【第四十八回】太平記part.48『果てしなき戦い』
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>45
金に汚いイメージと陸軍を長州閥の縁故人事で固めて権力を維持し続けたイメージが原因
>>48
官途名を勝手に名乗るケースは南北朝くらいからチラホラ出始めると思う
最初は例えば父親が駿河守であった奴が「駿河太郎」みたいに名乗っていたのが
やがて自分自身は任官していないのにそのまま「駿河守」を名乗るようになり
正式に任官したかどうかに関わらず代々その官途名を名乗るみたいな感じで広がっていく
まあさらに時代が下って近世になれば正式な任官は将軍の直臣である大名・旗本だけで
他は大藩の家老クラスの上級武士でも官途名は基本すべて自称になるが
忠臣蔵でいえば浅野内匠頭は正式任官だが大石内蔵助は単なる自称 >>49
一応桃井氏は奉公衆としては室町後半期でも存在しているけどな >>5
ここがいやならどこぞのスレにでもお逃げ遊ばせ 頼朝もちょっとだけ右兵衛権佐だっただけでも流罪先で関東武士からは佐殿と呼ばれるんだよね
1度任官されたら辞めても先○○みたいに権威が残るのが面白い >>54
2ヶ月しか総理やってない羽田孜も死ぬまで
総理総理言われたそうだ
中曽根小泉クラスなら分かるが
2ヶ月で総理呼ばわりは本人も嫌だったろうに
と思ったがそうでもねえのかな >>58
まあそれをいうなら中世の頃の太政大臣みたいな官職なんて
人生の集大成として官歴の最後に箔を付けるだけのポストで短期間での辞任が前提の名誉職 >>54
頼朝は上洛して後白河と対面した際に任官した右近衛大将だってごく短期間で辞めているが
後々まで「右大将」が頼朝の代名詞 >>43
西郷隆盛と一番仲が悪かったのは
山県有朋だよ
西南戦争でボロ負けが確定した西郷隆盛が
「降伏するから生命だけは助けて」と命乞いの書状を送ってきたが
「武士なら潔く死ねや」と、これを拒絶した 山県は山城屋事件の際に西郷に庇ってもらったこともあって西郷には恩義を感じていたはず
西南戦争での西郷の命乞いは西郷の預かり知らないところで部下が勝手にやっただけだし
西郷の自決が最善と山県が考えていたのは西郷の名誉を守るためという意味合いが強い
江藤新平のように生け捕りにされて裁判の場に引き出されるようなことは耐え難いと >>23
お相撲取るのが大好きだった明治天皇の話はほのぼのする >>23
途端に大はしゃぎであの高笑いシーン思い浮かべたw 明治天皇に相撲を教えたのは西郷の腰巾着だった村田新八だな >>54
高時の相模入道とか八幡太郎の様に官位じゃない呼ばれ方する人も居るから何か基準が有ったんだろうか?
ドラマの太平記は呼び方が諱と字と官職でバラバラだから統一感無いよね なぜ桃井刑部を襲うた 動くなと申したはずじゃ なにゆえに軽はずみなことをするか
桃井一人を闇討ちにしてどうなる そのような姑息なやり方で、天下が治められると思うか
(義詮 桃井は許せませぬ 刑部はこの義詮をあなどり、父上を亡き者にせんと図っておりまする 刑部さえ討てば)
黙れ そなたは、桃井の挑発にウカウカと乗ったのじゃ 桃井は館に戻り兵を集めておる
この都を、いくさに巻きこむつもりか 愚か者めが! なぜ父の言うことが聞けぬのじゃ
そなたが失脚すれば、足利家は後の支えを失う わしが倒れても、そなたが倒れてはならんのじゃ
いくさをやるならわしがやる 刑部を討つならわしが討つ それがなぜ分からん
このシーンの義詮が良かったなあ 前半の敵役がフランキーさん
中盤の敵役が高橋さん
名優を配したから締まりますね 昔見た時直義派の桃井の悦史と細川顕氏のセブンが目立っていい味出してた覚えがある >>64
西郷さんは助かりたくて1人逃げようとしたところを
見苦しいと別府に切られたのが最期というのが鹿児島での定説なんだよなあ。 あと、山縣さんが西郷の名誉を守るためとか考えてたとはとても思えないしなあ。
天皇お気に入りの西郷さんに乱後も生き残られたら何かと揉め事の原因になって迷惑とは考えていたかもしれんが。 桃井直常は直義が死に、尊氏が死に義詮が死んでも
何故あそこ迄反将軍家だったのか >>68
「相模入道」なら常識的に「もともと相模守であった人物で出家している」という意味
というか「官途名+入道」は基本的にそういう意味
「八幡太郎」は官途名とは関係ない通称
尊氏の「又太郎」や義貞の「小太郎」と同じ類いのもの >>55 苗字で掃部さんとかじっさいにいるからね ながいこと「この家のひとはどうして玄関に『掃除』という表札をだしているのだろう」と思っていた うちの近所の刑部さんを思い出した。
銭形みたいな怖いおっさんが出てくるかと冷や冷やした。 「井伊掃部頭」と英語圏の外国人が言うとどうなるだろう。
「イイ、come on ノカミ」 うちの近所の『伯耆』さんの表札をみて 伯爵なんだと勘違いしていた スレ違いだけど
珍しい名字ってあるよなあ
「え?、今なんて言ったの?」「ああ、漢字で書くとこうか」
なんて
何とかの荘を開墾したから
「何とか荘を開墾した太郎さん」→「何とか太郎」が
可愛く思える 足利義満が僧形になったときは
ご機嫌とりで僧になる者が続出、皆さん袈裟着て出仕したとかきくけど
判官殿は、史実は何時から僧形なんだろ
髪をそった後は、最終回の直義みたいな感じだったのかな 鎌倉幕府では執権北条高時に御相供衆として仕え、高時が出家した際には共に出家して導誉と号した。
高時に倣っての出家だからかなり若い時 どーよの僧形は政宗の秀次失脚の回で見た
「碁盤の目はこのままにいたせ!」 近藤正臣良いよね
この頃が、真面目な所と嫌味な所のバランスが取れてて一番良かった
もうちょっと歳を取ると嫌味の方がキツくなって嫌いになるんだけど >>80
官途名が苗字化した例なら九州の少弐氏が有名だな
あとは室町幕府奉公衆の治部氏とか
>>84
実際「伯耆」は室町・戦国期には名和氏のもう一つの苗字のように使われるよな
国名がそのまま苗字として使われる例なら室町幕府奉公衆の伊勢氏や摂津氏も有名
いずれも「伊勢守」「摂津守」の官途名を代々名乗っているし
しかもこれは自称ではなく正式に任官しているはず 見れてなかった3週分を一気に見たけど北条あっさり滅んだな
北条が雑魚にしか見えなかった
もっと上手いこと描いて欲しかったなあ ちなみに山県有朋
命の恩人だった西郷隆盛を殺さなきゃいけない
のは複雑な心境で有ったとか
以前本で読んだ事が有る >>74
一応言っておくと西郷の最期を極力名誉あるものにすることは
山県だけでなく当時の明治政府全体にとっても極めて重要なことだぞ
当時の西郷は全国の不平士族たちの象徴的な存在であり
政府が西郷を意図的に辱しめたと受け取られかねないことをすれば
さらなる士族反乱など事態の悪化を招きかねないわけで >>81 今ふときづいたんだけど 銭形さんは『警部』か ぼーっとしてたわ 何の疑問もなく銭形刑部だと思っていた そもそも官途名に由来する「刑部」なら読みは「ぎょうぶ」だよな ドラマ見てもよくわからなかったが後醍醐天皇と護良親王は打倒北条の目的は同じでも
倒幕前からすでに反目してたの?
倒幕の第一功労者にいきなり坊主に戻れというのも意味わからないし北条倒して帝が京に
戻ったのに上洛命令無視で武装解除せず山に引きこもったままというのもよくわからない >>101
仲のよい親子でも
一度握った権力、自分が中心となる集団は手放したくないんじゃないかなあ
史学は詳しくないけど
後醍醐天皇と護良親王とは、別々に倒幕運動してたみたいだし
後醍醐天皇が「皇帝のごとき」体制、護良親王は皇子の1人と
護良親王が後継者、又はそれなりの地位にいる体制とは
違う気がする 護良親王
子供の頃読んだ学習漫画では
悪人顔の足利に陥れられる悲劇の貴公子だったり
武断派で、部下が度胸試しのため辻斬りやってたり
敵兵に追われて、蓋があいた箱の中に隠れたり
描かれ方が違ってて
「どんな人なんだ?」って思ったな >>101
上洛命令無視で武装解除せず山に引きこもった理由は、
足利を警戒したからと本人が説明していたな >>96
ドラマで描写されなかったけれども、存命中の執権や執権経験者までもが
最前線で鎌倉を死守しようとしていた
巨福呂坂に向かった赤橋守時は離反を疑われて抗議するように自刃したのは5月18日
普恩寺基時は金沢貞顕と化粧坂を守っていたけれども新田軍が他ルートから鎌倉入りし
5月22日基時はその場で自刃、貞明は東勝寺に向かい同日自刃
長崎円喜でさえ、子や孫を最前線に向かわせるほどの逼迫ぶりだった
それだけ北条から離反した武士が多かったとも言える 大塔宮護良親王は後継者の座を
阿野廉子の息子と争ってたみたいだが
しかもそれに加えて将軍の座を巡って足利尊氏と対立
それで足利・阿野廉子 両方から落とし入れられる事をされた
足利・阿野廉子 両方共に敵に回したのはまずかったな
政治的には自滅行為をしてしまった人だな >>107
「ドラマで描かれなかった」というレスに対し
「描かれなかったがこうだった」と言ってどうすんの? >>107
北条高時など鎌倉から逃げれば良かったんだがな
時行も逃げた信州にでも逃げれば
北条政権が存続したかも知れないのに
江戸幕府でも幕臣が東北を経て函館で亡命政権作ったし
室町幕府の足利義昭も中国地方で亡命政権作った
鎌倉幕府滅亡時の北条は本当に諦めが早かったな >>107
ワシの孫が戦っておるのじゃ
見てなかったのかよ 逃げた挙句部下に裏切られて首を手土産に降伏でもされたらカッコ悪過ぎる
藤原泰衡とかのパターン 護良親王ってなんか分からんけど
ドラマを参考にした人物王でいいのかも >>20
後醍醐帝の立場からしたら、1年も隠岐に押し込まれてた恨みもあるので、
六波羅が落ち、鎌倉が滅んだと聞いたら、そりゃ高笑いもするさ。
ただ、仁左衛門さんがあの高笑いを下品にして欲しいという
演出からの注文は間違いなくあったでしょうね。 >>42
一瞬、高氏殺して尊氏に憎まれるって、
何の話をしてるのかと思ったら、高氏は師直・師泰のことねw
ここにきてる人たちは間違えないでしょうけど、
やはり「高氏」表示は一瞬ややこしいw >>108
鎌倉幕府では滅亡までの4代が親王将軍
当時は将軍と言えば源氏がなるものではなく親王がなるものだったんだよね
だから護良親王が征夷大将軍を望むのはある意味普通のことだった
足利尊氏が鎌倉幕府のごく初期だけ源氏将軍だったことをもって
征夷大将軍を望むほうがある意味無謀
後醍醐天皇が尊氏の征夷大将軍を認めないのも一理ある
まあ異母兄が征夷大将軍では幼い皇太子を軽んじるのではないかという阿野廉子と
護良親王ではお飾りの将軍にならないから自分が将軍になりたい尊氏の利害が一致したのはそうだろうが ちなみに護良親王
小学館の漫画日本の歴史では
足利と阿野廉子の計略で逮捕され
鎌倉に送られる時に
何故父上は私の言い分を信じてくれなかったのだ?
