【2018年大河ドラマ】 西郷どん part95
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>448
このページが詳しい
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/05/bakumatu06.html
> 沢は、二月十六日付の書面で、大総督府に「奥羽を鎮撫するに際し、会津藩と庄内藩はどう処置すればよいか」と尋ねた。
その返答は、庄内藩については「謹慎」だが、「会津は実々死謝を以ての外(ほか)に之(こ)れなく」、つまり、
「会津藩主松平容保は、死罪にするしかない」という激越なものだった。 >>429
東征大総督府が「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」と宣っているからなあ
>>427
慶喜に対しても「死謝しろ」の強硬論で押し通していたら、江戸城無血開城はなかっただろう >>392
元々これまでの経緯で会津の主流派が激怒していた上に
慶喜が会津家臣の激昂覚悟、というかそこから逃れる為にとんでもない手段とったから
正直巻き込まれた神保修理は惜しい事になり過ぎた人材だった
山本覚馬はドラマじゃなくても西郷らの薩摩にも人脈があったから
京都で一会桑政権の冷戦時代から幕府と薩摩、会津の調停役になろうと奔走してたんだけど、
彼は公用方の外交担当ではなく砲術屋の軍事部門だったから
京都会津でも外交的に強く発言する事が出来なかった
大政奉還後に大政奉還を否定する再委任派の強硬派が主導する京都会津で
このままでは本当に戦争になると薩摩に繋ぎを付けようとして薩摩側に捕縛、
元から人脈と識見のあった覚馬は監禁されつつ丁重に遇された
もう一人、会津・薩摩同盟で八一八から禁門までを取り仕切った秋月悌次郎がいたけど、
軽輩が京都の殿の足元で出過ぎた真似をしていると国許の門閥層から再三クレームがついていて
加えて、京都政局での薩摩排斥を始めた一橋からの圧力もあって
松平容保や神保修理は秋月を買っていたけど後ろ盾だった横山主税(父)の死去、松平容保の病身の間に
京都政局が会津・薩摩同盟から一会桑主導へのシフトに合わせて網走に左遷
薩摩でも西郷らと距離のあった高崎正風らとの貴重なパイプ役だった秋月を失って一会桑一択に傾いた外交姿勢は
一橋慶喜→徳川慶喜による一と会桑の離間で大政奉還により決定的に破綻、急遽秋月を呼び戻したけど手遅れだった >>455
慶応4年の幕府の収入は1200万ドル、うち横浜の関税収入だけで300万ドル
横須賀製鉄所の残債は1年分60万ドル
長州の賠償金、6回ローンの年50万ドルを入れても慶応4年に払う分は100万ドル程度しかない
一方で明治政府の初年度の収入は300万ドルで、支出が2500万ドル
つなぎ融資に頼ったのは単に明治政府が金欠だったから >>460
奥羽越藩同盟の結成時点では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる >>463
いや普通に世良が嘆願書の受け取りを拒否したからだけど。
九条道孝総督は仙台・米沢両藩主の嘆願に対して、
意見書を受け取ってもよいと軟化してたのに世良が頑として拒否したばかりか、
嘆願書を差し出した仙米両藩も敵と見てとかいう阿呆な書簡を福島藩士に託したので
激怒した壮士が襲撃したという流れです 第二次長州征伐で長州藩を根絶やしにしようとしたー会桑
鳥羽伏見の闘いもな
そりゃ会津の罪は別格
しかも恭順するならどうして子供まで動員する? 慶喜の処遇は難しいだろうね。
殺しちゃうと、次は俺か?と御三家や御三強、各種松平が態度を硬化させるだろうし。 推理作家の西村京太郎の時代小説短編の徳川王朝の夢を図書館で借りて読んだ事あるけど、面白かった。
他の戦国時代や江戸時代のも面白かった。 >>468
総督がいいと言ってるのに下参謀が独断で拒否したら怒りを買うにきまってるでしょ。
しかも白河転陣が東山道軍を引き入れるためだったとなれば裏切り者もいいところ >>421
アジア諸国ことごとくそれでやられてるんだが? 花神の山県が、翔ぶでは西郷どんになり、
八重の大山さあが、どんでは山県になるんだな >>467
徳川宗家と言う権威の下で
「正統派」と「強硬派」の分断は必要だったからな
恭順してる慶喜を殺すのは利害から言ったら悪手過ぎる
「忠臣蔵」の価値観に生きてる時代で、
江戸っ子は西南戦争ですら西郷を応援したアンチ薩長政府だから、
慶喜を殺してしまったら惰弱化したと言えど旗本八万騎
何が何でも仇討しないと社会的に死ぬ世論に中立、消極派も引きずられる >>470
お前は人に厳しくて他人に甘いって言われるだろw >>471
どう見てもスパイとしいて殺されても仕方ないじゃん。
白河転陣の動機が東山道軍引き入れのためなんだから、
味方のはずの奥羽列藩騙してたんだから。 劇中に限っては、イギリスとフランスの介入を防ぐ為に逃げた慶喜の方が、
西郷よりも一回り視野が大きいと見えた。
将軍つか武士の棟梁が自らへタレを演じて日本を薩摩を守ったイメージ。
で、慶喜は蟄居はしても出家は、してないの?もう、そんな時代でも無いか >>479
劇中だけじゃないよ
それが日本史の常識になりつつある >>422
西郷の身分だと直接将軍と話なぞ出来ないわ 今日はBSは放送なかったの?
