少しズレます。
「武者震之助用語辞典」で編集中の項目なのですが、同一執筆者・同一媒体掲載の記事でも、武者氏が対応を変える(もちろん記事内容によっては差し支えないことですけど)例に触れてますので、書き込みさせていただきます。


【提灯記事】武者氏の嫌いなドラマにつき、好意的な内容を述べた雑誌等の記事のこと。その記事を掲載した雑誌等を「提灯メディア」「提灯媒体」と呼ぶこともある。
 この場合の「提灯」とは「提灯持ち」の略で、本来は「人の手先となる人。人にへつらってその人をほめてまわることや、そうする人」のことをいう。
 しかし、武者氏に提灯記事と認定してもらうためには、必ずしもその執筆者・媒体が制作者の手先のごとくそのドラマを一貫して称賛しつ続けていることを要しない。
 また、記事の中にドラマに対して批判的な部分があっても、総体としてドラマに好意的な内容と武者氏が認識すれば、提灯記事と認定される。
 例えば武者氏は『朝ドラ『まんぷく』で『萬平さん』連呼の安藤サクラにモヤモヤする』(以下「記事A」)に明らかに好意的なリンクを貼った上で、
「福子は己を消し去り、萬平を守る守護であって、主の意識を持つなど無理。神様は萬平様だけなのです」と述べている(まんぷく112)。
 確かに記事A中には「萬平マターの言葉ばかり。福ちゃん、これって妻なのかなあ……私には"信者"としか思えないんだけど」という武者氏の主張と同様の記載がある。
 一方で武者氏は『なつぞら』7話で『朝ドラ『まんぷく』の夫婦は、ドラえもんとのび太のような関係だった』(以下「記事B」)へのリンクを貼っている。
 そして「記事の中身はただの提灯ですが、ドラマの存在意義を端的に示したこの部分は見逃せません」と記事Bを酷評し、記事Bの次の部分を引用している。
 「毎朝エビだのスクランブルエッグだの謎肉だのの開発過程を見るうちに、やっぱり買ってしまった日清カップヌードルのデフォルト。これを食べつつ、最終回をもう1度リプレイしてみましょうか。」
 この言葉が『まんぷく』の存在意義を示すものであるか、そうだとしても武者氏の非難を浴びるべきものか否かはさておき、別なところに注目したい。
 実は記事A(19/02/13配信)も記事B(19/04/07配信・「まんぷく」終了後)も、共に上村由紀子氏の手による文春オンラインに掲載された記事なのである。
 つまり、上村氏が変節したのでなければ、武者氏は記事から受けた単純な印象によって自己の見解を補強するためにレビューに利用したり、あるいは「提灯記事」と罵倒したりするのである。
 なお念のため、必ずしも記事Bは『まんぷく』賛美一辺倒の内容ではなく、特に上村氏が見解を変えたわけもないことを、記事Bの一部を引用して確認しておく。
――【以下引用】――
 2月に寄稿したコラム「朝ドラ『まんぷく』で『萬平さん』連呼の安藤サクラにモヤモヤする」の中で、「萬平さん」ではなく「わたし」が主語になる福子が見たいと書きましたい。
 『まんぷく』の主人公は福子であり、萬平ではないはずだと。
 でも、物語のふたりの関係性を『ドラえもん』の世界に置き換えてみると、キャラクター構成に頷ける点もあるのです。つまり『ドラえもん』のタイトルロールもメインキャラも当然ドラえもん。
 ですが、事件を起こすのも、トラブルを持ち込むのも、それらをひみつ道具を使って解決し、成長するのはすべてのび太。ドラえもんはいつも変わらずのび太に寄り添い、最適なひみつ道具を渡して彼の成長を見守る存在。
・・・(中略)・・・
 最後まで「わたし」が主語になることもなく。でも、それはそれでいいんです、だって彼女はドラえもんなのですから。ドラえもんが一番嬉しいのはのび太が苦難を乗り越え問題を解決し、笑顔でこう口にする時なんです。
 「ありがとう、ドラえもん!ドラえもんのおかげだよ!」と。
・・・(中略)・・・
 そんなドラえ……いえ、福子と萬平の40年以上に渡る半生を描いた『まんぷく』は、「女性のお仕事ドラマ」「家族のお話」という朝ドラのセオリーを華麗にスルーし、徹頭徹尾「夫婦の物語」として展開しました。
――【引用終了】――