(つづき 3)
<八十里越を通った旅人の記録>

(1) 
江戸時代後期、庶民の間でも社寺参詣などが盛んになり、奥会津の人々も伊勢参りなどに
出掛け、その旅日記が残されている。
黒谷組石伏村(福島県只見町)目黒多平治が記した旅日記「伊勢道中記」によれば、
多平治は、只見、田子倉などの村々からの23人で、文久4(1864)年1月13日に
伊勢参りに出発し、まずは日光東照宮を参詣する。その後、江戸へは寄らず、中山道に
出て大井宿(岐阜県恵那市)まで進み、2月12日に伊勢に到着した。外宮、内宮などを
参詣し無事にお伊勢参りを終えた後、そのまま帰路にはつかず、奈良、高野山、大坂、
四国の金比羅様、姫路、京などを廻って物見遊山の旅を楽しみ、3月20日に京を離れ、
中山道を塩尻宿(長野県塩尻市)まで戻り、松本を抜けて善光寺(長野市)に参詣した。
3月30日には越後国に入り、北国街道を北上し、高田(上越市)、柏崎、寺泊を経て、
弥彦に着き、弥彦神社を参詣した。その後4月5日に三条町に着き、旅籠「会津屋」で
一晩し翌6日には、遅場で一泊し、7日には最後の難所八十里越を「山越」して、奥会津に
帰村した。約80日間の長旅だった。

(2) 
1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、
火蓋を切った戊辰戦争は、関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても
「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがあった。特に軍事総督、河井継之助率いる
長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、
その戦いぶりは後世にまで語り継がれている。
「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」
という句は、重傷を負った継之助が担架に乗せられ峠を越える時に、悪路に揺られながら
詠んだ自嘲の句として知られている。

以上、三条遺跡物語 https://www.city.sanjo.niigata.jp/material/files/group/12/sanjoisekimonogatarihatizyuri21-32.pdf
(つづく)