【謎の歴史観】『真田丸』のココがまちがってる!!【歴史法廷】part7©2ch.net
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空堀通りまでは確実に大阪城の敷地
真田丸は鶴橋のあたり 幸村の頭上を通過して
射程距離は 御堂筋なんばから淀屋橋まで届くとしても 目測でどこそこに当てるって
どういう目をしてんの
あと春や大助と一緒に住むんだったら大阪城の部屋は何だったの まともに考えれば大名クラスは大坂城に部屋住みじゃなく
総構えの城下に屋敷くらいもらえそうだよな。
安土城下に人質のための真田屋敷だってあったんだから。 いえ私は正しくは黄母衣衆でした 大名並みの碌はいただいておりましたが >>102
春たちがいるのは屋敷じゃなかったっけ? >>101
あべのハルカスの最上階なら、ギリ、大阪城天守が見えるぞ。 >>101
目視じゃないんだから何里で正確な距離ぐらいは把握してたろ。
射出角度と火薬量の計算はエゲレス商人からある程度の計算方法を聞いていたはず。 砲台が固定されてたら着地点の計算は当時の技術でも正確にできる。日露戦争の戦艦みたいに砲台が動いてるなら外れまくるだろうが。 >>109
将軍御所で公家なのに抜刀して錯乱してたホマよ 真田丸のってかググっててアレ?って思ったからちょっくら計算してみたけど
そもそもあのクラスのカルバリン砲じゃ6300mも飛ばせないな
空気抵抗考慮して17ポンドクラスの大砲だと初速400m/s仰角36度で射撃した場合に大体最大射程出るけどせいぜい3500mってとこ
無理やり6300m飛ばすなら初速1200m/s仰角32度は必要になるけどこの時代じゃ無理
この件に関して砲に詳しい人や弾道計算齧った事ある人が何人かおかしくね?とは言ってるけど
すでにこの射程距離が定説になってるみたいね
そもそもどこソースで広まった情報なんだろな >>111
6300mなら惣構の南北を飛び超えかねないから、この時代の鋳造技術を考えれば異常値だ。
でもドラマではなく戦史で、ほぼ間違いなくこの場所だと想定されてるのは、惣構北隣の備前島。
ここは淀川と大和川の合流地点にできた自然堤防で、さらに秀吉が京街道を築いた場所だから
地盤も頑丈。陣地転換も容易。距離は大坂城天守閣から1km以下。余裕で直接砲撃可能だ。
http://stat.ameba.jp/user_images/20161110/22/orin-pos/f1/3e/j/o0480056513794837259.jpg
http://ameblo.jp/orin-pos/entry-12218129708.html に書いてあったことだが、『武徳編年集成』
では、天守閣北隣の山里曲輪内にあった豊国廟へ12月18日(秀吉の命日)に備前島から大砲で
砲撃したら、豊国廟の先の天守二重目に命中して柱が折れたとのことです。秀吉の命日だったら
確実に秀頼等豊臣家のひとたちが参詣してそこへ集まっているだろうからね。
ちなみに備前島はなぜ「備前」島と名が付いたかというと、そこに備前宰相・宇喜多秀家の屋敷が
あったから。さらに石田三成の屋敷もあり、三成は大坂城へそこから登城していたとの伝がある。
なんのことはない西軍主力であって秀吉が生前あつい信頼を寄せていた人たちです。少なくとも
大坂城を築城した秀吉は、この城の弱点をよく分かっていたということだ。真田丸は主人公補正が
入るからどうしても真田丸中心に描いてしまうけど、冬の陣の攻防戦の本当の焦点は、備前島を
誰がおさえるかだったのだろう。 砲撃したのは備前島だし余裕で届くのはそうなんだけど
(直線距離約650m仰角約6.1度天守2階屋根弾着まで約1.9秒撃速約300m/s)
それよりも俺的にはカルバリン砲の誤った性能情報がひとり歩きしてるのが気になるんだな
たぶん誰も実証実験やってないからそうなるんだろうとは思うけど >>114
そのカルバリン砲の実物、日本国内か欧州のどこかに残っていないかなあ?