二週続けて無血開城やったの? 大河も何作もあるから、「儂が江戸を救った」って各々に花持たせるのが大変だなw 慶喜が明治維新の後は、カメラだの自転車だの遊興三昧なのは、
俺は、徳川幕府は、もう無いんだよ。みたいなアピールなのかな?
かつての大名や家臣達に気持ちを切り替えて、
明治政府の中で、時代で生きろ。みたいな? この大河は 小松がやった交渉事を
西郷がやったことになっているね
史実は 大久保や西郷が裏工作したことを
小松が正式に 上手く交渉していた >>486
そんな崇高な考えあったかなぁw
単なる新しもん好きと思う
持って生まれた性格ってそんな変わらないから
要職から解放されてエンジョイしてたのかも >>407
八重の桜で世良修蔵が出てたけど、あれはないわって人が演じてたけど
いかにも過剰演出やと思った
一緒にいた公家は逃げれたけど、ほとんど密室で殺した訳で
伊達が勝手にあんな内容をでっち上げた面はあったと思う
世良修蔵は長州征伐では大島で、松山藩と歩兵隊を叩きのめし
鳥羽伏見の最終日では、陣形有利で苦戦してたが、世良が男山を迂回しそこから官軍が有利になった
軍人としてかなり優秀で、その後も活躍できるはずの人材だった >>486
個人的には尾張の徳川慶勝の方が好きだけどな >>491
奥羽皆敵と見てという書簡は4バージョンくらいあるけど、
いずれにしても奥羽列藩に敵対的な内容だったのは間違いない
密書じたいがでっち上げだなんて争ってる研究者はいないよ >>488
「藩主の首を差し出せ」と言われての恭順は無理だろ
第一次長州征伐の時みたく家老の首でOKっていうのならともかく >>486
明治になり反政府活動してた人から接触は何度もあったらしい
旗頭としては最適だったはず
しかし一切面会しなかったらしい
明治始め頃、反政府の旗頭として慶喜と西郷が最も大きな存在だったと思うが
明暗分けるような行動だったと思う
西郷も薩摩じゃなく別のとこで隠居生活した方が良かった >>490私の考え過ぎかなな・・
慶喜を政治的に担いで明治政府を打倒しようと企む失業武士らを、
寄せ付けない様にピエロを演じてた様に見えた。今日の回の影響で >>498
何度も言うが、東征大総督府が「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」と言ってる訳でして >>491
ときどき「世良は学者だからそんなことするわけない」
と反論する人がいるけど、学者だろうがなんだろうが石頭は石頭だからね
じっさい現地情勢をろくすっぽ京に報告せず
米沢藩士からあいつ困ってるんですよと言われた広沢真臣が
何やってるんだ早く恭順受け入れろとすぐ指示出したのは事実なんだからさ >>491
若い同輩から抜きん出る為、世羅には功を焦る気持ちもあったのかも知れん。
肖像を見ると、かなり神経を使うような顔つき。 >>495
そう、だから全体的な勤王派との交友も多かった
西国諸藩は鳥羽伏見の後で一発降伏したし
桑名も地理的に桑名本土での戦争継続は無理だったけど東国はそうではなかった
何しろ、相手側の二強の一角は
時の帝をガチで激怒させて帝と将軍の両方から正式に討伐命令出されながら
家老の首で乗り切って今現在天下を取っていると言う生きた前例なのだから
京都情勢に距離のある、特にプライドの高い仙台辺りから見たら
今までそれで済んでいたのに、ここまで働いて来た会津が何故そこまで、と、
正直東国の古豪大藩から見たら理解に苦しむ、
だから大藩らしく上と交渉すれば程々で片がつくだろうと言う認識のギャップがあった >>497
といっても、慶喜の趣味人っぷりが明治早々世間に伝わってたわけじゃないしね。
幕末からそうだけど、慶喜って本人に会ったこともない人から勝手に毀誉褒貶を向けられる人だから。 >>499
それのどこを藩主の首を差し出せと読むんだよ >>501
長州藩の中でも、椋梨同様勝てる筈の無い大博打の勝利に巻き込まれた
