【2022年大河ドラマ】鎌倉殿の13人 part4
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2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
【放送予定】
2022年1〜12月
【脚本】
三谷幸喜
【制作統括】
清水拓哉(「真田丸」「いだてん」「腐女子、うっかりゲイに告る。」)
尾崎裕和(「軍師官兵衛」「あさが来た」「ゾンビが来たから人生見つめ直した件」)
【演出】
吉田照幸(「あまちゃん」「エール」『探偵はBARにいる3』)
【プロデューサー】
大越大士、吉岡和彦、川口俊介
2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=21781
前スレ
【2022年大河】鎌倉殿と13人part3
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1582931628/ 九州に得宗領があったというのは聞くな
港を結構おさえてたとか
麻生太郎の麻生家は元は得宗被官だった説聞いたことあるがほんとかねw >>474
信長の野望で出てくる麻生家と関係があるのか?
ちなみに麻生家でプレイを楽しんだことはない。 >>474
鎌倉末期には有力な国人クラスの多くが得宗被官になってたからあり得る話 >>475
それは信長の野望スレで詳しく教えてくれるよ。 長崎って江戸から発展したんでしょ?
やはり九州の要は博多。
最後の執権赤橋守時の弟英時は九州探題で博多で滅んだとか。 鎌倉の御家人の名前見てると土地名から苗字もらってるんだなーってのがよく分かるよな
戦国でよく見る名前も元々は関東からの出身だったのかと 九州千葉氏の一族が、九州長崎氏を
名乗ったことを起源とする説と、
代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その
地名を苗字として、鎌倉の執権である
北條氏の筆頭御内人である桓武平氏
長崎氏の一人が九州に流れ(九州
長崎氏)、長崎湾の奥を領して地侍
になったと長崎甚左衛門純景がその
系図で主張している説がある。 どっかのスレで子孫集合やってて得宗被官の子孫もいたな
家に三鱗がどーんと飾ってある言ってた 横井が時行子孫てなぜか有名だよな
尾張徳川藩の扱いもそんな感じだし
後北条氏の改名も
やっぱ今川那古野のとこにきて公然の秘密だった? 時行は子孫残すために子供のうちから諏訪大社の巫女さんに手を付けまくったという羨ましい言い伝えも有るしw 静かに暮らしてたのに決起促す連中が連れ去ったんで
母親が自害したんじゃなかったっけ 嫡男に挙兵を焚き付ける叔父さん
うっあたまが・・・ ヤツとつるむようになった途端に義仲も義経もそれまでこの事がウソのように負け出す 諏訪氏て承久の乱の時に北條に仕えるようになった?
いくらドラマで承久の乱扱ってもさすがに諏訪氏は出ないだろうな
安東忠家が義時に追い出される話もカットかもしれんし 番宣として平安末期〜南北朝大河の名場面特集やってほしいな
鎌倉殿の前と後 時行て子供なのになんか大人みたいな伝説があるある不思議
時行と分からないように顔剥いで自害したとかさ
いや子供だからおじさんは違うって思うだろ 中先代の乱の時は満13歳ぐらいだね
同年代の身代わりが居たんだろうな
子供は状況的に出るようになったらすぐ側室あてがわれてたんじゃないか? 兄とされる邦時が元弘3年時点数え9歳で死んでるから
同い年だとしても中先代の乱のときには11歳 麒麟がくるで光秀が読んでたのが吾妻鏡だったな
ちょうど承久の乱あたり 諏訪も尾藤も金窪も安東も
この辺りの有名被官はみんな義時に直に仕える系か
後の長崎氏になる平盛綱なんかもそうだろな
時政とバトルできたのは家人団が親と違うてのもあったんじゃ >>503
元々義時は旗揚げ時点で江間家当主だから時政とは別個の独自の家臣団持ってたんだよ。
小山一族の結城、三浦一族の和田みたいなもん。
頼朝の浮気に激怒して時政が鎌倉から出て行った時に義時だけ残っていたのも義時は時政と違う系統の家臣団持っていて時政と一緒に行動していなかったことも理由のひとつだろうね。 旗揚げ以前からだったら時政の下にいたやつになる
悔い返しでいつでも没収されるようなさ
鎌倉に行ってからついた家人なら時政とは無関係
