どうする家康(39)太閤、くたばる★4
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
10/15 (日) 20:00 ~ 20:45(45分)
茶々に拾(後の秀頼)が生まれた。家康(松本潤)の説得により、明との和睦を決めた秀吉(ムロツヨシ)。しかし、石田三成(中村七之助)たちが結んだ和議が嘘とわかると、朝鮮へ兵を差し向けると宣言、秀吉の暴走が再び始まった。都が重い空気に包まれる中、家康は息子の秀忠(森崎ウィン)を連れて、京に隠居していた忠次(大森南朋)を訪ねた。忠次から最後の願いを託され、悩む家康に秀吉が倒れたとの知らせが届く。
【出演】松本潤,大森南朋,山田裕貴,板垣李光人,松本若菜,森崎ウィン,猫背椿,忍成修吾,淵上泰史,深水元基,池内万作,でんでん,隈部洋平,北川景子,ムロツヨシ,松山ケンイチ,中村七之助,宅麻伸ほか
【作】古沢良太
※前スレ
どうする家康(39)太閤、くたばる★2
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1697367816/
どうする家康(39)太閤、くたばる★3
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1697368797/ 来週から留めはセーラーマーズになるか
これもすごいな… 死ぬ間際に妻から「あの子はあなたの子供じゃないよ♪」って言われる地獄 銀英伝 パクったセリフ?
〃∩∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
`ヽ_っ⌒/⌒c 何これ
どっちやねん
どっちで描くねん
おかしいだろ演出が
さすがにくるってる 秀吉の子ではないって言われてるもんな
わたしの子ってセリフ 出来ると言うより
やらざるを得ない順番が運悪く回って来ちゃった感じだな家康 一話の中だけど作中で何年か経っているよね?
今思い出すの? (´・ω・`)最期見ろの顔の皮膚どうなってた?特殊メイクなの?もう一回コマ送りで検証したい。 この場面のほんの少し前に
信長様 って様つけで話してたのに
今度は信長と呼び捨てってさ 古沢は現代劇のほうが良いな
なんか漫画っぽい大河だった ここでぷぴーぷぴーぷぴーは笑いが出るからやめろwww 五大老・五奉行でってことなんかもしれんが
三成がこんなこと言うかねえ? そんなわけないのに家康が善人に見えてきた(´・ω・`) 次回予告
ジャニー喜多川が死去し、国内に動揺が走る。家康(松本潤)は藤島ジュリー景子と朝鮮出兵の後始末に追われる。ジャニー喜多川の遺言に従い、家康は五大老たちと政治を行おうとするものの、東山紀之や井ノ原快彦は自国に引き上げ、近藤真彦は病に倒れる。家康は駒(門脇麦)ら諸国大名たちから頼られる中、やがて政治の中心を担うようになる。そんな家康に野心ありとみた藤島ジュリー景子は警戒心を強め、二人は対立を深めていく。 直江状はスルーかな?
〃∩∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
`ヽ_っ⌒/⌒c 三成屋敷襲撃キタワァ━━━━━━(n'∀')η━━━━━━ !!!! もうNHKから赤軍シンパの
極左職員追い出せよ
歴史も大河もメチャクチャや 知恵ないヤツは下克上で死んでる時代だぞ
大名やれてる時点でそれなりに知恵者だ
前提がおかしいわ 酒井「そら〜憎まれ役は信長と秀吉がやってくれたんだから後の美味しいとこだけ持っていけば出来まする」 茶々は死んで欲しかったのに悲しいのか?よく分からん演出 そっかー石川数正退場しても
松重さんはナレが残るのかー 登場することなくひっそりと死んだ半蔵
服部半蔵
死亡日: 1597年1月2日
豊臣秀吉
死亡日: 1598年9月18日 顔まで老けさせなくていいよな
高橋英樹とか若々しいじゃん >>58
ラインハルト様、宇宙を手にお入れください 三成悪役化じゃなくて可哀相になるパターンかな…………… 家康めちゃ面白いんだけど
もっと早くこの展開してたらなあ
築山事件までのんびりしすぎてたよ 数回ぶりに見た
いちおう歴史をなぞっているんだろうけど、なんか伝わってくるものがないな なんかいつの間にか天下が転がり込んで来た流れなんよな このコーナー枠拡大して近場の飯屋も紹介すればいいのに 秀吉の遺訓法度を平然と破って婚姻外交に奔るからな家康 石川数正、
ナレやってるのに、ナレすらなくしんじゃった 瀬名が戦したくないって言ってたからー!
海老すくいが天下取れって言ったからー!
なにこれ いろいろ端折ってきてつまらんな
けっきょく誰の子か分からんし
淀君は悪女そのものになってたな 吉田城の中には入ったが
建物には入らなかったな
だいぶ前に 脚本があまりに秀吉ディス淀君ディスがひどかったので
現場の判断で淀君が秀吉を愛していたような
そういう解釈もできるシーンを入れたのかな
週刊文春の記事とも合致するし 酒井家は別家は大老もだして繁栄したけど
忠次の家は地味に終わったな(´・ω・`) >>170
そう仕向けられてない?と思うこともある テンポ遅くね?
もう10月だよ
こっからだろ家康って なぜ豊橋は吉田と言わずに豊川にかかる橋の名前なのか >>140
光GENJIで
他人の子供を育てたのが居たな
〃∩∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
`ヽ_っ⌒/⌒c >>128
GHQの思想がたっぷり入った戦国大河w >>130
>>164
松平初代から使えた家臣で大名に慣れて幕末まで続いたのは酒井家と林家だけだな 合議で決めるんじゃ → ワシは天下人になる
意味が分からないよ 後は関ヶ原の戦いに江戸幕府成立に大阪の陣だけなのにこれで12月までもたせるのか NHK「経費節減のため関ヶ原は真田丸方式でやります」 なんか唐突なんだよな、今週までは光成と良い関係だったのに
来週はもう反目し合うのか あとせいぜい10回で
大政奉還までやりきれるのか? >>14
西洋の音楽家で妻の不貞を知りながら何も言わずに、臨終の際に妻にかけた生涯最期の言葉が「私は全て知っているんだよ」だったとな 忠次は三河の一向一揆の時浄土真宗から浄土宗に変えて忠誠したからな とりあえずこの家康は
信長とか秀吉とか簡単に呼び捨てにするよな >>151
ネタバレで生存するのは確定してる
関ヶ原で出番ある(´・ω・`) さかいが死ぬ時にお前も子供は大事かって言ってた話は? もし40歳くらいの息子がいたら、豊臣の天下は続いてたのかな? 大河ってこの前のやつもそうだけど上の人と家臣との関係に終始してこの人たちがそれぞれ何やってたか紀行を見ないと分からん仕組み >>222
旗本で明治まで生き残ったのは多いのか
〃∩∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
`ヽ_っ⌒/⌒c なんか、ジャニーズの騒動のせいでさらにつまんなくなったな。 40話 三成蟄居
41話 会津征伐へ
42話 伏見鳥居死亡
43話 関ヶ原
44話 於大直政康政忠勝死去
45話 二条城会見
46話 方広寺、大坂の陣開戦
47話48話 大坂落城、家康死亡 >>210
なんで連れてこれなかったんだっけ?
江戸で薩摩藩邸焼いたりしてたよね? >>151
たぶん先代そっくりの二代目服部半蔵が登場(演:山田孝之) 1話から見てきたけどもう限界、こんな大河見てられない >>179
まあ今回のテーマだからね
そうなるかと >>233
いつの間にかKPOPアイドル主演になるかも(´・ω・`) このイスラエル風のドラマにしてほしいわ。本気感がないんよ >>257
続いていたよ。
二代目に逆らうのはいない >>257
続いていたよ。
二代目に逆らうのはいない >>155
あれは真田丸が出来上がった時やから
最終回ではないぞ ガザ侵攻のほうがよっぽどドラマだわ
下手な作り話では勝てない 旭姫、石川数正、大久保忠世、服部半蔵…
重要キャラだったのにナレーションすらなくいつの間にか死んでた人達
酒井や秀吉の最後に尺取るのはまあ分かるけど、だからと言って上の人々全員いつの間にか死んでた扱いは極端過ぎるだろw >>269
同じ感想だけど、ここまで来たら最後まで見るわw >>203
週刊誌では松潤が演出や脚本にも口出しして改悪させてるって事になってるな >>228
先週かな?酒井家の墓公表するよ!ってのがニュースなってた >>167
脚本家の力量不足
松潤が脚本にケチつけたせいかもしれないけど 毎年、ガザなんて攻撃されてるのになんで今回はこんなに大騒ぎなんだ? 北川「は?淀殿は秀吉ラブみたいな演技をしてたのに
整合性取れなくないですか?いつ不倫したんですか?」
担当D「わかりました。死ぬ前に秀吉に嘘をついていたように観える演出にします」 >>285
真田十勇士は創作だろ
モデルになった人物はいるかもしれんが 今後イスラエルが関ヶ原の戦いに勝利してシリアとガザの土地をイスラエル領にするんやろ。天下分け目の戦いやで なんやかんやあって
秀吉が死にました
からスタートしてたら名作になってた
はず >>257
せめて秀次に中継ぎリリーフさせてたら秀頼にスムーズに天下譲渡できたと思うが
秀吉は秀次を信じきれなかったんだろう この泣いてる子のリアリティに勝てるドラマを作れるかね >>229
関ヶ原を10月半ばに合わせてオンエアとなると11月末終了でいいな
12月は坂の上の雲の再放送でもやってほしい >>101
逆にここまで秀吉を信用していた良い人設定だとトップとしてお花畑過ぎて上に立って欲しくないと今回見て思ったわ >>263
まさに江戸部隊だったから
当時譜代大名最新鋭だったのに >>292
普通はPが立場的に暴走止めるけど忖度してこのザマです >>293
イスラエルがパレスチナ人をホロコーストする宣言したから >>281
その関連話
今日の家康祭りで磯田教授が おんな太閤記を思い返すにやっぱり橋田先生は凄い脚本家ってのがわかるね、寧々が豊臣を見限ったから徳川が天下を取れたのねここまで全く寧々の思いを描いてない ガザ地区ぶっ潰せば紛争なくなるんだろ?