常識人の枠だから世良さんは
それで、幕府との全面戦争は流石にまずいだろうと至極常識的に
解決の道を模索していた結果
裏切り者として粛清される羽目になった赤根の派の人間だから
長州の中でも非主流派として半ば鉄砲玉と言うか人手不足の埋め合わせに近い形で送り込まれてる >>500
自分が言ってるのは過剰演出やん
朝廷の使者を殺してしまった訳で、この弁明として事実を膨らませた面はあったと思う
伊達の言い分が八重の桜みたいな感じでしょ、死人に口なしなしをいい事に ちなみに、史実では桂小五郎などの長州勢は慶喜への寛大な処分を主張しており、強硬派は西郷、大久保、板垣などだった。
さらに、西郷と勝との会談後に英国公使のパークスが江戸総攻撃に反対したので、西郷はそれを利用して強硬派を黙らせたそうな。
つまり長州藩はべつに徳川を憎んだりはしていなかった >>504
死謝=『死んで詫びろ』を、他にどう解釈すれば良いのだろうか?
>>505
世良って赤根の筋の人間だったのか
初めて知ったよ
さすがにそれは同情する 篤姫は西郷に政治的な要求は、してないけど、
私と慶喜の首で徳川を助けてくれ。は凄い覚悟だった。
西郷の想定の上を行ってた。
徳川の名に掛けて西郷と闘うとかも >>505
そんなものを引き受ける所からしておかしい
だいたい奥羽鎮撫総督府の参謀は北陸東海東山の三道の参謀に比べて異常に小物
その辺の中隊長クラスがいきなり折衝ごとやらされるんだからたまらない
最初に黒田・品川が補任されたけど2人とも断ってるじゃん
ちょっと頭が働く人間なら、敵地に総勢300名なんて死ににいくようなものだとわかるよ >>500
トンデモな学者は今の世にもいるからなあw 容保の兄の治める桑名は首なんか差し出さなくても無条件で新政府に恭順してるよな
普通はそういうもんじゃね >>506
事実関係でそんなに争いになってる所はないなあ
しいて言えば当日の行動くらいかな
世良が斬られる時に命乞いをしたというのはさすがに修飾だろうけど、
女と寝てたのは事実だろw 「一桑会( ・`ω・´)」フンガー
なお一桑の二者は和平を選び恭順したもよう
もはや大した勢力でもなかったのではと思う。御三家の水戸藩は桜田門外以降ガタガタだし 篤姫は家定と仲睦まじかったんだろうな感。柿の絵。とか。
で、西郷に向かって、徳川の名に掛けて。と啖呵を切ったのは凛々しい。
で、家茂の奥さんの、功徐和宮って登場したけ? >>512
桑名藩主定敬が、鳥羽伏見の際に慶喜に連れられ関東に逃げてしまい
藩主不在の桑名藩では戦うか恭順か揉めて、くじ引きで決める事となったが
くじでは戦うとなった、しかしまた話し合い恭順となった
松平定敬は飛び地である越後で戦い、最後は函館まで戦い抜いたけど
桑名が恭順した際に、残った家来達から藩主罷免させられてる
もしも会津が桑名みたいに、容保が会津に入れない状況になってしまったなら
東北戦争はなかったかもしれない 世羅を惨殺した仙台藩(?)が会津見捨てて先に降伏してるのがまた笑えるよな >>512
兄じゃなくて弟な
藩主の定敬が江戸にいるうちに、国許の家臣たちが定敬を勝手に隠居させて恭順を示した
おかげで定敬は国に戻れず、函館から上海まで行っちゃった >>516
家臣の差も大きかったわけだな
桑名は自分たちの意思で考える
藩主は罷免で済んで助かったな >>518
なんと上海まで。そりゃまた楽しそうだな >>508
お前がそう解釈するのは勝手だがそんな藩主の首を差し出せなんて命令は出てないし実際にされなかった >>519
地理的な問題もある
桑名は鳥羽伏見に近いから、江戸に飛脚を飛ばして相談する暇もなかったし、江戸にいる定敬が戻る暇もなかった
会津藩は慶喜の恭順後に藩主とともに江戸から会津に引き払ってる ガトリングどころか、賊軍にはミニエー銃すら無いのに天下を取り返せるわけが無いんだよな >>522
慶喜が恭順したなら普通に容保も恭順すれば良かったんじゃないの
戻らずにその場で >>522
西国の藩は江戸城開城前にどこもパニック状態で恭順してるんだよね
尾張藩は恭順反対派を大量粛清してるし >>518
桑名にも高杉晋作みたいな人がいて
もしもの時は殿をかついで海外に逃げるなんて思ってて
実行しちゃったのかな >>524
蟹食ってると無口になって時間忘れるっていうもんな >>525
国許に戻るように慶喜から指示があったんだよ >>486
実際どう思ってたのかは知らないけど、ずっと前に解説本で慶喜が書き遺した油絵を見たことがあって、
けっこう暗めの画風で、そこに添えられた文章の「人生で最も働き盛りの期間に引退せざるを得なかった
うっ屈した心情を示しているのだろうか」みたいなのが、けっこう印象に残ってる
興味があるものに片っ端に手を出したのも、有り余るエネルギーを発散する意味もあったんじゃなかろうか >>529
戻る前に薩摩藩邸に寄れば良かったのに
「たのもーっ」て >>529
八重の桜じゃ邪魔だから国へ帰れとの命が容保たちに伝わって、
容保が家訓ブツブツつぶやぎながら放心してたね。 >>533
それも本当
江戸城内でも徹底抗戦派と恭順派でまっぷたつだったから抗戦派の会津藩を江戸から遠ざけたかった >>528蟹は食べるのに手間が掛るもんね。
甲羅を剝して卵。は簡単だけど、脚が・・
あ、来月は解禁だね。JR西日本の蟹蟹エキスプレスも まあでも仕えてた主が恭順するって言ってたら自動的に我々も従いますってなるような気はするよなー
容保が慶喜直属の手下なら尚更じゃね >>537
だから会津に戻って謹慎して、恭順の書簡を新政府に出してる >>523
ミニエー銃どころか、幕府はシャスポー銃を1000丁は確実に保有していた
そのうえ自費で買った分がある
鳥羽伏見で使ったかどうかは研究者間で対立がある
慶応2年に幕府は小銃1万何千丁、大砲3000門とかとんでもない数を買っている
仙台藩もさすが大藩というべきか、新式銃7000丁を購入している
あと少し戦争が長引いてたら、横浜から運んだ銃器を持った洋式部隊が前線に出てきたんだろうな 神保修理を切腹させた会津主戦派
鳥羽伏見の敗戦後そのとばっちりで会津藩の主戦派から切腹を強要された神保修理
佐川官兵衛、山川大蔵、梶原平馬
この辺りが強要したのだろう >>537
ドラマでも出てきた「慶喜妄挙を助け候面々・・・」という戦犯問題は
勝にすれば、問題を直属の幕臣に限定したから妥協できたわけで
会津や新選組まで庇ってられないよ っとこ。 >>538
だから新政府にカタモリの首を差し出せなんていう儀はなくなった 誰もドラマの話をしてなくてワロス
おまえら幕末大河のたびにずっと同じ話してんのな >>542
ところが奥羽鎮撫総督府が、首を差し出せと言い出したんだよ
まーた振り出しに戻った >>542
ちなみにお前が思ってるよりずっと、新政府も混乱していたし指揮系統もそれほど整然とはしていなかった >>537
彰義隊みたいに主が恭順しても納得しない輩がいる
会津の主戦派も同じ >>542
お前さんは東征大総督府の『死謝』という言葉をどう解釈しているのかね? >>545
で、いつ新政府で藩主の首を差し出せなんて命令が出たの? 篤姫が徳川2500年の行政記録みたいなのを西郷に渡して、
幾島と出て行くシーンは神々しいかった >>490
そんな軽いもんじゃなかったと思うよ
黙して一切語らなかったってとこも
そも斉彬を筆頭に賢い諸侯がこぞって将軍に推挙した英邁やで >>548
奥羽鎮撫総督府は、新政府の機関ですよ? >>544
会津の家老が出ていき
「ワシが腹切るので藩主容保の命はお助け下さい」
って言えば良かったのに >>552
要するに容保の首を差し出せってことじゃないですかー ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています