前スレで264が平岡円四郎の養父の出世の話を紹介していたが、調べてみたら「八十里越」の記録が見つかり、面白かったので
紹介する。

「八十里越」は、新潟県三条市(旧下田村)から福島県只見町に至る県境部分を指し、古来は越後と会津の交易の街道として往来が盛んだったが、あまりの険しさゆえ実際は八里しかないが一里が十里にも感じられたことからこの名がついたと言われている。

以下のまとめはすべて
三条遺跡物語 https://www.city.sanjo.niigata.jp/material/files/group/12/sanjoisekimonogatarihatizyuri21-32.pdf
からの情報。

<大改修までのいきさつ>
1 天明3(1783)年の浅間山の大噴火による降灰は、 関東や東北地方に大凶作をもたらし、未曾有の大飢饉となった。
2 奥会津地方でも天明4年正月までに2千人以上もの餓死者が出たため、救済の手当金で越後米1千俵を買入れ、八十里越で運び込むこととなった。
3 牛馬の往来ができない難路のため人足の背負いで運ばれ、約400俵 が人足賃などの経費にあてられ、600俵余りが村々に配分された。
4 しかし越後からの救援米が八十里越を越えたことの意義は大きく、命をつなぐ重要な街道として奥会津の人々に再認識された。
5 天明の飢饉から50年ほど経た天保4(1833)年と7年に再び奥会津地方を大飢饉がおそった。
6 この時の移送も背負子によるもので、牛馬が往来できる道に改修するよう奥会津の人々は切望した。
7 天保3年には幕府に目安箱が設置され、奥会津から「八十里越は難所のため輸送の駄賃が高く、諸物が高いものとなっている。特に塩は新潟で買入れ、津川(阿賀町)から野沢(福島県西会津町)を経由して運ぶため高値となり困っている。平坦で距離も短い蒲生村(只見町)と大谷村(三条市)を結ぶ新道を開削したい。」 と申し入れたが実現しなかった。 
8 奥会津地方は南山御蔵入領として長く会津藩の預り支配地となっていたが、天保8(1837)年に幕府代官による直支配に替わった。
9 天保9年8月には再び凶作と なり飢饉の様相が現れたため、奥会津地方の黒谷組など4組の代表は連名して「会津伊南伊北郷より八十里越開発願書」を田島代官所に出した。
10 この時の田島代官は、越後水原代官と兼務する平岡文次郎だった。
(つづく)