やっちまえよ >>306
駒さん同じ時代だからどこかにいるんだよな w w 公式ガイドブック完結編による今後の予定
39話(今回)…秀吉の死
43話…関ヶ原の戦い
44話…江戸幕府成立
46話…大坂冬の陣
47話…大坂夏の陣
48話(最終回)…家康の死
全48話で確定
ここから関ヶ原までは3〜4話かけるようだが、それ以降は巻きで家康の死まで一挙にやります >>282
大久保忠世は小田原城主に任命されたシーンが実質退場っぽい雰囲気だったしな >>257
いたとしても家康筆頭に有力大名多すぎて
運営クッソ大変や >>267
レスで台詞泥棒とか何のことやらとおもったら
こういうのが出てたのか >>304
葵徳川三代って大河ドラマが
昔あってなぁ >>226
ジャンプやラノベ歯科読んでないようなのばっかだからな >>252
ゲームの戦国無双の家康ですら信長や秀吉は呼び捨てなかった記憶
あ、でもBASARAは呼び捨てだったかも >>257
秀次がそのまま関白続けられてたら簡単には滅びなかったな
何せ子供が多かったから >>300
欧米の歴史で習う日本人は家康位ってドイツ人とスイス人からは言われた 担当D「ムロさんすみません、脚本の先生がどうしても秀吉を悪役とすると言って聞かなくて…」
ムロ「ええんよ、悪人でも魅力的に見えるように演技するのが俳優の腕の見せどころだから」 信長と家康のホモ展開に時間とったせいで
秀吉天下時代はスカスカやん >>322
今回でやるんやろ。シリアも全土イスラエル領になるんやで >>281
石川数正が毒見役でその終わり方なら評価されるかも >>321
反戦&女性史観がにじみ出てたが
やはりドラマの脚本の腕は一流だからなあ(´・ω・`) >>326
巻きすぎだろw
秀吉なんてナレ死でいいのに >>326
家康の生涯を丁寧にやると2年は必要なんだろうな
1983の大河もそんなところあった >>295
井伊家はアカン
慶長元和の装備で長州と戦った 野村萬斎演出…
これが東京オリンピック開会式でやろうとした事か >>287
リドリースコットのキングダムオブヘブン
主人公に信仰とはって問われてサラディンのnothing ・・everythingって最後のセリフがかっこいい >>325
長久手の戦いで総大将に指名されて気合い入れてたシーンと、前回で関白に任命された場面だけだったな
Wikipedia見てたら秀次役の人は個別記事のない人だったので、これは殆ど出番ないのかな…と思ってたら案の定だった
にしてもまさかマトモなセリフすら無いとはw >>284
皆口は出してるよただそれが採用されるかされないかは監督次第
あとその記事では松潤が岡田が出る事嫌がったとあるけど岡田はスケジュールの都合で無理と言ってたのを松潤が頼んで出る事になったから明かなガセ >>326
最後にみんなの顔が浮かんで死亡だったっけ(´・ω・`) >>331
2000年の葵徳川三代
NHKオンデマンドで半年前に見たわ
月額1000円で昔の大河見れるんだけどドキュメンタリーも全部開放して欲しいわ >>345
葵三代なんて秀吉の死から家康の死までで30話くらいあったしなw
濃密な75年の生涯を真面目にやったら2年はかかるわな >>292
むしろひどい脚本にケチつけて改善されたんじゃ?
なんか前半と違ってちゃんとしたドラマになってきてるよ? >>345
1983版は当時子供すぎて内容は覚えていないが
テーマ曲がかっこよかった記憶 やはり最終話のサブタイトルは「どうする家康」で決定だな >>346
なぜか紀州兵が最強だったんだなあれ
紀州がそのまま天下取ればよかったと今でも思ってる >>326
広瀬アリス「ワタシなんかで丸々1話も使うから w w w」 >>326
真田って佐藤浩市がチラッと出て
忠勝の娘の縁談があったなぁ位な気がするけど
大坂の陣とか盛り上げられるんだろうか… 井伊家は浦賀警部にこきつかわれたり
言われなく領地没収されたりしてたから
徳川を守るための防備に金を使えなかった
井伊直弼も手紙で苦悩を吐露している 葵徳川三代の関ヶ原の映像はいまでも歴史番組で流用されるよね >>360
築山が死んでからお花畑が無くなったからね 秀次事件スルーして最上の娘の件もスルー
瀬名教に尺使いすぎてスッカスカやなぁ どーでもいいけど
19人も作った家康の子作りがぜんぜん焦点当てられないな
津川さんの時は
「これで16人目だぞ!秀忠お前もしっかりせい」 みたいなセリフあったのに >>321
秀吉と茶々の最期のシーンを寧々が見えないところで聞いていたとかだったら徳川につく理由になりそう 過去に素晴らしい作品があるのに、なぜそれを超えることもない作品をわざわざまた作る必要があるのだろう >>368
一応最も愛された側室とは言われてる
正室があれだし実質№1LOVEだったんじゃね >>363
本戦ドンパチは一話
その前は三成追放やら上田合戦やら小山会議やらで消費(´・ω・`) >>328
秀長も死んだと言及されてないけど秀吉に欲張るなよ…って言ってたとこが最後ってことだったぽいしな
しかしそういう場面もなくいつの間にか消えた旭姫は酷すぎないか?w仮にも第二の正室なのにw
寝込んでる場面はあったけど、歴史に詳しくない視聴者だと家康の奥さんの秀吉の妹はもう死んでるって分かってない人も多そう
せめて秀次みたいに死んだことを一言セリフで説明くらいしてやれよ… 成長した秀頼にVIVANTのドラムちゃん使ってテコ入れしようや
秀頼デカかったらしいし >>369
関ヶ原後の山田裕貴の「殿と一戦つかまつる!」はあるだろうか・・・ 葵徳川三代はこのドラマみたいに家康美化してなかったけど
家康を魅力的に描いてたし
三成もここまで美化してなかったけど
欠点もあるけど立派な人に描いていた >>369
くそー ラグビーさえ無ければ
ラグビーさえ無ければ >>379
現在の画面サイズで4Kに耐えうる映像作品が欲しいらしいね(´・ω・`) 鎌倉幕府・室町幕府と武家政権は上手くいかなかったが
いよいよ家康が完成形を作り上げるのか・・・ >>386
秀吉はチビだった
秀頼は本当に誰の子だったんだろうな? >>326
スッカスカで草
これから家康がブラック化するのに今回の酒井のように天下取り出されで言いくるめるんだろうな とぼけ演技のムロツヨシが
千田みつおに見えたきたわ 大河って途中無駄に引っ張るからいつも最後は巻きで終わるよな >>388
お前アホだな
家康美化ではない
松潤美化である >>267
元から脚本がひどいの明らかだし
役者が介入したところで
クソ脚本への影響度がどちらがどのくらいやら?・・・と思うな >>385
あの場面ではほぼ影響無く
問題は統一が成ったときに突如またお花畑ワールドが完成したと出てくること >>386
なんでドラム??168cmしかないチビやぞ >>318
ハマスをだろ
お前日本人は皆赤軍だとでも思ってそう >>274
KPOPアイドル主演で太平洋戦争モノの大河作るとか >>371
昔はNHK歴史物の合戦シーンには「真田太平記」が何故かよく使われてたなぁ・・・ >>391
それならAI画像補正技術に予算を使うほうがいい気がする >>376
方広寺鐘銘事件やると思ってる奴いる? いねぇよなぁ!!? お話の流れとしては原作アリを脚本に落とす方がちゃんと出来ると思うの
脚本家大変やと思うわ >>404
まああれと比べるのが駄目なんだけどな
当時の大物俳優が多数出演の超豪華版だったからな 石田三成は本人は関ケ原のあとに斬首されて終わるけど
彼の息子・娘・孫が地味にすごいんだよな。 >>404
光圀を語り部にしたのは凄いアイデアだと思う >>386
芸人のアントニーはどうかな?
太っていて大きいから秀頼にぴったり。 源氏発祥の地、源満仲や源義家などを祀る川西市の多田神社、太田道灌も系図に、多田神社の縁で佃の田蓑神社などと縁ができ佃島、佃煮に
多田神社 川西市 多田神社についてhttps://tadajinjya.or.jp/about/
所在地 〒666-0127 兵庫県川西市多田院多田所町1-1
参拝時間:06:00~17:00
多田神社社務所 >>326
大坂の陣で淀へのガルバリン砲どう描くのかと思ってたけど
今日急に淀が闇落ちしたから撃ちやすくなった 今回の大河は家康の前半生(主に信長時代)に比重を置いた構成だったんだろうな
脚本家的には秀吉に臣従した辺りが実質最終回のつもりで、後はちょっと長めのエピローグというか後日談というかなつもりなんじゃね?
だから駆け足ダイジェストになる
家康の後半生詳しく見たけりゃ葵三代でも見とけみたいな 糞ラグビーのせいで
↓
視聴率が下がる
↓
話数が1回減る 葵徳川三代のOPでは光圀と三成が喋るという場面があったな。 >>406
淀殿から家康への挑戦状的に・・・
それを察して「お市様の娘とは戦えぬ・・・」と苦悩する松潤。 >>377
徳川15代子だくさんランキングだと
1位:11代・家斉53人
2位:12代・家慶27人
3位:15代・慶喜21人
だそうだ 葵徳川三代の関ケ原って相当金掛けてんだろ
今無理だよね >>357
葵三代はBS再放送を全話録ったけど
未だに何度も見てる
合戦シーンがガチの大軍勢で
金のかけ方が半端ない 関ケ原は影武者を立てて松潤家康を別人に挿げ替えるチャンスではあるな。。。 >>420
徳川のいいがかりじゃなくてマジで徳川への呪詛説を取るわけか >>421
天下は身内で固めろ、的な家康のメッセージだし
そらみんな作りまくるわな 家斉はヤリすぎだけど >>404
>>408
葵徳川三代と坂の上の雲はホントに地上波でこれやっちゃって良いの!?ってクオリティだった
まあそれだけに予算も並の大河と比べてかなりかかったようだけど クドカンに対して時系列を変える脚本書かないように口を酸っぱくして言ってたらしいけど
時代ものを面白く描くには時系列を変えるのが一番だよな
葵徳川三代が証明している >>423
戦国鍋TVの戦国コールセンターで、働いている本多正信に出世したのをネタむ本多一族の親戚一同からイタズラ電話がが掛かってくるというネタは、
ネタとしては面白かった。ほか太原雪斎、黒田官兵衛、竹中半兵衛、立花道雪なども一緒に働いている 太閤記でも最初に東海道新幹線の映像出したりしてたらしいけど
昔の方が斬新な演出してたってどういうことなの >>421
当時は子供の死亡率が信じられないくらい高かったからな
それも上流階級の子供ほどよく死んでた >>432
昔は大河が遊んでも代わりの時代劇がいくらでもあったけど
今は地上波の連続時代劇が大河しかないから視聴者の目が厳しくて遊んでられないんだよ >>432
昔は大河が遊んでも代わりの時代劇がいくらでもあったけど
今は地上波の連続時代劇が大河しかないから視聴者の目が厳しくて遊んでられないんだよ 織田家も信雄が無能だったから秀吉に天下取られてたしな
秀頼が早く生まれてても豊臣家が続いてたかどうか 桜田淳子先生が喜んでおられるのにお前ら雑魚ウヨが文句言いなよ 秀吉が家康にどうせ天下はお前の物だろと言っといて
家康がその気になったのを見て
家康に謀反の気ありとして三成に家康を殺すように命じる展開と思ってたわ 秀頼はどうすりゃ生き残れたんや?