頼朝から直に恩賞もらったら悔い返しの対象にはならんだろう >>505
旗揚げの時の家臣なんて多くて10人、多分10人居ないし所領もそれに比例した小さいもんだ。
鎌倉開府以後の所領や家臣が大半だから時政から悔い返しされても全く影響ないわな 伊豆以来の郎党を準御家人にと義時が言い出してたがそいつらが
時政のとこにいた奴じゃないかな
時政追放後、義時のとこに来たがそこには御家人やその子息やらがいた
古さvs家柄で家内対立で義時も困ってそうだw >>508
いや、兄の宗時が死んだことによる偶然
頼朝旗揚げ時に挙兵した妻政子の北条一家は時政、宗時、義時
義時がこのとき18歳でそれより下の弟は幼く参戦していない
宗時がしょっぱなに戦死したため頼朝挙兵に参加した時政の息子は義時のみ >>509
でも時政は義時を嫡男にした形跡はないからな
なんかしなけりゃトップになれる立場の男ではない 頼朝が江間を贔屓したからそれが義時の力の源泉か
時政の人脈は娘婿で畠山、稲毛、足利、平賀、宇都宮あたり
畠山は自分で始末して足利は当主が幼い平賀宇都宮は遠方
稲毛を討たれたらもう頼りになる兵力無くなって孤立した
追放されたのはただ政子の命があったからーではないと思う
義時は娘婿とは別に人脈築いてて兵を動かせる
その辺りドラマで描かれそう >>510
後妻の牧の方の子は年齢が離れていたから
時政も生まれてもいない子に期待しても仕方ないわけで
時政も宗時死後は普通に義時や時房を取り立ててただろ
年の離れた牧の方の子が生まれた後でこっちを跡取りにと画策して
義時に逆にやられたというだけで 頼家も時政と同じパターン
敵の多い梶原をまず葬って安達は自ら離反
比企を討てば頼家孤立でもうどうしようもなく追放
頼家側近の一人だった小笠原が動かなかったのは何か手を打ったんだろう
妹の大弐局がその後も実朝に仕えてたからな 頼朝家子
江間義時 北条時政次男 家子筆頭
和田義茂 和田義盛弟
榛谷重朝 畠山重忠従兄弟 稲毛重成弟
千葉胤正 千葉常胤嫡男
下川辺行平
宇佐美実政
佐原義連 三浦義澄弟
結城朝光 小山朝政弟 13人が一人減り二人減りして最後は義時一人になるんだな
もし十三人合議制が常設機関になって欠員補充が行われていたら承久の乱直前ではこうなるか?
北条義時
大江広元
三善康信
北条時房
北条泰時
北条朝時
三浦義村
足利義氏
安達景盛
結城朝光
武田信光
二階堂行村
二階堂行盛 古任や振り奴がピーク
真田丸大坂編以降を観れば良くわかる >>516
「13人」という人数が正しいかはおいといて
承久の乱後、北条泰時が正式に合議制を発展させた「評定衆」を置く
北条はもちろん二階堂や三浦も初期の評定衆メンバーだが
足利や武田は評定衆に入ったことが一度もないな
鎌倉幕府は基本評定衆による合議制で執権独裁ではないからな
鎌倉時代を通じて北条がどんどん他氏排斥を行って
幕末に近くなればなるほどこの評定衆が北条だらけになっていくわけだ 減るのは数名で大勢残ってる13人
大江中原足立三浦安達は北条と縁組するし三善二階堂は官僚で中立
多数派工作で勝利していくのでいわば自民党の派閥争いみたいなw >>519
全部合わせても最大13人だから数人減れば半分だぞ
13人の御家人が残っている数
頼家が将軍になった翌年→10人
実朝が将軍になった時点→6人
源氏将軍滅亡・承久の乱時点→3人
義時死亡時点でそれよりも長生き→1人
大江広元 嘉禄元年(1225年)病死
三善康信 承久3年(1221年)病死
中原親能 正治元年(1199年)出家→承元2年(1209年)病死
二階堂行政 没年不明、頼家時代に死去か
梶原景時 正治元年(1199年)失脚(梶原景時の変)
足立遠元 不詳、頼家時代に死去か
安達盛長 正治2年(1200年)病死
八田知家 健保6年(1218年)病死
比企能員 建仁3年(1203年)謀殺(比企能員の変)
北条時政 元久2年(1205年)追放(牧氏事件)
北条義時 元仁元年(1224年)病死
三浦義澄 正治2年(1200年)病死
和田義盛 建暦3年(1213年)滅亡(和田合戦 義時の守護力は異常だからちゃんと大江と政子が義時より長生きする
三善なんで承久の乱直後に死ぬし 八幡神がしばらく時政の子になって世を治めよ言うぐらいだから 腹違いでも仲のいい弟が有能かつ長生きなのも持ってる
親族に恵まれないことで跡継ぎの代で家が終わったり没落したケースよくあるから いつの時代も異母兄弟のほうが仲良くね?