それさえあれば再現実証実験できる。
砲身の金属組成さえ分かれば、どれだけ圧力と衝撃と熱に耐えられるか逆算できるし。
しかし、いまや文化財扱いだろうなあ。一発撃ったら即砲身破壊なんてことにはなるかも。 >>116
イギリスで2001年に同年代のカルバリン砲のレプリカ使って実験は行われていた
17.5ポンド程度の砲弾を初速408m/sで飛ばしてた
火薬の量はわからないけどおそらく弾の重量に対して標準的な量使ってるんだと思う
とりあえず初速と仰角とcd値が分かればおおよその弾道計算は出来る >>116
追記
念のため今番組で確認してきた
NHKでやってた番組では最大速度秒速500mって言ってたけど
同じ実験を特集したイギリスの番組では408m/sって言ってた >>117
thx! あとできれば1614年のときの備前島と詰の丸との比高だな。いまは盛り土もしてるし。 >>119
2.5〜3mの盛り土の上から55〜60mの場所に向けて射撃してると思う
さっきのはそれを想定して計算した
この距離だと弾道もあまりやまなりにならず直線的に飛んでる
弾着点が頂点高になるような弾道 >>120
なるほど。これで『武徳編年集成』の記述は実行可能だと証明できた。Q.E.D.かな? 備前島からなら天守の壁を抜く事が出来る
NHKに出てきた防衛大の教授の推定なら貫徹後存速は30m/s俺の推測だと15m/s程度
いずれにせよ中の人に直撃したらただじゃ済まないレベル
逆に大河みたいに真田丸越えの弾道で考えてみると
桃谷駅付近から射出された砲弾は約21秒後に天守2階屋根に弾着、その際の撃速は115m/s程度
これだと威力が足りなすぎて壁を貫通するのは不可能となる
威力から考えても備前島周辺から撃たないとダメってのがわかるよ >>115
あぁ〜ん!!素敵ー!
逝くーわ〜〜わーーー! >>47
普通にわかの代用だと思うだろこのニカワめ >>111
初速1200m/sって対戦車砲でもそうそうないのでは あの大砲のシーン 川の中から撃ったようには見えない
おそらく茶臼山からでは >>125
対戦車砲ならWWII期に登場したオードナンスQF17ポンド砲でAPDS弾を使用した時の初速とかそういうのに匹敵する
もっと以前ならWWIのパリ砲なんかが1645m/s程度だったし、これらとは異なり滑腔砲って事も考えれば
無理すれば19世紀末や20世紀初頭には作れたかもしれない
当然、江戸初期の英国の技術力じゃ製造不可能なレベル
で、話としては砲弾の形状的に空気抵抗が大きすぎてそのぐらいの速度が無いとすぐ失速するから
当時の兵器の性能で最大射程6300m出すなんて全くありえないって事 >>126
たしかに豊臣大坂城の完全な縄張について論文書けたら、学会で主催者から発表者に推挙されるだろう。
でも、ここは『真田丸』校閲部なんで、大坂城の縄張をまったく知らずにコメント書くのは無責任です。 ( ^^ω)豊臣大阪城と宇宙戦艦ヤマトに出て来る三段空母は男のロマンホマよ 改装前の加賀という現物があってだなw
大日本帝国海軍は男のロマン >>132
( ^^ω)リアル赤城加賀の三段空母時代は好きじゃないホマよ… >>130
大坂城の縄張りどころか歴史を全く知らずにドラマを創って放送してしまうのはどうよ >>134
真田丸まで含めて、極めて狭い城だよな
自由に往来できすぎている
畑作してたのは真田丸か、余剰空間が大きすぎる >>136
畑は真田丸を建てる前から始めてた。
大坂城内の宿舎の庭じゃないの? フリントロック式を利休が持ってたなら10年以上前になるけどオーパーツじゃないか? 堀の埋め立てと牢人を雇わないは秀頼からの提案で
家康・秀忠からは牢人はどこにいても構わない、大坂を出て行くなら
秀吉時代の石高保障、江戸に来るなら厚遇だったのが
歴史考証担当三人のうちの1人、丸山和洋がツイで言ってたのがショック。 >>139
フリントロックみたいな機構は種子島に鉄砲伝来したあたりならもうあるよ
ホイールロックやスナップハンスロック・ミュケレットロックみたいな新型のも少数ながら入ってたみたい
ポルトガルからの親書のおまけに新型の銃2丁贈られてたりするし意外といろいろ入ってる 信繁が使ってた実物持ってるおっさんがいて、実際に射撃してみせてる動画もどっかにあったな
http://i.imgur.com/fsgZqrU.jpg >>141
あ、細部よく見てなかったけどミュケレットロック式だった? 三谷なら大坂城の守りにガトリング砲を配備しても不思議ではない 備前島からの砲撃が大坂の陣の勝敗を決めたのなら
城の南側に真田丸なんか造ったやつって間抜けじゃね? >>148
真田丸が無かったら真田丸の後方に当たる空堀が直線で伸びてる辺りを
大軍で一度に攻め掛かられて守りきれずに惣構えを突破されている。
南から惣構えの内に入れば守りが薄いのでいずれ落城する。 >>150
補足する。何度も書いてるけど幕末の会津戦争では炸裂弾を砲撃され続けても一月は
戦っている。大坂の陣の頃は炸裂弾でもないから大した被害にはならない。天守に
当って侍女が死んだのはたまたま運が悪かっただけの事。 あの家康の所まで大将達が夜襲をかけたのは史実なの?
