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歴史秘話ヒストリア▽だからあなたと歩きたい愛新覚羅溥傑・浩 松下幸之助むめの ★2
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0003公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:13:23.14ID:pkeGFoty
いちおつ

今度はロボット会社が伸びていくかなぁ
0009公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:13:54.46ID:K6hduHpT
いちおつ
0011公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:01.52ID:FqHZ+f47
社会科見学松下の人はなんか貰えるの?
うちはポンジュースやったけどお土産もらえた
0012公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:13.42ID:Zk+zlWv8
・世田谷夫人(愛人)との間に、幸之助は四人の子供をもうけ、認知も済ませていたが、
そのことによって、死後、子供たちの実名が大阪・門真税務署によって明かされることになった。
当時の税法は、課税遺産総額が五億円を超える相続人は実名を公表することになっていたからだ。
幸之助の娘婿であり、松下電器会長だった松下正治は、記者会見でこの公示に対し「プライバシーの侵害」と声高に不快感を示し、
「週刊新潮」の記者から世田谷夫人について質問されると、吐き捨てるようにひとこと「知らん」と答えた。
0013公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:17.55ID:k2VO8wxh
孫かわいい
0017公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:37.83ID:K6hduHpT
次回は伊400くる
0021公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:43.72ID:WSxE/CEr
松下電器もナショナルも消してしまったのは正しかったのかね
0023公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:49.56ID:KwIyvToe
人に点数をつけるな
0024公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:49.85ID:pkeGFoty
>>7
黄色より濃い色で
0026公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:14:56.20ID:K6hduHpT
伊400回は名作
0031公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:15:06.38ID:E1xfr64w
年が明けた1957年2月、大久保と慧生の2人は蕎麦屋で長時間語り合った後、「婚約」を決める。
しかしその後、冷静さを取り戻した慧生は友人達の猛反対にもあい、何度か大久保に「婚約解消」を持ち出すが、その度に彼が自暴自棄になって解消は立ち消えになるという事を繰り返した。

慧生は家族に交際を知られないよう、大久保との手紙のやり取りを友人の名前で作った封筒で行うなど行動に細かくルールを取り決めていた。

7月、大久保は大学院進学を諦め、アルバイトをしながら2人の将来のための貯蓄をはじめる。お金は慧生が預かり、月に一度は貯金をするという約束をした。
慧生は夏に妹と冨士登山をしたり、友人との手紙のやり取りからも学生生活を謳歌していて、2年生の秋頃まで言動に陰りは見られない。

一方、大久保は10月末頃、知人にセックスに関する悩みを打ち明けている。
自分の父親が愛人に子供を産ませており、その血が自分にも流れている事を悩んでいた。
0038公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:15:40.61ID:CZKoWLK8
>>12
5億円以上も残せるなんてすごいや……
0039公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:15:44.61ID:E1xfr64w
>>31
事件の1か月ほど前の11月10日には、慧生は大久保に宛てた書簡の中で、「(前略)昼間屋上のベンチで過ごしたときのことを考えると涙が出てきます。今もあんなふうに武道様に甘えたい。
(中略)武道様が思ってくださると思うだけでニャンコは幸せです。ほんとうに幸せ。世界で一番幸せです」と綴り、「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様、エコより」と結んでいる。

同月13日の書簡には「誰もいなかったら飛んで行ってかじりつきたい」、15日には「『熱烈な恋愛中』と書いた幟を立てて毎日東京中を歩いてもかまわない」、17日には「武道様のそういう根本的な暖かさ」に「『ゾッコン参って』います」と書いている。

11月、慧生に思いを寄せていた男子学生が、秘密にしていた大久保との婚約を知った事による非難の手紙が慧生に送られている。慧生がまた体調を崩す。
11月30日、慧生から大久保宛の最後の手紙には、月曜日に毎月の貯金に一緒に行く事が書かれていて、死の影は見えない。

12月1日の日曜日、熱を出して休んでいた慧生の自宅に大久保と見られる男から電話があり、慧生が電話口で「いらしていただいても困ります!」と珍しく声を荒らげていた。その日の夕方、「自由が丘まで行く」と言って外出した。
0042公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:15:59.96ID:KwIyvToe
点数はと聞かれたら答えは

0044
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2020/07/29(水) 23:16:05.87ID:5HhRaYlA
伊400
岩002
0053公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:19:30.82ID:FqHZ+f47
>>51
うわああ裏山
今も金持ちはどんどこ外でも子供作ったらいいよね
少子化解消するし
0054公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:19:51.94ID:E1xfr64w
>>39
12月2日、慧生は少なくとも3人にSOSのサインを送っていた。大学で授業の前、親友の「オサト」に、バッグから取り出した拳銃を見せている。
「大久保君が青森のご実家から持ち出されたものなの。『この銃で自殺する』とおっしゃって。わたくし一生懸命説得してお預かりしましたのよ」と落ち着いた口調で話したという。

クラスメイトは皆大久保の自殺願望を知っており、オサトは慧生にそんなものを持っていたら危ない、誰かに預けるよう言い、慧生が「ええ、そうしますわ」と返事をしたため、教室に戻った。
もう1人の親友「木下」も同様に慧生から拳銃を見せられたが、日頃から2人の揉め事を聞かされていた事から、それが重大な結果に繋がるとは思わなかったという。

慧生の最後の手紙によると、この日の午後、慧生と大久保は長時間話合い、自殺するという大久保の決意を覆す事ができず、慧生も同意したとされる。
この前後にも慧生は大久保が暮らしていた学生寮「新星学寮」(上杉慎吉の元私塾)の寮監で、大久保の父の旧友であった穂積五一に電話を入れているが、風邪で休んでおり、対応した穂積の妻に「大久保さんが近頃・・」と言いかけたまま電話は切れたという。

12月3日、オサトは大学の移動時間に慧生を見かけ、拳銃の事について念を押した。この時の慧生は「ええ・・」と鈍い反応だったという。
オサトは慧生が特に変わった様子がなく、銃の件は何らかの形で解決したと考え、2人は笑顔で別れた。
0055公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:20:14.32ID:keu1VkNd
>>37

そうか?w
期待通りだったろ?w
0056公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:22:18.66ID:mypd0sBS
>>50
逆に「李香蘭」は、実は日本人だとわかって死刑を免れたとか
「裏切者」に厳しくあたったのかと思った
0057公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:26:32.38ID:E1xfr64w
>>54
12月4日の朝、慧生は普段通りに大学へ向かい、午前中には学生達から姿を目撃されている。午後7時頃、慧生が自宅に戻らない事から、家族が関係各所に電話をかけはじめる。
そのころ同日夕方には、湯ヶ島の静岡県警派出所に、伊豆の山中で男女を降ろしたタクシー運転手から「心中でもする気ではないか」という届けが入っていた。

12月5日、穂積の元に慧生からの最後の手紙が届く。手紙には、思いつめた武道に同行するが強制されたわけではない、といった内容が書かれていた。
大久保と同室の寮生から、2日前に身辺整理をしていた事、伊豆の地図を見ていた証言が出る。また秋には大久保が1人で伊豆へ旅行していた事も確認される。

12月6日、朝から寮生たちが伊豆方面に捜索に出る。
12月7日、新聞各紙の朝刊に「男友達に同情して“プリンセス”心中行ー元満州国皇帝のメイ家出」という見出しなどで記事が出る。オサトら学習院の同級生や地元の消防団が警察と共に伊豆での捜索に加わる。
オサトらは4日の夕方に修善寺駅から2人を乗せたタクシーの運転手の証言を聞いた。「天城山トンネルまで行ってくれ」と言われ、女性の方は「帰りましょう、ねえ、帰りましょう」「今なら、まだ間に合うから、帰りましょう」と言い続けていた。
午後5時頃に下車し、運転手は日暮れも近い事から、待っていましょうかと声をかけると、男は「この辺りはよく知ってるから」と即答した。
女性は「ああ!こんな時間!」と言って2人は八丁池に通じる道を登っていった。不審に思った運転手は、その後湯ヶ島の警察に通報した。慧生はこの登山道に沿って学習院のサークルチラシをちぎっていき、目印を残していた。
0058公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:28:12.61ID:E1xfr64w
>>57
12月8日、2人の足跡が八丁池方面三つ叉道付近で発見される。霧が深く立ちこめて視界がきかず、捜索打ち切りが決定され、同級生らは帰京した。
夕方、大久保家と嵯峨家の話し会いが持たれ、2人に関する一切を穂積に一任し、穂積は新聞・ラジオを通じて「姿を現せば2人の交際を認める」と呼びかけた。

12月9日、伊豆に残った学生らが樹木の古株の中で着替えや靴などの遺留品を発見。

12月10日、午前9時半頃、天城山頂トンネル入り口から八丁池へ登るコースを登った標高900mの雑木林の中で、山道から20mほど入った窪地で地元消防団員が2人の遺体を発見。
百日紅の木の下に2人が並んで横たわっていたとするが、近年になって遺体の第一発見者が、慧生は木の根元に凭れかかるようにして死んでおり、武道は1mほど離れたところに倒れていて、2人は別々に横たわっていたとする証言もある。

凶器になった銃は大久保の右手に握られていた。慧生の遺体は左こめかみに銃弾の穴があり、右利きの彼女は明らかに撃たれて死亡しており、右頬には銃弾が掠めたような深くえぐられた傷跡があった。
死亡診断書には「他殺。銃弾による頭部貫通」と記された。銃は武道が八戸の実家から持ち出した軍用拳銃で、父親の弥三郎が満州で憲兵をしていた時代のものだった。
0059公共放送名無しさん
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2020/07/29(水) 23:31:08.28ID:E1xfr64w
>>58
慧生の母・浩や嵯峨家では2人の交際を認めておらず、事件はピストルで脅され連れ出された上での無理心中であるとしている。
一方、大久保家は2人は合意の上での情死という認識であり、八戸の大久保家の墓には慧生の戒名が刻まれている。
2人の同級生や関係者がマスコミに様々に証言し、2人の書簡を発表して1958年に映画化され悲劇の純愛物語として流布されるなどした。

慧生の一周忌を記念して1959年(昭和34年)には母親の浩が自らの半生記『流転の王妃』を出版し、その中で、慧生には死ぬ気はなく、事件は心中ではないと主張した。

慧生の父溥傑は、慧生の死について、結婚を反対されたための自殺と考えていた。撫順戦犯管理処に収監されていた溥傑は、慧生から手紙を受け取り、好きな人がいると打ち明けられ、父の意見を求められた。
だが、長い間一緒にいられなかった溥傑は、母の意見に従うように慧生に返信し、後に慧生の死を知り、あの時自分が同意していれば慧生は死ぬことはなかっただろうと後悔している。

溥傑によると、浩は慧生を中国人と結婚させようと考え、慧生の選んだ相手のとの結婚に反対していた。
結婚を反対された慧生は父の同意を得ようと手紙を書いたが、当時そこまで思い至らたなかった溥傑は、母の意見に従うように返信したため、慧生をひどく失望させたという。
0060公共放送名無しさん
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2020/07/30(木) 01:00:40.28ID:HrfOky/U
>>59
慧生の伯父である溥儀は自伝『わが半生』で慧生の死について、恋愛問題のために自殺したとしており、無理心中を主張する嵯峨家に対して、愛新覚羅家では同意の上の心中と認識されている。
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