同母のほうが憎しみがより増すのかな? 母方の親族がいないんだよな義時
そんで江間がポツンとしてる
でもそれが逆に北条家の力を強める結果になってる強運
泰時も母方親族いない >>530
義時の母方親族は同母の阿波局と三浦
かなり強力だよこれ 息子たちが曾孫、玄孫の代を一線でサポートしてくれるとかも恵まれてたと思う >>531
それは母方親族といっていいのかw
母方親族がいると三浦vs安達みたいなことが生じる
北条家勃興期にそういうのがいないというのがつよい
父権だよね得宗家 母の姉妹の嫁ぎ先の家、って仮に母方親族だとしても遠目な気はする
義時→三浦とか政村→結城とかこれだけど 青天を衝けのロケを埼玉県比企郡嵐山町でやってるらしいな
鎌倉殿のリサーチも兼ねてるな 10月、三谷幸喜さん講演会 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」脚本担当―三島青年会議所
ttps://news.yahoo.co.jp/articles/84d97859bfb52490384388c86fdbc3e05e44a06a 右大臣実朝でも「滅びの前がいちばん明るい」って言ってもんね 3密はよしとき
もはや親父ギャグになってる得宗殿… >>532
唯一恵まれないのが奥さんだけどさ
3人正室がいるんで息子の年齢が離れてるんだよな
承久の乱から蒙古襲来までカバーすることになり結局強運マターに >>522
清和源氏(平賀・足利・武田・小笠原・山名等)や千葉・小山は入ってないんだな
平賀なんか頼朝時代は御家人筆頭なのに >>542
平賀足利武田あたりは朝廷に独自の人脈もあるし血筋と相まって忌避されたのかね 小山畠山は義時と同年代
つまり若くて宿老ではないから >>527
義時はやっぱえげつないとこあるよね
京との関係が緊張してるときには息子や弟を京都守護にせずに
身内といっても娘婿や義兄を派遣してる
案の定二人は破滅
で京に勝利した時には占領官として息子と弟を派遣する
家族は徹底して守るてとこが露骨で
ほとんど親族ゼロだった北条家が大きくなるのも分かる 録画してた「12人の優しい日本人」見た
3回目だが何度見ても面白い
次回の三谷大河もこんな感じでお願い
御家人どもがあっちについたり裏切ったり
梶原善出るのかな? >>541
この当時は金持ってる連中は普通に離婚しちゃうんだよね
嫁自身がかなりの金持ってるから離婚してもこまらないから。
だから武家の上のクラスは離婚は珍しくない。
この傾向は戦国時代まで続く。
離婚が殆どなくなるのは江戸時代以降
だもんで義時、泰時親子して離婚経験することになる。
義時の比企嫁なんて離婚したら京都の公家と再婚して幸せそうな生涯送ってるもんなあ >>542
門葉は将軍の一族だからこういう番頭の集まりには参加しない。
徳川御三家が老中にならんのと同じ。
メンツ見ると
文官 中原兄弟、三善、二階堂
頼朝乳母筋 比企、八田
家臣筆頭 梶原
旗揚げ以来の重鎮一族 北条親子、三浦、和田、安達、足立
となっている。
やはり旗揚げ以来のってのは大きいんだよ。 >>549
姫の前は父親死んでるし比企氏の乱で一族滅亡しているため金ないぞ
義時と離婚した姫の前は都へ行き公家と再婚している
江戸時代は儒教の影響で武家では女は二夫にまみえずという考えが浸透したため
武家階級では離婚が減り夫と死別しても妻は出家して婚家にとどまることが一般化した
ただし武家以外では離婚再婚普通にあった
安土桃山以前では武家においても離婚再婚非常に多い
婚家と実家が仲悪くなれば離縁 >>551
嫁は嫁入りの時にたっぷり財産(所領)持って嫁入りするんだよ
結婚後も旦那に食わせてもらうわけじゃない
それが当時の支配階級の婚姻のあり方だよ
こういうのが戦国時代まで続くから結構簡単に離婚する 姫の前は再婚して早く死ぬんであんま幸せな生涯思わないが
牧の方は時政死後も都でぶいぶい生きてるんでタフな人だなと思うw
まあ年老いて隠居の時政の面倒ずっと見てたんだからそれぐらいいいか
六波羅に赴任した泰時や時房大丈夫だったかなw >>550
こう見ると最初から味方だったわけでも親の代からの縁があるわけでも京都の文官でもない元敵方の景時は異質だな
それだけ個人的に頼朝の信が厚かったことも、他のメンツが即排除にかかるのも分かる 同じく元敵方の畠山重忠を排除しようと何度も動いてたな梶原
頼朝がそれにのらなかったが
北条の婿には手出ししないのが頼朝 >>549
矢部禅尼は宝治合戦で自身の三浦一族より孫の時頼を取ったから完全に縁が切れる訳じゃないのが人間の心の難しいところだよね >>557
政子と真逆だね
まあ普通は自分の息子の側に立つねw >>554
分析したら景時はホント異質
吾妻鏡は北條が作ったから景時はだいぶ薄められてるはず
頼朝の子分随一と書いてるのは当時の貴族の日記だもんな >>552
平安時代は土地と家は娘が相続(夫は入り婿)だけど
武士の世になってからは土地と家は嫡男単独相続で
次男以下は嫡男の家臣になるし女は嫁ぐ
姫の前は親から相続した家と土地があったので地頭として食べていけたと?
ならなんで都へ行って公家と再婚なんだろうね
自分の所領に戻れば独身でも安泰だったんだろ >>560
鎌倉は嫡男単独相続じゃないよ
親父の差配次第だが娘にも財産なるのが普通
嫡男単独相続になったのは室町以後
それでも嫁に化粧料持たせるのが普通だよ。
その辺は戦国時代に日本に来た宣教師の記録にも書いてある。
日本では嫁が財産持ってるので旦那の前を歩いたり離婚も自由だとね。当時の欧州は離婚許されてなかったから印象に残ったんだろ
京都に嫁に行ったのが食えないからと決めつける方がおかしいわな >>560
鎌倉時代は女子でも相続出来たし兄弟で分割相続もされてた、だからたわけ者って言葉が出来た訳で
子供が荒れれば悔い返しで取り戻せたり鎌倉時代は結構柔軟性有ったよ
新田氏の初期を見てみると分割相続と女子相続の駄目なところが吹き出してて分かりやすいと思う 矢部禅尼とは経時も時頼も親しく交流してたぽいよね
あそこは父親がいなくて父の兄弟もほぼいなくて父方の縁者が薄いから
じーちゃんばーちゃんを大事にするのわかるけど
じーちゃんが泰時でばーちゃんが矢部禅尼 >>559
だからあっさり景時を見捨てた頼家が京の公家からも批判されてるわけだ
自分が頼家なら署名のない北条か政子使って御家人抑えさせたな 千幡の後見人の北条は梶原から真っ先に標的にされるもんな
義経範頼らを葬ってきた梶原見てるから
頼朝のそばにいて見てた義時が動いておかしくない >>565
広元も一度は連判状差し止めてたのを義盛にせっつかれて景時を失うのは惜しいからと言っているあたり、京下り文官勢からは評価高かったのかな
ただ単に御家人同士のいざこざは侍所でどうにかしとけと鎌倉殿まで通す必要も無いと思ってただけかもしれんが >>562
原則男子による嫡子相続だよ
兄弟分割の場合も嫡子に配分が大きく均等ではない
弟に分割する領地がないときは嫡子しかもらえない
男子がなく跡取りが女子という場合のみ女の地頭職もありえたが基本女子による相続はない
守護職の女子相続はありえなかった、戦に出なければならないからな >>570
それは鎌倉時代後期の話だね
もし鎌倉時代ずっとそうなら御成敗式目第18条辺りからの内容はどうして決められたのか?って話になる
道理大好きな泰時が決めたんだから当時決めなければならない背景が有ったんでしょう 頼朝は梶原を利用してたような感もある
広常殺害とかさ
自分からは手を下さず梶原に悪役をやらせたような
そんで梶原が憎まれる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています