町田 明広@machi82175302

列強代表に対して、新政府を非合法であると説き、旧幕府に戦局は好転すると訴え、1月中に3回にわたって慶喜との会談に臨んだ。
慶喜は当初、新政府に対して徹底抗戦を画策し、ロッシュの援助を受け入れる態度を示したが、他の列強の動向から、復権は難しいと判断した。#西郷どん


慶喜は2月に入ると急速に恭順に傾き、12日には江戸城を辞して寛永寺に逼塞した。
ここに幕府による全国再統一は叶わず、フランスがイギリスを押さえて主導権を奪い取るというロッシュの野望は潰えたのだ。#西郷どん


しかも、幕府への肩入れを禁じた本国の訓令に従わなかったとし、ロッシュは公使を罷免されて6月に帰国している。
その後の旧幕府を代表した勝海舟は、3月15日に迫った江戸城総攻撃を阻止すべく、書記官アーネスト・サトウを介して、新政府の最大の支持者であるパークスという外圧に頼った。#西郷どん


パークスは3月13日に東海道先鋒総督府から派遣された西郷の名代と会談し、慶喜の助命は列強の意に叶うとし、また、戦争による貿易の阻害を阻止するためとして、横浜駐屯を示唆した。
イギリスは新政府を支持していたものの、内乱回避のためには、結果として内政干渉を行ったのだ。#西郷どん


こうしたパークスの圧力は西郷の方針に大きな影響を与え、3月14日の勝との会談で譲歩した要因ともなった。
一方でこれを外圧として板垣退助らの過激な主戦論を退けた。
パークスの圧力も相まって、慶喜は寛典に処され、江戸は戦火を免れたのだ。#西郷どん


なお、パークスは閏4月1日に大坂城にてビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出し、外国による新政府の最初の正式承認を行った。
これによって、列強の帰趨は大きな影響を受けたが、西郷と何らかの取引があったかも知れない。#西郷どん