信長は紀伊半島をまだ制圧していなかった。
雑賀崎は苦労して占領したものの、根来・熊野はまだ手つかず。
秀吉の支配が及ぶまで全くの敵地であり、危険きわまりない。
また、山の中は隠れ場所が多いが海上の船はどこかに隠れることが困難。
さらにこの時代は黒潮洗う太平洋に漕ぎ出すのはそのままアメリカまで流されかねなかった。
東回り航路が整備されるのは江戸時代になってからなのである。

他にも、「光秀とは同僚なのだからすぐ殺されるとは限らないから降伏する」
「ほとぼりが覚めるまで堺に潜伏する」といった選択肢もあったはずだが、
結局、「とにかく家臣と合流して兵を集めるのがベスト」と判断したのだろう。