伊予転封に従えばよかったんか? >>61
武田信玄の最終回はナレーションで大井夫人の若尾文子が今までの登場人物が出てきて紹介するという演出だった、
最初の板垣甘利から柴田恭兵の上杉謙信や中村橋之助の徳川家康とか、市川園蔵の足利義昭将軍とか中村勘九郎の今川義元とか しかし不思議でしょうがない
なんで熊にそこまで感情移入するのか
カルト過ぎる 日本人悪い人、秀吉はもっと悪い人、アイヌいい人、朝鮮人もっといい人 結果論だけど豊臣秀長が男子を沢山つくっとけばってのがあると思う。まあ秀長は自重してあんまり子だくさんにしなかったんだろうけどお家騒動のリスク考えて。 大一 大万 大吉 佐和山の石田三成
三方よし 近江商人 >>450 古川鉄治郎という「近江商人」 - 丸紅株式会社 https://www.marubeni.com/jp/company/history/toyosato/
近江商人の精神「陰徳善事」と「三方よし」
伊藤家で商売を学び頭角を現した古川は、のちの伊藤忠商店の支配人を若くして務めた。
1921年に設立された丸紅商店では与信制度や予算制度など近代的な経営管理を導入し、同社を貿易商社へと成長させた。
「古川鉄治郎の経営哲学は、近江商人が到達した精神である『三方よし』(売り手によし、買い手によし、世間によし)と『陰徳善事』の実践に尽きるのです」
こう話すのは、滋賀大学で商業史を研究する宇佐美英機特別招聘教授だ。「古川は相手に喜ばれる経営――相手を潰さない、相手の体力に応じた商い――を貫きました」
故郷から離れた地で商いを発展させるのが近江商人の特徴であり、日本を代表する数多くの企業が近江商人をルーツに持つ。
古川の視線はさらに遠く、海の向こうにも向けられた。1928年、実弟である義三の海外視察に同行し、7カ月かけて欧米諸国を旅した。
米国訪問中、製造業やデパートの効率的な経営に古川が驚嘆した様子が、義三の著書『世界ひとのぞ記』に記されている。
古川兄弟がとりわけ感銘を受けたのは、スタンフォード大学だった。同大は、鉄道王のリーランド・スタンフォードが病気で早世した一人息子を偲び、巨額の私財を寄付したことによって作られた。
「世の中には財産を作る人は沢山にあるが、作った財産の処分をうまくやっている人は少ない。日本内地の財産家は(自分が作った財産を)無理に子どもに伝えようとして、却って馬鹿息子を出している」と義三は嘆き、
日本人はスタンフォードの財産処分法を見習うべきであると書いている。 >>451 丸紅商店専務が故郷・豊郷に建てた理想の学び舎
丸紅商店専務 古川鉄治郎の銅像 滋賀県犬上郡豊郷町には、江戸時代の五街道のひとつである中山道が通っている。
街道沿いには伝統的な民家が建ち並び、外壁や柵に弁柄塗りをほどこした家も多い中、広大な敷地に噴水を備え、壮麗な佇まいを見せる白亜の西洋建築がある。
豊郷小学校旧校舎群だ。1921年から1940年まで丸紅商店の専務を務め、丸紅の礎を築いた古川鉄治郎が故郷の子どもたちのために私財を投げ打ち、1937年に完成させた。
設計したのはアメリカ人の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズだ。小学校は2004年に新校舎へ移り、旧校舎は現在国の登録有形文化財になっているが、その一部は図書館や教育委員会、育児支援施設として使われている。
前面に大きな窓を配して天井を高くした校舎は採光に優れ、電灯を使用する必要はほとんどなかったという。広々とした廊下の幅は、約3メートルだ。3階まで続く階段の手すりには、うさぎとカメがかけっこをする真鍮のオブジェが置かれている。
伝えられるところによれば、豊郷小学校のシンボルを作ろうとヴォーリズから提案されたとき、古川の頭には尋常小学校を卒業するときに恩師から言われた言葉が浮かんだという。
「誰も見ていないところでも努力し、ゆっくりでもいいから前へ進んで行きなさい」
優秀で社交的な兄とは違い、動きが遅くていじめられっ子だったという古川少年に、恩師はイソップの寓話を話してくれた。
兄と同じように高等教育を受けたかったが、油屋を営む実家は裕福ではなく子沢山で、古川少年は進学をあきらめざるを得なかった。
11歳になると親元を離れて大阪へ行き、叔父である伊藤忠兵衛のもとで丁稚奉公を始めた。 >>452 >>451 五個荘 湖東商人 - 日野・五個荘・近江八幡 近江商人のふるさと https://omi-syonin.com/kotou_syounin/
湖東商人 五個荘、愛知川、能登川、高宮などの愛知川流域を中心とする地域から出た湖東商人は、江戸後期になって登場しました。
この時期、諸藩は財源の拡大のため国産品奨励をはかり、専売政策を積極的に進めました。
湖東地方では彦根藩の後援もあって、地場産業の麻布の生産が盛んになり、湖東商人達は特産の近江麻布を持ち下り商品として持参する全国行商を始めたのです。
繊維品を主に取り扱った湖東商人は、京坂や東海道で仕入れた呉服・綿関係品を関東・信州で売却し、関東・東北で仕入れた関東呉服・生糸・紅花類を名古屋・近江・京坂等で販売する産物廻しの商法に従事し、着実に畜富を重ねました。
そして、店舗を開設するほどの身代になっても、出身地が中山道沿いという地の利を生かして、近江の本家そのものも営業の一拠点として活用し、京都・大坂や江戸といった大都市に出店をかまえるのが通例でした。
その市場開拓の方法は、既成の大商店の商圏を避け、主街道よりも脇街道を主とし、農漁村の万屋的小売商人への委託販売をおこないました。
このように湖東商人の営業活動は、藩の専売政策によって貨幣が浸透した農村の人々の需要を掘り起こすことになったのであり、現代の商社活動につながる要素を持っていました。
近江商人としては後発であった湖東商人の特徴は、商家の多くが近代企業に転身して今も老舗企業群として存続していることです。
明治維新以降は、営業の本拠を京都・大阪・東京に移して、多くの出店を国内はもとより海外にまで展開するようになり、
総合商社「伊藤忠」・「丸紅」の祖である伊藤忠兵衛や、朝鮮半島・中国大陸に一大百貨店網を築いた「三中井」の中江勝治郎を生み出したのです。伊藤家の布商の看板 >>453 近江八幡 八幡商人 - 日野・五個荘・近江八幡 近江商人のふるさと
https://omi-syonin.com/hachiman_syounin/
八幡商人 八幡商人は、近江商人の中でも早くから活躍しました。豊臣秀次の時代に建設された八幡山城下町には、織田信長の安土城下の商人や、近在の湖東の村々の人々が移住して八幡町民を構成しました。
彼らは、中世の近江商人の本場である保内や五個荘(いずれも現、東近江市)の商人の流れを汲む人々でした。この伝統ある商人の血をうけついでいることに加えて、信長や秀次が打ち出した楽市楽座や諸役免除などの先進的な商工政策と、交通の要衝に位置する八幡の地理的環境は城下の人々を大いに刺激しました。
八幡商人の中には朱印船貿易商として安南(ベトナム)へ渡航した西村太郎右衛門や、
シャム(タイ)と交易してシャム染をもたらしたとの伝承のあるシャムロ屋勘兵衛があらわれ、江戸初期に八幡山城が廃城となって城下町でなくなった後も、
他にさきがけて国内全域に雄飛する多数の商人を生み出したのです。
城下町江戸の建設時から、はやくも江戸の中心街である日本橋通には西川甚五郎・伴伝兵衛・伴庄右衛門・世継喜八郎などの八幡商人の大店が軒を連ね、
そのほか京都・大坂をはじめ北海道から東北、関東、中部、中国、九州地方にいたるまで出店を開設し、八幡に本家を構えながらその足跡は全国におよびました。八幡商人の特徴は、日本全国の城下町建設ブームに乗った商人にふさわしく、リスクを云々するよりも、チャンスに賭ける機敏で胆力のある商人であったこと、
それに創業期こそ行商でしたが、やがて三都をはじめ比較的大きな都市に、数は少ないが大規模な店を構え、東西物産の交易にあたったことなどです。 >>454 豊臣秀次について | (一社)近江八幡 ... https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/hidetsugu/まちのひとが大切に守る開祖・豊臣秀次の思いで
平和な町づくりに情熱を燃やした武将 1585年、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀次は、信長亡き後の安土城下の民を近江八幡に移し城下町を開きました。
自由商業都市としての発展を目指して楽市楽座を施行、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぎ、往来する船を寄港させるなど、秀次はわずか5年の八幡山城在城の間に、商いのまちとしての繁栄の基盤を築いたのでした。
若くして悲運の最期を遂げた秀次ですが、近江八幡の開町の祖として市民に慕われており、彼のまちづくりにかけた情熱は、
今日、八幡堀や町並み保存運動をはじめとする歴史を活かした近江八幡のまちづくりに受け継がれています。
豊臣秀次(1568〜1595) 豊臣秀吉の姉・ともの子。秀吉の養子となり関白職を継ぎましたが、後に秀頼が産まれ、後継者を巡る争いにより自害させられました。
八幡公園には開町の祖・秀次の銅像が建てられています。 >>450 >>455 兼松のストーリー | 企業情報 https://www.kanematsu.co.jp/company/history/story.html
高度成長期 1967年〜
1967年に兼松と江商が合併し、総合商社化を一段と加速。
1970年代後半には、インフレの原因は商社活動にあるといった商社批判や、商社不要論が囁かれた「商社冬の時代」の中、兼松も増収ながら減益という苦難の時期を経験。 本仮屋ユイカ、胸元あらわな最新ショットに騒然「別人かと」「高梨沙羅より顔が変わった」「浜辺美波っぽい」
https://hkuiu.skoglump.org/1016/kyb36k.html 和田倉噴水公園 現在の和田倉噴水地区は、江戸時代以前は漁業が盛んな東京湾の入江に面していました。江戸時代の初期(1603〜14)に海面が埋め立てられ、江戸城へ生活物資を運ぶための荷揚場や倉庫(一ノ蔵地)が置かれるなど、道三堀を利用した海上輸送の拠点になっていました。
その頃にはお濠に和田倉橋が架かり、和田倉門(枡形門)が設けられていました。
その後、和田倉地区には、御用屋敷や厩(うまや)といった幕府御用地であったり、大名屋敷であったりと、一定した位置付けではなく、なおかつ20〜50 年の間隔で頻繁に変化していたようです。
ちなみに 1620 年以降の変遷をみてみると、大名屋敷(1620〜1657)→厩(1683〜1684)→大名屋敷(1684〜1688)→御用屋敷(1688〜1713)→会津藩預屋敷(1713〜1741)→厩(1741〜1819)→会津藩預屋敷(1819〜幕末)→厩(明治7〜9)→内務省図書館(明治16〜19)と変化しています。