大将だけであんなことしないよね? / __つxW川川川wh
,xミ彡"゙゙゙゙゙゙゙ミミミミ彡"゙h
三彡 ) ミ、
三三 __/ ヽ
彡三 / | 馬上筒と申さば、わが騎馬鉄砲隊は
彡彡  ̄\ ./ / ̄|
=ミミ ▲▼▲ノ i /ニニ___| 大河ドラマ初登場なるのかのう
| ミ ▼▲▼) (\●/<
| ミ /ニ二/ |`、二ニ | 独眼竜政宗では合戦シーン全くなかったし
\i /\ , |、 /
|i ー `^ー" ._// といって真田丸セットでも歩兵ばかりで馬乗ってるの幸村だけだったな
.|\ -―--- i
/ \  ̄ ̄ i
/\ \_______/
/ \ , /
\ ノ |\
\ / >>153
このドラマでは上田合戦などでもなぜかいきなり本陣に攻めこめることになっている 大将クラスが討ち取られたら、
終了 だからな
阿呆臭いシーンをねつ造するセンスが怖い そもそも真田幸村って「絶対不可能な家康本陣に肉薄した人」で有名なのに
そうやすやすと本陣に攻め込めたら信繁sageにしかならない あんなゴミみたいな蜘蛛の巣忍術って真剣に使われてたの?
忍者って城の中でいきなり訓練と称して火炊いたりしたの? >>163
そんなこというやつが給料もらうんじゃねえ
それで私を考証担当に雇わないか? まあ私が大河ドラマつくったほうが今よりはマシになる気がする
私なら少なくとも紙おむつ出したりしないから。 公共放送を私物化してありえないドラマをつくり
反省するどころか「史実厨うるせえ、ドラマだよ」
なんてヤツら全員クビにしろ
さもなくば大河廃止で全員リストラだ 備前橋からの攻撃なら 学研都市線 大阪城北詰あたりだと思う(大阪城 北の丸) >>163
なあ、俺に大河つくらせてくれないか?
実は先週見てなかったから今オンデマンドで見たんだが、
馬上筒でどうしようっての?
人類一万年の歴史において飛び道具は手柄にならないんだぞ?
そんなことも知らない連中よりか俺のほうがまだできるよ。 ヨーロッパではああいうのを持った騎兵がいわゆる竜騎兵というやつになるわけだが。
三銃士の銃士隊もそう。マスケット銃を装備してるからマスケティアーズ。 だからって幸村が家康を射殺してもクレームが来るだけだぞ 伝幸村遺愛の馬上筒とやらが、どっかの旧家に残ってるんじゃなかったっけ >>176
違うだろ。
史実があのタイミングで手に入れたんなら團右衛門と一緒に買いに行ってヒャッハーしたんだよ >>175
その馬上筒は旧家ではなく、いまは収集家/鑑定家の手元にあるらしいよ
http://www.tama-tsukuri.info/玉造の歴史/真田丸と真田信繁-幸村-巻2/鉄砲研究家の澤田平さん-眞説-真田幸村公展/
http://ur2.link/Af6y
http://i.imgur.com/RnhgjyB.png
真田幸村公 家康狙撃の銃 >>176-177
澤田平説はなかなか説得力のある説でした。
真田信繁は14年間、紀州九度山には幽閉されていたが、その間、いろいろな準備をしていたはずだ。
そう考えなければ、大坂冬夏の陣で真田信繁は「人が変わったような」めざましい戦果を挙げられない。
じつは紀州とは戦争準備には向いている土地だ。
戦国の世で名を挙げた恐怖の鉄砲集団・根来衆や雑賀衆の本拠地があるのも紀州だ。
鉄砲情報なら、堺よりも、紀州や近江国友村のほうが詳しい情報が得られたかもしれん。
(九度山時代の信繁は鉄砲研究にかなりいれこんでいた形跡があるらしい)
紀州の高野山は密教、熊野大社は修験道、これらをつうじて、全国各地の情報収集もできる。
それにここには大量の木材資源がある。木材抜きにはこの当時、巨大建築物は建てられない。
ついでにいえば鯨も捕れる。木材も鯨も必要とする人は日本各地にいたからその商圏も利用できる。
(その商圏と情報ネットワークを活用しての真田紐の行商だったんでないのかな)
そんな土地だからこそ秀吉も家康も紀州を重視した。
秀吉政権で紀州を治めたのは五奉行筆頭、浅野長政だし、徳川幕府も御三家のひとつを紀州に置いた。
その重要地点に14年間もいた源二郎信繁が、何も学ばず、何も成長せず、ただ田舎暮らしでボーっと
すごしていたと見立てた三谷のシナリオは、よく考え直してみたらかなり奇妙だ。
馬上筒の原型は九度山時代に実はすでに信繁の手元にあったと考えたほうが、畑を耕してる最中の
お宝発見シナリオよりずっと実現確率が高いと思いますけど? 近刊だと英和出版社が出版した英和MOOK『大坂の陣-真田と大坂城五人衆』の出来がなかなか良い。
大坂両陣屏風を収録してくれているのも便利だ(大阪城天守閣でガラスケースに密着せずにすむ)
https://www.amazon.co.jp/dp/4865453962
http://www.eiwa-inc.com/book/b252723.html
MOOKに書かれていることだが、ほんとうの大坂冬夏の陣は、5人の軍団長でなく、もっと多かった
のかもしれないし、そうでないかもしれない。牢人衆と秀頼直参との間でも、もっと複雑な派閥抗争が
あったはずなんだが、それも『真田丸』ではカットされてる。MOOKに寄稿していた黒田基樹先生も
書かれていたが、大坂城内部の事情については、今でも意外と分かってないね。世間に流通してる
のは、江戸時代初期に濫造された講談戦記と、旧陸軍参謀本部が慌てて雑に編纂した戦史ばかり。
だから史実厨がじっくり研究してみたら楽しめることは、まだまだ残っている。 >>179
ノブシエだって頑張って蕎麦がき売ってただろ!
何もしてないとか失礼だ! 又兵衛は家康に人質に出せと言われた母親と息子は大阪城に呼ばなかったのか
それこそが家康憎しの理由だが >>181
蕎麦がきよりももっと高価な商品を売っていたので九度山時代の信繁はリッチだったようです。
それに九度山から信州上田へ送った手紙に書かれていたことは完全な真実なのだろうか?
まず信繁は囚人だ。上田には本多平八郎の娘・小松姫もいる。徳川の監視の目は光っている。
幽閉の解除、赦免を目指すため、困っているフリをする虚偽の手紙を書いたのかもしれない。
『表裏比興』の真田昌幸の息子が、なんで馬鹿正直じゃなきゃいけないんですか?
反証の代わりに、http://ur2.link/Af6y から澤田説をそっくり引用しておいてあげよう。
◆幸村公は九度山時代「発明王」であった
…集中的に集めてわかったことがありました。幸村公は九度山時代、たくさんの発明を手掛け
ていました。さまざまな種類の火縄銃にはじまり、鎧に、秘薬に、日用品など、それはもう色々。
発明品の数々を見ていただこうというのが、この展示会のテーマでもあります。
◆九度山時代が人生最大の充実時期
幸村公はもともと頭のいい方でした。九度山時代は考える時間も工夫する時間も十二分にあり
ましたから、発明するにはもってこいでした。幸村公が生み出した真田紐や秘薬はいわゆる
オンリーワン商品。儲かるんです。だから幸村公は大金持ちでした。
Q えっ?? そんなことありえませんよ。すごい貧乏だったはず。だって、信州にいるお兄さん
に、お金を送ってほしいと手紙を送っていたんですよ。
それは見せかけ。徳川の監視下にあったわけですから、カムフラージュするために書いた手紙
です。幸村公所蔵の刀や小箱には、お金を隠すための仕掛けがこしらえられていて、箱の底、
刀の鍔の内側から小判が出てきました。その豊富な資金で、さらに発明を進めていたんです。
経済力もあって、さまざまな発明を手掛けていた九度山時代は幸村公にとって人生で最も充実
していた時代でした。不遇だったというのはウソ。
◆真説「幸村の強さは九度山でつくられた」
14年過ごした九度山に、豊臣秀頼のつかいがやって来たのは突然の出来事でした。幸村公は
勝つつもりで大坂城へ入城したと思います。大坂へ持ち込んだ兵器、たとえば真田軍が使った
5丁揃の鉄砲や地雷火など、経済力がなければ、持っているはずのないものばかり。なにより、
入城してすぐさま、戦国スターの武将らが集まる大きな合戦の中に飛び込んで、日本一兵
(ひのもといちのつわもの)と呼ばれるほどの活躍をするわけですよ。蟄居の14年間、ブラブラ
していたのでは、こうはいきません、絶対に。
古地図や古文書だけが歴史資料というわけではありません。残された品物から入るのが
“澤田平”流。時代を読み解き、それを使っていた人物までも浮き彫りにできます。幸村公所蔵の
品々が語っています。幸村公の強さは九度山時代に養われたものであると。これこそが真説だと
わたしは信じています。 この前の美の壺で真田紐やってたけど昌幸着用の鎧に真田紐が使われてるとか。
つまり、当時既に丈夫な紐があって、後に幸村人気にあやかって
真田紐と名付けられたんじゃないの? >>183
刀や小箱では隠し持てる金の量は限られる
残された品物とやらが本当に信繁と同時代に作られたものと証明できるか
本当に信繁所用の物だと証明できるような書付などが残っているのかは怪しい
そもそも本当に頭のいい人なら徳川に反抗して九度山送りなどやらかさないだろう 九度山時代に屋敷が火事なって借金が重なったらしいね >>185
その頭の良い戦国武将が大量改易となったのが関ヶ原戦後の日本でありました。
戦の勝敗は時の運で決まる。信繁はその運を取り逃がしたんですな。
>>186
あれおかしいな。九度山の真田屋敷が火事になったのは信繁の大坂脱出後のはずだが。
>>184
その可能性はあります。でも真田の人気が急激に高まったのは大坂冬夏陣後のこと。
その真田ブームにあやかって、さまざまな小細工・改ざん・風説流布をあちこちでされてる。
昌幸の鎧が前者だったか後者だったかは、ちょっとよく分からない。 なんかこのところ、歴史秘話ヒストリアよりも
知恵泉のほうが面白いな 実際は禿げ上がって出っ歯の小男だったらしいが・・・ ABUソングフェスティバルもう一回見せろ!
頼む!オンデマンドに出してくれええええ! >>191
NHKBSプレミアムで12月18日(日)午後1時から再放送するらしいですよ。
>>189
先人たちの底力 ▽小さな組織で生き抜け!名将・真田一族、戦国の極意
は出来が良かったね。Eテレは総合からの「はみ出し者」がつくるところだから、
伝統的に番組の奥底に隠してる緊張感や対決心がにじみ出るところがある。
しかし、その系統の話は、よそのところでやって欲しいんだけど…… いつも思うんだけど知恵泉の合戦シーン、どこが元ネタなの?
ヒストリアだと昔の大河その他の映像使い回してるから
みただけで何の映像かすぐわかるんだけど
知恵泉の映像は心当たりが全くない。
映画とも思えないし何の映像? 接吻はあったのでは?
いきなり性交はないでしょう。 本来伊達に保護されたのってきりと信繁の間に出来た娘だろう そもそも仙台真田家って明治に作った家系図で子孫って言ってるだけだから
伊達に娘預けたって話の出典も大正期
一次資料がないって突っ込むと幕府の目を逃れるためだったとか言い出す すんません、
台所のジジイ怪しいと見せかけて、
じつはいいひとなんだろう
おまえら騙されて馬鹿だなあwww
と言ってたけど、
そのまんまクロでしたあ〜!(T0T) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています