(つづき2)

脚注

*1 南町奉行 矢部定謙
天保2年(1831年)堺奉行、天保4年(1833年)大坂西町奉行。
天保12年(1841年)に江戸南町奉行に任じられたが、江戸幕府の老中水野忠邦と対立し罷免された。
矢部の主張は「江戸の物価は大坂が握っている。株仲間を解散すると大坂に商品が入らなくなり、
大坂の問屋は価格を上げざるを得ず、結局は物価高騰につながる」というもので、後に正しさが
証明された。

*2 川路 聖謨
豊後国日田に、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。
父・吉兵衛は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。文化9年(1812年9
弥吉は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。文化14年(1817年)勘定奉行所の下級吏員
資格試験である筆算吟味に及第。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に
採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。(以後略)

*3 番士
幕府の役職の手当は、旗本の出世の振り出しと言われた「五番方」だと、いわゆる兵の「番士」が
100俵〜300俵、指揮を執る「番頭」が1,000石〜5,000石と規定されていた。
「番方」とは、幕府における軍事に関する役職の総称で、事務職は「役方」と言われていた。
番方は言わば、戦時における将軍の親衛隊、幕臣はここに入ること(御番入)が出世街道のスタートだった。
「大番」「書院番」「小姓組」は各番あたり50名程度×10組、「新番」「小十人組」は20名程度×10組
およそ2,000人の中に入れるか否か、そしてここから実績をあげ、旗本は泰平の世の出世を目指していった。
大岡忠相も25歳で書院番、田沼意次は16歳で西の丸小姓、長谷川平蔵は30歳で西の丸書院番からスタートした。 

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*4 藤田東湖 
先祖は常陸国那珂郡飯田村の百姓。曽祖父・与左衛門の代に水戸城下に移り、商家に奉公してのれん分けを
許され店を開いた。祖父・与右衛門(言徳)は水戸城下の奈良屋町で屋号「藤田屋」という古着屋を営んで
いたが、学問を好んだ。その次男が東湖の父・幽谷で、幼少時より学才高く神童とうたわれ、立原翠軒の
私塾に入門した。さらに彰考館の館員となって頭角を現し、水戸藩士分に列した。(以後略)