明治元年(1868年9月20日、天皇は2000人の諸藩兵に守られて京都を出発し、10月13日に芝増上寺で行列を整え、呉服橋から和田倉橋を通って東京城(江戸城)に入城しました。
天皇はいったん京都に戻られましたが、翌年2月28日に再び行幸され、その後は一度も京都には戻られませんでした。この日、東京城は「皇城」と改められました。
和田倉噴水公園には噴水施設や落水施設、休憩施設など様々な施設があります。各施設のデザインテーマをご紹介します。 >>466 歴史|和⽥神社 http://www.wadamiya.jp/history/ 歴史年表 蛭子大神、淡路より先ずこの地に御船を寄せ給ふ。 古来よりこの地を『蛭子の森』と称し、西攝地方における蛭子大神を祭祀した最古の場所。 西宮神社が和田岬へ海上渡御をしたのはこの理由による。
1173年承安3年 市杵嶋姫大神(厳島神社の大神)を祀る。 平清盛が兵庫津(大輪田泊)に大土木工事を起し経島を築く。 和田岬の他に6ヶ所勧請し、兵庫七弁天と称す。
1659年万治2年5月 22日の洪水により岡太神社の神輿が蛭子の森に流れ着く。
神異あり。 能福寺の僧、長吽により岡太神社の大神なる事を知る。
1662年寛文2年11月 社殿および隣松院の竣工。 尼崎城主の青山大膳亮幸利公(あおやまだいぜんのすけよしとしこう)の発願により起工。
隣松院は現在の社務所にあたる。
1680年延宝8年7月 影向松に奇瑞あり。和田明神の正体(白蛇)現れる。 祭式を盛んにする。 安田家に伝わる網家古伝記より。
1683年天和3年3月 神輿を建立。 >>467 渡御祭(とぎょさい) https://nishinomiya-ebisu.com/matsuri/0923.html
令和5年度西宮まつりは終了いたしました。 9月23日(土・祝)渡御祭 渡御祭(とぎょさい) 9時30分から於:西宮市内各所
9時30分に御本殿で発輿祭を行い、ヨットハーバーに移動した行列は11時頃出港。
11時30分頃御前浜で海上安全を祈る「かざまつり」を行います。なお今年は全船が神戸 和田岬へ渡御します。
12時50分頃岬に上陸されたえびすさまのみこしを中心に奉仕者の行列が和田神社に向けて陸渡御を行います。
14時10分から和田神社内の御旅所に到着した神輿に向かい、神饌を献じ、童女の神楽が奉納され御旅所祭が斎行されます。また14時30分頃からは浦安神楽、人形芝居えびす座による「えびすかき」、西宮神社獅子舞保存会による「獅子舞」が神賑いとして奉納されます。
さらに和田神社、三石神社、真光寺、兵庫駅前の柳原蛭子神社に祭員が産宮参りを行います。
※荒天の場合中止し、本殿で祭典のみ執り行います。
発輿祭(はつよさい) 9時30分於:本殿
9月23日 渡御祭 発輿祭 渡御祭にあたり、御本殿で祭典を行い。拝殿前にて、神輿を中心に行列を組んで出発します。
海上渡御(かいじょうとぎょ) 11時頃於:新西宮ヨットハーバー〜神戸 和田岬
9月23日海上渡御 全船が神戸和田岬へ渡御します。 >>467 兵庫津 <ひょうご歴史の道 〜江戸時代の旅と名所〜> https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/023/023.html
街道 : 山陽道 国 : 摂津 ジャンル : 交通 所在地 : 神戸市兵庫区 地図
兵庫津は、平安時代末に平清盛が日宋貿易のために整備し、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点として栄えた港である。
元は行基が設けた摂播五泊(摂津国〜播磨国にかけての五つの港)の一つ、大輪田泊で知られていた。江戸時代には兵庫津と呼ばれ、西国各地から大坂入りの船舶の寄港地として賑わった。
また、山陽道もこの地に迂回して通り、海運と陸運の結節点ともなっていた。1826年に兵庫を訪れたシーボルトは兵庫の町について、「16の町があり1万6千人が住み、そばに港があって活気がある」と述べている。
また港の様子を「港内には絶えず非常に多くの大小の船舶が停泊し、郊外には数えきれないほどの船が大坂に向っていくのが見える」と記し、「世界中探しても、ここほど船が往来している水域はない」との感想を残している。当時の外国人の目にも非常に繁栄した港であったことが分かる。
しかし幕末の開国時に神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、兵庫津はその地位を神戸港に奪われることになった。 >>469 >>470 西宮の地名の起こりと廣田神社 http://www.hirotahonsya.or.jp/yuisyopage/yuisyo_timei.html
西宮の地名の起こりと廣田神社
廣田神社は、京の都から西方にある特別に重要な神社ですので、中世の貴族達は「西宮」と別称し、当社への参拝を「西宮」参拝、「西宮」下向と称しました。
平安時代の百科事典である『伊呂波字類抄』をはじめ、本居宣長『古事記伝』、伴信友『神名帳考証』にも廣田神社を【西宮】と称したことが記されています。
後に、「西宮」の語は廣田神社の荘園である廣田神郷(神戸市東部〜尼崎西部、有馬、猪名川に及ぶ)全体の地名として使われるようになり、近世には末社の南宮や、
戎社(現在の西宮戎神社)のある浜南宮を中心とした地域(旧西宮町)の地名となり、現在は西宮市の名称へと受け継がれています。
廣田神社 〒662-0867 兵庫県西宮市大社町7番7号 >>470 >>474 高田屋嘉兵衛について https://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
1769(明和6)年1月1日(旧暦)、高田屋嘉兵衛は淡路島 都志本村(つしほんむら)(現・洲本市五色町都志)に6人兄弟の長男として生まれました。
幼い頃から海に親しみ船を愛した嘉兵衛には、少年時代、近くの川に玩具の船を浮かべながら、潮の満干を調べて大人達を驚かせたといった逸話がいまも語り継がれています。
22歳で兵庫(現・神戸市兵庫区)に出た嘉兵衛は、大坂 (大阪)と江戸の間を航海する樽廻船(たるかいせん)の水主(かこ)となり、船乗りとしてのスタートを切りました。
やがて優秀な船乗りとなった嘉兵衛は兄弟たちと「高田屋」を立ち上げ、日本海の湊(みなと)を結びながら大坂と蝦夷地北海道)を行き交う廻船問屋として活躍します。
28歳で当時国内最大級の千五百石積の船「辰悦丸(しんえつまる)」を建造し、まだ寂しい漁村にすぎなかった箱館(函館)を商売の拠点としました。
その頃世界では、大航海時代を経て、 新たな交流の時代を迎えていました。 ロシア人を日本へ向かわせた理由のひとつが、ラッコなどの毛皮です。
その 商業的価値から「柔らかい金」ともよばれたこの毛皮を求めて、18世紀初頃にはロシアの毛皮商人たちの千島列島の南下がはじまりました。
かれらの 活動が盛んになるにつれ、物資補給地、 交易地としての日本との関係構築が喫緊の課題となりました。一方、ロシア人がエトロフ島やウルップ島辺りに渡来し、アイヌと交易するような状態を危惧した幕府は、国防対策を急ぎます。
嘉兵衛は幕府の要請を受けて、エトロフ島とクナシリ島間の安全な航路を発見したり新たな漁場を開くなど、北方の開拓者としても功績を残しました。 >>470 >>475 1804 年 9 月〔和暦〕、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、幕府に通商を求めましたが、 幕府はその要求を拒否します。
レザノフは武力行使で日本側に通商を認めさせようと、本国の許可も得ず、部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃させました(文化露寇:フヴォストフ事件)。
この攻撃で日本側は驚愕し、東北諸藩の兵を動員して厳戒態勢を取ります。
日露間の緊張が高まる中、 1811 (文化 8 )年 6 月、海軍省の命令を受けて千島海域の地理を調査中であったロシア皇帝艦ディアナ号のゴロヴニン艦長が、
クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、日本側警備隊に拿捕されるという事件がおこりました。
副艦長リコルド率いるディアナ号は日本側の砲撃に遭い、一旦救出を断念して帰国します。
その翌年 八 月に再びクナシリ沖に来航し、日本人漂流民を介して交渉を試みますが日本側は拒否、困り果てたリコルドは海上を航行する日本船から艦長の消息を聞き出そうと、
偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャツカに連行抑留します。
囚われの嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、「一冬中に二人だけの 言葉をつくって」交渉、嘉兵衛はリコルドに、
一連の蛮行事件はロシア政府が許可も関知もしていないという政府高官名義の証明書を日本側に提出するようにと説得、
その言葉を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴロヴニン釈放にいたる和解を成し遂げました。
晩年は、故郷淡路島にもどり、港や道路の修築など、郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、自宅で静かにその生涯を閉じました。 >>470 >>475 兵庫津ゆかりの人物 Pioneer https://hyogonotsu.com/pioneer/
兵庫津発展の功労者
現在の兵庫県高砂市に生まれ、兵庫津へ出て、船持ちとなります。回船業経営のかたわら、港の築造に従事し、各種の工事用の特殊船や道具を開発します。
幕府の要請で北海道に行き、函館のドッグや択捉島の埠頭を築造します。後に出身地高砂の港を修復したり、広島・浅野家に請われて、広島県福山市の港の修復にも貢献します。 功績の一つに帆布の開発があります。
丈夫で長持ちの帆布は風力船の海運効率化に革命をもたらしました。
この新しい帆布は、松右衛門帆と呼ばれ、明治中期ごろまで使われています。彼の色々な発明・工夫の中には、長い期間の運送に耐えるための新巻鮭(あらまきざけ)の開発などもあるようです。
こうした発明・工夫の結果、幕府から「工楽」という姓が与えられました。出身地高砂神社に銅像と兵庫・八王寺に供養碑があります。
工樂松右衛門 工楽 松右衛門 くらく まつえもん 1743−1812 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています