>>84
永禄の変で13歳の息子(糸千代丸)が足利義輝とともに戦死している。

変後の動静はこんな感じ↓

>変後も摂津氏が世襲していた官途奉行などの地位は安堵されていたとみられるが、三好氏らが推す次期将軍候補であった足利義栄が伊勢貞為(貞孝の孫)の出仕を認めた事に反発し、永禄9年(1566年)5月以降京都を離れる[4]。
>永禄11年(1568年)2月にあった足利義栄への将軍宣下に際しては出席を拒み、同月に行われた義輝の弟である足利義昭の元服の奉行を務めていることから、この時には義昭に従っていたとみられる(摂津晴門wikiより)。