>>723
また独自研究か?


この5月23日、タイムリミットの迫った慶喜は決死の覚悟をもって朝議に臨んだ。

本来朝命によって召集されたはずの四侯も全員が列席すべき立場であったが、すでに半ば諦め気味の雰囲気が漂い、結局松平春嶽・伊達宗城の2人が参席したのみである。

慶喜の意気込みにもかかわらず朝廷側の抵抗も激しく、「先帝の御遺志」を盾に兵庫開港許可を拒んだ。板挟みにあった二条摂政は結論の先延ばしを図る。

しかし、夜半の休憩中にも慶喜は春嶽に「今回ばかりは議決するまで何昼夜かかっても退去しない覚悟である。さもなくば必ず(大久保・西郷らの)工作が再開されてしまう」と述べ、驚異的な粘りを見せた。

翌日未明に至り、あまりの会議の長さに散会しようとした二条に対して、大納言鷹司輔政が「天皇も将軍も良しとする勅許をこの会議で決められないようでは天下は乱れ、朝廷も今日限りである」と発言。

父の輔煕にたしなめられるが、これを機に朝臣らも二条摂政の優柔不断を責める流れとなり、ついに明け方摂政が折れ、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることが決定した。

慶喜が主導して徹夜の朝議で勅許を勝ち取ったことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。