今となっては足利よりも父上の方が憎い
と後醍醐の方を憎んでいたけどね
こりゃ相当に親子の仲が悪くなっていたと思われ
後醍醐の方にせよ何故足利直義に護良親王を預けたのかがわからん
まさか足利に護良親王を殺させるつもりは無かっただろうが
護良親王を足利に対する人質のつもりだったんだろうかね?
後醍醐は自分の息子を足利に預けるので足利と敵対する気は無い
と言うアピールのつもりだったのかね? >>96
あの描き方で、雑魚にしか見えない。
あんたの脳みそ、やばいと思う。 昔は征夷大将軍は源氏しかなれないというガセ説がまことしやかに
流れてたんだよね
直義のセリフ見てその時代に作られた作品なんだと実感した 堤大二郎、竹本孝之、沖田浩之、新田純一らは
ジャニーズによって消されたな 当時は頼朝以下三代ぐらいじゃね?そんな先例
むしろ親王将軍が直前までいたわけだから・・・
脚本のミスっちゃあミス
足利が鎌倉倒したんだから当然我らが、ぐらいよな >>121
そして忘れ去られる旭将軍w
まぁあの時代に征夷大将軍が源氏だけって意識は無いよね
中の人繋がりで豊臣秀長が言う分にはまだ分かるけどw 何とか将軍って、基本1人しか任命されないのかな
征夷大将軍って
頼朝が東国にいたから任命されて、その後鎌倉幕府の長の象徴になった
摂家将軍や親王将軍いたけど実権は北条が握ってたから
ありがたみはないってのは違うのかな 頼朝公がはじめた鎌倉幕府が北条に乗っ取られた
頼朝公の血筋が絶えたなら、源氏の系統が継ぐべき
宗家に最も近い足利氏こそ、その資格があるはず
腐敗堕落した北条を倒して、世をあるべき姿に戻そう
ってのは、ドラマ的にはわかりやすいかなあ
実際は色んな無理があって、正統性を主張する者も乱立したけど BSプレニアムで再放送中だから、そっちの話題にどうしてもなるな
スレタイの「果てしなき戦い」(48回)の話もしようぜ 中先代の乱で、直義が護良を殺さなければ
鎌倉を落とした北条時行に護良が担がれて
フランケンシュタインみたいな新鎌倉幕府誕生
なんてことは本当にありえたんだろうか 実際は頼朝の庶子が寺にいたんだがね
実朝死んで血筋たえたと思ってる人も昔は結構いたな
将軍がそこで終わったと思ってた人もw >>129
実朝以後
源氏の関係者、頼朝の庶子は何人か粛正されたらしいですね
承久の変は、北条政権対朝廷(と源氏関係者)って言ってる史家がいたような
子供の頃、「3代将軍後はどうなった?」って本読んでみたら
摂家将軍や親王将軍が継承していて驚いたな 頼朝の庶子は粛清されてないよ
ずっと寺にいた
ただ無視されて藤原氏迎えられただけ
殺されたのは頼家の子供と全成の子供だよ
北条は頼朝とは仲良くて頼家とバトルしたから >>128
誕生してても数日で尊氏に滅ぼされる運命は変わらないと思う。 >>127
単に連番なだけだしな、話題にしたかったら話振ってよいのよ 頼朝の庶子って還俗拒否したんじゃ無かったっけ?
長兄は金玉取られて暗殺、次兄も暗殺されて首持って行かれたけど跡継ぎ居ないから還俗して将軍やってくれない?って打診来て戻る奴いないよね・・・
だからと言って籤引きやると万民恐怖w 結局北条が天下人になりたいがために
頼朝の庶子は無視されたのかね?
考えてみたら頼朝直系が滅んでも
足利を将軍にしたら良かったのに
それをしなかったという事は
やはり北条が天下人になりたかったんだろうね 頼経と竹御所の子供が死産しなければ5代将軍は頼朝直系に戻ったと思う
歴史のifだけどね >>136
鎌倉幕府が成立した頃は
頼朝の近い源氏は
吉見や阿野や新田や足利、大内や平賀とか
結構いたらしい
北条に近かったから(取り入ったから?)
足利氏が正統扱いされるようになったって解説読んだけど
御家人の間から祭り上げるよりは
京都から迎えるほうが色々都合よかったよかな いくさの賞罰の儀は、古来征夷大将軍が断を下すもの いくさの賞罰の儀 許す許さぬの儀は将軍が決める
そなたは、高師直の首を取り、それで将軍になるつもりであったのか
では将軍はこの尊氏と認めるのか 皆もそうか では話を元に戻す こたびのいくさの
恩賞の儀は、将軍たるこの尊氏が決める それが筋であろう それでよいな
頼房!わしはそなたを許さぬ とく下がれ
さて、こたびのいくさの恩賞の儀じゃが、第一の功には、終始わしにつき従ごうた42人の武将をあげたい これらの者の領地を安堵し、しかる後に、他の武将の賞罰を決したいと存ずるがいかが
今後師直に代わってそなたが義詮を助け、まつりごとを行うことは認めよう それを認めた上の話じゃ >>126
二代将軍の頼家は比企の娘を嫁にもらったため
その一族が政治に口を出すようになって
北条氏と対立した
三代将軍になった実朝は足利氏の娘を嫁にもらうようすすめられたが
嫁は京の都からもらいたい
政治に口を出すこともないでしょうからと
これを断っている まあその辺りは三谷の大河で出てくるだろうが
実朝夫人に足利氏をてのは政子の考えくさい
足利義兼の妻は政子の同母妹だから
で実朝が断ったとなってるが本当に子供の実朝が断ったかなあ
時政や義時の差し金ではないかと怪しんでる
義時は外戚との合戦で妻と離別することになって懲りたろうし
時政は自分の娘婿の縁者の坊門から迎えるようにしたし
政子ってあんま考えずに感情で動くから呑気に足利から嫁をーて言いそうなんだよなw
公暁を実朝養子にして京から呼び戻したのも政子だし
この呑気さだと頼朝直系途絶えるって 頼朝の長男といえば郷ひろみのイメージ強い
相手役の女優が好みだったな 源頼朝や北条政子は「太平記」に登場しないから、スレ違い
草燃えるのスレか、鎌倉殿の21人のスレへGO いざ鎌倉と言えば、みんな仲間じゃないか
細かい事言うなよ 実朝の次も源氏将軍でずっと行っとけば、最後に持明院統の皇族将軍を担いで容赦なく鎌倉を攻められるような事は無かったのかもなと思った >>110
平家の滅亡もそうだがこの時代の戦争は時の勢いみたいなもので決まってしまうから
仮に戦線を離脱して一時的に行き長らえても一度権力から転落していまうと
結局のところ先はないのが目に見えている
特に鎌倉北条氏はもともと統治者としての権威・正統性に乏しいから
実際の権力がほとんどすべてでこれを失ったまま逃げ回っても悲惨な末路になるしかない
この鎌倉を失うて・・・いずくにか我らの立つべきところやある! >>116
直近の約80年間親王将軍をトップとして武家政権が存在していた事実がある以上
武家政権の存在を否定したい後醍醐帝本人にとっても
征夷大将軍の地位を要求した護良の振る舞いは看過できないものになっていただろう
いくら廉子派と足利が結託したところで後醍醐帝が承認しなければ護良の逮捕はできない
>>117
護良を京都には置いておけないし破れた政争の当事者は勝った側に引き渡すのが道理 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています