戦国の貴公子★宇喜田秀家★身長177センチ [無断転載禁止]©2ch.net
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戦国の貴公子★宇喜田秀家★身長177センチ
最近の研究で、宇喜多秀家の身長が177cmと言うことが判明したようです。
人生の半分が八丈島編になるけど・・・妻の豪姫や家臣の明石掃部の登場場面を含めれば
徳川政権下での本土の様子も描けると思う。
大坂の陣に、明石掃部は、参陣しているし 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 1: 名乗る程の者ではござらん
2005/03/30(水) 19:00:48 ID:+rubKm6v [1/2] AAS
慶長14年、関ヶ原の勝者家康は天下統一の仕上げとして豊臣に戦を仕掛ける
太閤秀吉がその力を全て込めた居城大坂城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、豊臣のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては土佐22万石の主 長曾我部盛親
秀忠3万を足止めした昌幸の子 真田信繁
宇喜多家57万石の筆頭家老であった 明石全登
黒田家では1万6千石を拝領した男 後藤基次
豊臣へ為、1千石をなげうち馳せんじた 毛利勝永
豊臣家臣筆頭大野治長の弟 大野治房
秀頼の乳兄弟、弱冠22の美男子 木村重成
かれら七将の他、薄田兼相、塙直之等の歴戦の強者達
しかし、大坂城の最高権力者は秀頼の母淀とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に豊臣の為に戦うは毛利、木村、大野くらいか…
その時、浪人で溢れかえる大坂城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、後藤殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、秀吉の遺児、秀頼に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった 2: 名乗る程の者ではござらん
2005/03/30(水) 19:02:40 ID:+rubKm6v [2/2] AAS
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き秀頼の忠臣、木村重成
しかし、彼の後ろの淀殿や治長、いや、彼らだけでなく後藤や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「殿……」
明石全登がようやくといった感じで放った言葉に、重成を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「宇喜多備前中納言八郎秀家、豊臣家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
秀吉に実の子、いやそれ以上の愛情を受け育ち、豊臣政権の五大老であった男が再び豊臣の為に戦うため帰った来た… >>4
ワロタ
あり得そうで
開口一番
「いやーーちょー気持ちいい!」
出オチすぎるか まあ確かにな、秀家が14年逃げ切れればうってつけの御大将では
あったろうな。浪費は凄かったらしいが 宇喜多秀家の人生も、最後は平凡に終わったから・・まあ・ましなんではと・・
八丈島ライフで・・島は移動できたんだし・・・・・・・・・
福島や最上とか・・・もっと・・悲惨な大名がごろごろいる >>1
その身長ってどういう人がどのような方法で、
何を元に推測、計測した数字なの? 大樹寺の将軍家位牌の他に身長計測の根拠になるような位牌例ってあった? 一応、昔の、書物には、有名人の身長の大きさが記録されていることが多いです。
昔から、背の高さは、恋愛と関係していたので・・・・・
武田の猛将の山県は、身長140センチ以下と記録されています 三成同様、スレタイに誤字があっちゃスレ伸びないよ。 むかしヒストリアで秀家の物と伝わる鎧から推計していた数字だと思う。
おぼろげな記憶だが、秀家の物と断定するには根拠があいまいだった気がする。 日本で始めて空を飛んだ浮田幸吉は、宇喜田に関係あるかもしれないな。
浮田幸吉(うきた こうきち、1757年(宝暦7年)- 1847年(弘化4年)?)は、日本で初めて空を飛んだとされる人物。鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)とも呼ばれる。 >>13
>昔から、背の高さは、恋愛と関係していたので
極端に小男だと指弾の的になったりも記録にも残り得るだろうけど
昔の男の価値ってのは社会的地位や身分、格式
力や財力、権力
顔の美醜にモノの哀れを解する教養や知性、趣味の良さ
・・・等々の比重も高く
身長って今ほど重要では無かったとも聞くけどね
また「〇尺△寸の美丈夫」のような物言いにしても
ざっとの美称であって、実際に計測したとかでない場合も多い
(808も無いんだけど、お江戸八百八町、難波の八百八橋とかね・・・)
>>17
本当に着用してた事が明確な鎧なら実測値も参考になるけど
まずその検証も必要だよね
残念ながらヒストリアの内容って信憑性の無いことも多いし
また甲冑は寺社への奉納用に製作する場合もある 利休の甲冑から推測すると彼は180センチの大男ってことになるらしいけど
誰も本人がそれを着用してたなんてわからないよね
本人のものと確証のあるDNAが付着してりゃ別だけど それも絵空事かな 家康の娘の千姫は、再婚相手に容姿を強く求めていて、トラブルになっている。
あと、国姫なんかも・・・大名から・・胸毛姫として避けられていた。
松平信康の娘 熊姫が生んだ、国姫は、家康の孫ですが、
胸毛が生えていることが知れ渡り・・再婚相手探しに苦労した。 昔から嫌々結婚した女性の中には、戦国時代も江戸時代も不倫があり、問題になっていましたね。
江戸時代なんか・・町人の不倫も多かったようですし・・・・
古事記の中にも、容姿について出てくる記述があるので、偉い人の容姿は、影で、こそこそ、言っていたのではないでしょうか 肖像画からの推定法も、身長についてはあったような気がします 肖像画からの推定法
当時の和服の構成やカタチ、着付け法を理解していない研究者が
しかもリアルではない絵画様式にのっとった画法も多い肖像画の
誇張されたりしている衣服からの推定なので
大河板でさえも最近は笑われている推定法です 宇喜多秀家の直接の子孫で有名なのは俳優の浮田左武郎だな
明治になって赦免されて帰ってきた子孫
系図も発表されている 浮田和民
浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(1859年[1]1月20日) - 昭和21年(1946年)10月28日)は、日本の思想家・政治学者。法学博士、早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。熊本バンドの一人。
熊本藩士の子として生まれる。生家は宇喜多秀家の末裔であると言い伝えられている[2]。 熊本洋学校にてリロイ・ランシング・ジェーンズの薫陶を受けて、キリスト教に入信する。熊本洋学校が閉校になると、開校間もない同志社に転校し、同校で新島襄からの影響を受けた。
その後、約11年間母校の教員を務め(その間イェール大学に2年間留学)、
同志社政法学校では政治学、国家学、憲法講義などを担当する。明治30年(1897年)、アメリカン・ボードと同志社の分離独立問題をめぐる学内紛争により同志社を辞職。
東京専門学校(現早稲田大学)に移籍する。早稲田に移籍後は山田一郎、高田早苗、安部磯雄らと共に早稲田政治学の基礎を形成。
また総合雑誌『太陽』の編集主幹として活躍。
当時の若者に大きな影響を与える。「内に立憲主義、外に帝国主義」という「倫理的帝国主義」を標榜しており、のちの民本主義につながる理論を最初に提唱したのは浮田であるとされ、吉野作造の民本主義は彼の理論を受け継いだものだと言われている。
大隈重信のブレーンでもあった彼を評して坪内逍遥は浮田を「早稲田の至宝」と呼んだ。 芸能人の浮田ひさえって・・・宇喜田秀家に、ほっぺたの周辺が似ているような気がするが?
浮田 ひさえ(うきた ひさえ、1980年3月6日 - )は、日本の女優、タレントである。 真田丸では、完全に毛利一族のはずなのに
信繁も真っ青な秀吉への忠義ぶり。本当に泳いでくるつもりなのか?w >>22
そんな身長だったら
利休好みの茶室のにじり口から入れないと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています