西田敏行の西郷頼母を語ろう!
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タイトル通りです。
厳しいんだけど、暖かく、優しいそんな彼について語り合いましょう!
因みに、覚馬さんより年下らしいです。考えてみると、お母さんが出ていたり、
妹や弟がまだ若かったり、子どもがまだ幼かったりと若者だとわかるヒントは、
今までのアレで描かれていた気がします。 第2次長州征伐石州口では長州軍は解放軍として民衆の側にたって行動し、支持を集めた。
代官が逃げ出した天領である石見銀山の住人は長州藩の進駐を求めた。 大村益次郎だな。
彰義隊の戦いもそうだが、大村は民衆に無駄に被害を与えない戦い方する男だったな。
彼が会津攻めを直接担当してたらかなり違った様相になってたろうな。
大村の立場上あり得ない話ではあるが。 >>200
それは、WW2末期に祖国を守れると信じて特攻に行った兵士、崖から子供を抱いて海に身を投げた沖縄の女性らに対し、
「戦後の明るい未来が来るのに、なんでそんな馬鹿なことをしたんだ、彼らは」
と罵倒した「進歩的文化人」と同じ発想だね。
武家の家の女たちが、残虐な(と信じられていた)新政府軍に対し、操を守り、夫たちにあとの心配をさせず、家名を傷つけまいとして自決した事を
>殺されることはなかったのに判断を誤った
などというのは、無知のみならず無責任で無神経な暴言ではないか。
現にその時点で、降伏した白河や二本松の住民が、武家の子女も含めて、どれだけ暴行・略奪・陵辱を受けたかについて、会津にも話は伝わってきていたのだよ? >>200
それは、WW2末期に祖国を守れると信じて特攻に行った兵士、崖から子供を抱いて海に身を投げた沖縄の女性らに対し、
「戦後の明るい未来が来るのに、なんでそんな馬鹿なことをしたんだ、彼らは」
と罵倒した「進歩的文化人」と同じ発想だね。
武家の家の女たちが、残虐な(と信じられていた)新政府軍に対し、操を守り、夫たちにあとの心配をさせず、家名を傷つけまいとして自決した事を
>殺されることはなかったのに判断を誤った
などというのは、無知のみならず無責任で無神経な暴言ではないか。
現にその時点で、降伏した白河や二本松の住民が、武家の子女も含めて、どれだけ暴行・略奪・陵辱を受けたかについて、会津にも話は伝わってきていたのだよ? >>211
ほうほう。白河に住み着いてる武家がいたとは知らなんだ。
もともと天領で幕府崩壊後は新政府が管理してたんだが。
白河の町民は仙台の鴉組に放火されてひどい目にあってる。 >>213
普通、天領ってのは徳川家直轄のおさむらいさんである代官が支配する場所で、おさむらいさんってのはふつう武家なんだが。 >>214
代官ってのは他所から赴任してくる人で任期が終われば帰るんだけどね。
白河は幕府崩壊で役人がみんな引き上げてしまった。
白河に置かれていたのが何かよく知らないが。代官でいいの?奉行?城代? 西郷頼母は、家老職で石高1700石貰っていたなら 金はあったはずだから辺境の空き家を一軒位 あらかじめ買っておき隠れ家にしておけば 家族が死なずに済んだ。ゴルゴ13は、各地に隠れ家を持つ。頼母が戦略家でなかったのは確かだ。 SQ版では頼母だけが本物に似てる
大河とは別と割り切った方がいいかも… >>216
いちおう、西郷頼母もまともな武士だし、武士というものは、一朝事ある時は主人の馬前で討ち死に
する覚悟を持っているのが誇りであり、彼らの存在価値。
先の読めない未来に恐れおののいて家族のために逃げ場を設けておくなど、愚の骨頂。
貴殿のおっしゃりようは、卑怯未練を「戦略」と称して、遙かな未来から、ニュートン卿のいう「巨人の
肩に乗って」生半可な知識を振りかざし、過去を自分のせまい価値観で嘲笑しているにすぎん。 自分は、城に籠もり討死しても、幼い子供や嫁が生き残れる算段を講じることは卑怯ではない。新政府軍に逆らうのは、天皇に刃向かう賊軍。主君には従うが 家族位救ってやろうとの思案があってもよい。あまりに惨い結末で、避ける道がなかったのか後生からの検証だ。 >>220
>先の読めない未来に恐れおののいて家族のために逃げ場を設けておくなど、愚の骨頂。
戦国以前の武士なら当たり前のことなんだがな
朱子学に毒された平和ボケ武士の価値観だな ま、後知恵ではなんとでも言えるし、いくらでも賢者ぶりを見せることができるよね。
なにしろ、そのあと何が起きたか、(他人が苦難の末に経験し苦労して書物にまとめたものを楽して読んで)知っているのだから。
あの時頼母はこうすべきだった、馬鹿だなぁ、という議論は不毛だぜ、おい。 西田主演で家斉やってくれたら面白い。もちろんジェームズ三木で そら面白そうだw
少なくとも吉宗よりは家斉が向いてるわw
家慶は梅雀でw 徳川家斉…西田敏行
一橋治済…津川雅彦
田安斉匡…寺泉哲章
徳川家慶…中村梅雀
田沼意次…江守徹
水野忠成…小林捻侍
松平康任…すまけい >>232
ワロタw
柄本明をどう使おうかw
松平定信は誰がいいかな?w
あれから結構大物俳優が亡くなってしまったのが惜しいね。
細川さんとか生きてたら松平定信がよかったと思うんだが。 会津御留め流柔術・ご式内の正統伝承者としての西郷頼母。
その義理の息子(養子)である西郷四郎は講道館柔道のヒーローになってしまった。
柔術他派を悉く打ち倒した伝説の技「山嵐」は、会津御留め流柔術・ご式内の技なのに、、、 卒業前に地元大河に出演できて良かったね ネイティブだから
さぞかし台詞も楽だろうと思いきや、地元友人との会話は普通に出来るが
台詞だとどうしてもふにゃふにゃな感じになり納得できないと関連本で言ってたが
佐藤さんや秋吉さんはどうなんだろうな また、「なんでもかんでも藩主のせい」厨が現れたな。w このドラマの頼母は当時の武士としては最悪の描かれ方
繰り返し恭順、開城、降伏を口にし説得するというか迫るから
勝が西郷に問うた「主君の首を打って差し出せるか?」に
「出せる」と答えるに等しく藩主親子に求めてるんだ 維新以降ぱたっと姿消しやがって
新政府を見届けてやるといったのは詐欺じゃねーか
山本むつみめ 抗戦派や恭順派とも上手くやれなくて城から出された頼母さん
結果的にそれが彼を生かす事になった皮肉
会津関係のドラマは当分ないだろうけど
保科の筋にプライドありまくりの役で
もっと若手俳優で見たい >>5
山鹿素行を配流して会津、米沢と赤穂、平戸などとの対立が発生し
赤穂事件の元凶を作った人物である >>241
大門美知子の方が大事だから、これで降板させてくれということかな。 1180 西田敏行、父と共に源頼朝の挙兵に加わり、山木館を襲撃
1561 西田敏行、武田信玄に啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に
1584 西田敏行、西田敏行に小牧長久手の戦いで敗れる
1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる
1600 西田敏行、真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける
同年 西田敏行、石田三成を関ヶ原に破る
1603 西田敏行、幕府を開き初代将軍になる
1605 西田敏行、西田敏行に将軍職を譲り、後に駿府城に移る
1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける
1716 西田敏行、八代将軍になる
1745 西田敏行、徳川家重に将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る
1860 西田敏行、会津藩の家老となる
1867 西田敏行、西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる
1868 薩摩藩の西田敏行らと長州藩の西田敏行らが協力して幕府を倒す
1869 西田敏行、五稜郭の戦いで新政府軍に敗れる
1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍に西田敏行軍は鎮圧され、城山で自刃
1883 西田敏行、共立学校の初代校長となる
1904 西田敏行、日銀副総裁として日露戦争の戦費を調達する 頼母さん、千恵おばちゃんが大阪に転生して、大暴れしてまっせ! 1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける
ふいたwwww >>245
1945 西田敏行 フィリピンで日本軍として戦闘参加、アメリカ側についた兄と戦うも捕虜にされ終戦を迎える >>245
www
勝地とかも、八重に出てる時ジョン万次郎に見えて混乱した 生まれ育ちが郡山市の俺からすると、西田頼母の訛りは郡山訛り。
会津訛りではないなぁ…会津の言葉は、もっとキツいし独特な表現があるよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています