に施されない。
東北における古墳時代の土師器の変遷は、塩釜式→南小泉式→引田式→住社式とされ、これらの各型式は現在さらに細分されつつある。
青森県内では塩釜式に並行する土師器が五所川原市隠川遺跡で出土している。
須恵器は5世紀の初頭頃、朝鮮半島南部の陶工の渡来により製作され始めたもので、今のところ大阪府堺市大庭寺遺跡から出土した須恵器が日本最古のものとして知られている。
同市に所在する陶邑古窯群は日本の須恵器生産を一手に担っていたが、須恵器の生産技術はそこから徐々に各地へ広がり、東北地方南部にも及んだ。
東北最古の須恵器窯跡は、5世紀中頃の宮城県仙台市大蓮寺窯跡である。その後、仙台市金山窯跡や福島県泉崎村泉崎古窯跡などでも生産された。この頃の須恵器の器種は壺・甕・埦・高坏・甑・器台などが一般的である。
青森県における古墳時代の須恵器は、十和田湖町長根遺跡や天間林村森ヶ沢遺跡、八戸市市子林遺跡・田向冷水遺跡・八戸城跡、東通村浜尻屋遺跡の出土例が知られている。
長根遺跡の須恵器は大蓮寺窯製品の胎土と類似し、森ヶ沢遺跡の須恵器は畿内産のものと推定されている。 遠賀川系土器は東日本最古、紀元前6世紀の青森に伝わり、津軽垂柳遺跡で656面の水田跡、
弘前砂沢遺跡においても弥生文化が受容されていた
特に弘前砂沢遺跡112面の水田跡からは渡来系弥生人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた
https://i.imgur.com/d3ScV29.jpg
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垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はその灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など技術的には西日本の稲作技術と大差がない
つまり弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が東北にも到達しているのである
その後続々と関東・東北での出土例が相次ぎ、西日本各地とそう時間的な差が無くコメ或いは稲作が東北地方にまで伝わっていた可能性をもはや誰も否定できなくなった
垂柳遺跡、砂沢遺跡の水田はそれを証明したのである 秋田地蔵田遺跡(紀元前4世紀)はこの地方一帯の当時の一般的な住居構造である環濠集落、遠賀川系土器集団である。
渡来系弥生人コロニーを形成していた。
初期の稲作農耕文化を携えた人々が他所から移り住んでできた弥生集落と考えられるが、東北地方北部における稲作農耕文化の受容、成立過程とその地域的特質を考えるうえで、
ひいてはわが国の稲作農耕文化成立の過程を具体的に知るうえで特に重要であり、その歴史的意義はきわめて大きい。
新潟の下谷地遺跡(紀元前3世紀)は土器の9割を畿内系が占めており、畿内から東山ルートの陸路はこの頃から使われていたと考えられる。
その後、弥生期に東北地方や関東地方東北部を中心として急速に普及した管玉の大多数は、並行する側面をもつ朝鮮半島製の管玉である。
遠賀川系土器は日本海側を伝播、庄内式土器は弥生末期の布留式土器と変遷を辿りながら同時に岩手まで和人集落と共に太平洋側を北上する。 西暦150〜280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた
アテルイの本拠地である奥州胆沢でも常磐広町遺跡など紀元前後の高度な渡来系灌漑水稲集落が見つかっている
東日本古墳時代人の遺伝的特徴は東北地方縄文時代人とは大きく異なる一方、現代人には非常に近かった。
この結果は、古墳時代には既に、渡来型弥生人の遺伝的影響が東日本において集団の主体をなすほど大きくなっていた可能性を示していると考えられた。
https://i.imgur.com/0uLa3a5.png
エミシとは誰だったのか-学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像- エミシ・ユルマズは突厥系の経済評論家
大和言葉が使える 名前や文化すら意味不明な古代時代なんかドラマにできる訳ねーじゃんw 飛鳥~奈良時代でいいからやって欲しい
聖徳太子とか天智・天武天皇とか 4世紀末、倭国は馬産を高句麗から招致して「牧」を取り入れた
高句麗の馬具副葬古墳が最も多いのが牧が置かれた長野県、次いで群馬県となっている
https://i.imgur.com/2ftQetH.png 前半は卑弥子で後半は倭の五王ならネタはつきないんじゃね? 陳寿「邪馬台国?卑弥呼?ネタですよネタ。何、真に受けてるのw」 狗奴国王「*卑彌弖呼」pimete(k)[o,a] (日の本の子の意味)の陵墓と見られる静岡県の高尾山古墳って、本当に破壊されて道路にされる寸前だったんですね。
静岡県は知事含め人間の質が低いねえ まあ現代の日本人だって伝聞だけで行ったこともないアフリカの途上国の歴史を書いたら、
倭人伝みたいな怪しげな文章になるだろうな。 >>124
その例だと南北朝時代の日本国王良懐が良い例かもしれんな
中国の日本に対する認識の良い加減さが身に染みてわかるエピソードだわ
アフリカで思い出したけど弥助が故郷のモザンビークでは黒人奴隷じゃなくて自由意志で宣教師に着いて行って日本に行ったって説があるってNHKが紹介してたけど胡散臭いにも程があるな >>124
「外国人に桃太郎の挿絵を書かせる」っていう企画が凄く面白かった
それぞれの常識が違うから物語はちゃんと教えてるのに全く違う絵が出てくるんだよね
違う国の人が感じる情報の受け取り方は全く違うものになると理解した方がいいね まあ現代の日本人の中でも国賊と呼ばれる静岡県民は矯正が必要だな >>123
現代でこそ「歴史ある貴重な文化遺産」として保全、保護されてるけど、、、
長い歴史の中では問答無用で破壊され撤去された史跡はたくさん有るのだろうなー >>128
姫路城の石垣には石棺の蓋が嵌ってる現実w 歴史史料がないからな
比較的よく残ってるのは奈良時代 数世紀に渡り連綿と続いた古墳造りが何で終焉してしまったのか?
663年白村江の戦いの戦いで大敗した倭国は「次は確実に中国が我が国に攻め込んで来る!」と誤認してしまったことによる。
そして海岸沿いには防人を置き西日本各地で古墳に代わって徹底抗戦(籠城)用に山城を凄い勢いで造り始めたから、、、
それも僅か40年くらいの出来事だった。
が「攻めて来ない」と分かるや一転して遣唐使を送り「倭ではなく日本と言う別の国です」と中国に媚びを売り始めましたとさw 白村江の戦で唐・新羅連合軍に大敗した倭国だったが、その後、高句麗を巡って唐と新羅が対立したので倭国侵攻どころではなくなっていた。むしろ倭国がキャスティングボードを握る存在になっていた。そこで中大兄皇子は日本と改名し、唐との関係を深めるに至った。日本が一方的に媚びを売ったというよりも朝鮮半島情勢が日本に幸いしたともいえる。 >>134
いや〜唐は端から日本進出なんて考えてないよ。
白村江の戦いの戦後処理に筑紫にやって来た戦勝国の唐が大宰府を接収し筑紫都督府(唐の占領地)を置いたのもソノ為だろう。
「これは、、、百済復興どころではない!」と自国防衛に奔走した愚かな民の国、倭、、、
唐軍の読み通りw >>135
日本進出を考えてなかったのなら唐は筑紫都督府を何のために置いたのか?それに筑紫都督府は日本書紀に記されてるだけであって、長官の名前などはまったく書かれていない。大宰府を接収したというより大宰府の唐風の読みが都督府なんだろ。 >>130
あの石だけえらく存在感を放ってるよね
どこからもってきたんだろうか?
姫山? >>136
物見だよ。
いくら兵法のこともロクに知らない馬鹿な倭軍でも小舟に乗って百済復興のために半島へ大軍が押し寄せて来たら面倒だろ?
大宰府に筑紫都督府の看板を立てて再び挙兵しないか?を見張らせ更に「ここを拠点に倭国侵略の足がかりにする」と匂わせるだけで
良いんだから楽勝だったろう。
全ては唐軍の劉仁願の策略だよw >>138
で?その物見はその後どうなったの?
都督府を置いたものの朝鮮半島情勢により開店休業状態になり大宰府になったんじゃないの。ミイラ取りがミイラになったってことさ。 >>139
その通りだよ。
朝鮮半島の情勢と言うより肝心な唐の政変により半島支配どころじゃなくなり朝鮮から撤退してしまった、、、
当然、筑紫都督府も放置となりヤマト王権が大宰府(筑紫)の主権を取り戻し奈良時代へ突入しましたとさチャンチャンw >>133
その40年を大河にしてもらいたいな
白村江前夜から始める感じで 文献的にそれだけでは物足りないね。
推古天皇、聖徳太子に始まり蘇我氏の盛衰、大化の改新(乙巳の変)、天智天皇、天武天皇、最後は粟根真人で締めくくる、、、
倭国から日本国へと大転換する激動の七世紀(飛鳥時代)として描いてもらいたいな。 >西日本各地で古墳に代わって徹底抗戦(籠城)用に山城を凄い勢いで造り始めたから、、、
上でこのように書いたけど「古代山城」について日本書紀(続日本紀を含む)に記してある山城(=朝鮮式山城)と史書には全く記されて
いない山城(=神籠石系山城)がある理由を馬鹿な古代山城の研究者にはソレが分からないらしい。
朝鮮式山城はヤマト王権の直営で計画的に建設、神籠石系山城は地方の豪族が私費を投じて任意に建設したのモノだろう。
元は古墳を作るための費用や労力を山城に転換させただけ。
古墳造りは天皇家だけのものではないし地方の豪族もチカラを入れて造っていた。
ヤマト王権も倭の地を守りたいだろうし各地の豪族たちも自分らの領地は守りたいだろう。
敵は唐や新羅だ、他国の者に領土を奪われたくないよねw >>148
じゃぁ古墳に代わって墓はどうなったの? 飛鳥時代の頃になると仏教の浸透などにより寺院を建立(菩提寺)し祖先を祀る、、、じゃないの?
そもそも古墳は豪族が己のが権力を内外に誇示するために造っていた見栄の象徴。
それがヤマト王権による中央集権国家となり見栄を張る意味もなくなっている。
それどころか律令制度による駅伝制(道路)事業だ。
日本各地に号令し道路整備に地方は財力をかなり散財させられるハメになっている。
古墳→山城→道路w いずれにせよ、公共事業と言うことか。
それで経済が潤うならともかく、農民たちを使役するだけでは一方的な搾取でしかないな。 農閑期の福祉政策だったんじゃないの?
給料がどの程度だったかはともかく、飯は出しただろうし。
畑が忙しい時に農民をかりだしたら、豪族たちも困るし、一方的に搾取するだけだったらみんな逃げちゃうよ。 >農閑期の福祉政策だったんじゃないの?
その根拠は? 崇神を3世紀中頃にすると(没年干支258年説採用不採用関係なく)、たとえば、仁徳=倭王讃としたら、3世紀から5世紀初頭の大王平均在位が、それ以降より長すぎてしまう問題。また辻褄合わせで崇神陵を西殿塚にしても、垂仁や日葉酢媛の墓が佐紀古墳群未成立のため苦慮する問題
また、記紀の父子継承を信用することになるが、考古学と人類学の成果では、首長あるいはリーダー層の継承は、5世紀までは父子継承以外の兄弟継承なども多かったという研究とも抵触。稲荷山鉄剣銘も、「その児○○」の連続記述だが、地位継承伝承を、5世紀後半に理想として全て父子継承にした可能性
箸墓モモソヒメ伝承はあったのでしょう(卑弥呼かどうか別として)。しかし孝霊皇女で、記紀系譜では二代前。「欠史八代」系譜や伝承は、神武含めて7世紀前後の歴史書編纂過程で相当造作改変されていて、「崇神」以前の倭王伝承が隠れている(ただしもはや原形不明)と考えます。
四道将軍も、複数時期の話(「崇神」の前と後ろ)をまとめてしまったのではないかと。
まぁこんな所かな〜 黎明編は、藁の玉に入って弓を射るヤツ?
生け贄で埋められるけど、暫く生きてるヤツは何だ? 乞食や日本書紀がフィクションなんだからあり得んわな
源氏物語を大河ドラマにしようってのと同じくらいあり得ん 神話や伝説も、何らかの歴史的事実を下敷きにしてる場合は少なくない
(スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治が、出雲地方を流れる斐伊川の治水を比喩してるように)
とはいえ、ドラマにはできそうにないのは同意だけど >>159
そこは地味に治水工事をドラマ化しろよ
歴史考証も深めて 神話が入っているからってバッサリ切り捨てるのもどうかと思うけどな 3年にわたって綾瀬はるか主演のファンタジーをNHKでやってたので
無理ではないだろう。
神話を特撮でガンガンやればいい。むかしの東宝のゴジラ系にもそんなのがあった。 画は地味になるけど、鬼退治(土豪鎮圧)や治水工事などを丹念に描いていけば、ギリドラマ化は可能なんじゃないかな そうだね。
後は架空の渡来人との出会い・恋・別れを創作していけば良いかな >>165
それはドーかな?
余りに創作話ばかりだと興ざめしてしまう。
今やってる「光る君へ」では史実として紫式部の父(為時)の任地に道長が格別な便宜を図りチョッと良い所へ赴任させている、、、
ホンの細やかな逸話を元にソレを拡大解釈して「道長と紫式部はかつて恋仲だった」とするならソレなりに成立するだろーけど、、、
接点すらナニもない全くの創作エピソードで大河ドラマを作っても糞ツマンネーだけ。 大河じゃなくても別枠でやればいいじゃん。大奥などもドラマ化されたんだし。 今の光る君もRISE of the Roninも異世界ファンタジードラマなのは間違いない
そして、つまらない 雄略天皇を古事記などに忠実に描写したらコンプライアンス的にアウトだろ? 今朝の新聞の論説で、最近はやりのジェンダーフリーのCM引き合いに出して古墳時代の古墳は半分近くが女性のものだった、ヤマト朝廷に逆らう土蜘蛛には女性もいた、卑弥呼は政治もちゃんとやっていた、などと言い、明治以降の男中心の歴史学が古代の女性に対する偏見を作り上げたと論じている。事の真偽はともかくとしてジェンダーフリー思想と実証的な歴史学を混同してはいけないと痛切に感じた次第である。