町田 明広@machi82175302

今度は国内状況から政局を見ておこう。新政府軍は江戸を目指して進軍を開始し、西郷は東征大総督参謀、つまり、実質的な軍事責任者として参軍し、3月3日に駿府に到着した。
既に静寛院宮(和宮)や天璋院(篤姫)らの江戸城攻撃中止と徳川家の存続の嘆願書が寄せられていた。#西郷どん


西郷は当初、慶喜は断罪にすべきであると主張していた。
そこに、旧幕府の若年寄格・陸軍総裁、勝海舟の使者として山岡鉄舟が現れたため、7日に会見に及んだ。
西郷は、山岡の態度に感銘したこともあいまって、江戸城明け渡しなどの絶対恭順を条件に、慶喜助命・徳川家存続を約束した。#西郷どん


西郷は3月11日、池上本門寺に入り、14日に勝と正式な会談に臨み、慶喜を水戸で隠居・謹慎させ、軍艦・武器は新政府に引き渡すことで合意し、江戸城攻撃は中止された。
西郷・勝会談のその場で、すべてが決まったわけではない。#西郷どん


慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)4月4日、西郷は勅使橋本実梁・柳原前光らわずか6名で江戸城に乗り込み、これを接収した。
ここに、名実ともに江戸幕府は終えんを迎えたと言えよう。
江戸が灰燼に帰さなかったことは、近代日本への移行を考えた場合、絶対に必要な条件の一つであった。#西郷どん


江戸城は無血開城したものの、旧幕府軍の抵抗は続いていた。
榎本武揚は旧幕府艦隊の引き渡しを拒み、蝦夷地まで脱走し、大鳥圭介が率いる旧幕府陸軍は、関東各地で新政府軍と戦いながら北上を続け、榎本軍と合流した。#西郷どん


さらに、旧幕臣は彰義隊を結成して上野寛永寺に立て龍もり、江戸市中を横行して狼藉を働いたため、5月15日、大村益次郎の下、新政府軍は上野を総攻撃し、西郷も自ら薩摩藩兵を率いて正面黒門口の攻撃を指揮し、彰義隊をわずか1日で殲滅させた。
話が進み過ぎた(^_^;) #西郷どん