青天を衝け(32)「栄一、銀行を作る」★1
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栄一(吉沢亮)は政府を辞め、第一国立銀行の総監役として、新たな道を歩み始める。開業後、駆けつけた五代友厚(ディーン・フジオカ)は、“商いは化け物”、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)していると栄一に助言する。その頃、岩崎弥太郎(中村芝翫)は、大蔵卿の大隈重信(大倉孝二)と結びつきを強め、海運業で急成長していた。そんな中、ゑい(和久井映見)が体調を崩し、栄一のもとに身を寄せる…。
【出演】吉沢亮,高良健吾,橋本愛,田辺誠一,村川絵梨,大倉孝二,志尊淳,福士誠治,ディーン・フジオカ,石丸幹二,山内圭哉,小倉久寛,遠山俊也,川栄李奈,木村佳乃,和久井映見,イッセー尾形,中村芝翫ほか
【作】大森美香
【音楽】佐藤直紀 第7回 絵図で辿る三大洋風建築 「第一国立銀行」(上) | アーカイブス - 清水建設 https://www.shimz.co.jp/heritage/column/report/07.html
1872(明治5)年2月、銀座大火により焼失した築地ホテル館からバトンタッチされるかのように、その4カ月後、東京に再び洋風建築が誕生します。日本最初の銀行となる「第一国立銀行」です。
二代喜助の設計施工による第一国立銀行は、東京の新名所として人々に親しまれ、多くの錦絵や石版にもその姿を残しています。
設計施工は二代喜助 横浜や築地など外国人居留地の外に建てられた国内初の洋風建築であり、また初の銀行建築でもある第一国立銀行は、1871(明治4)年8月に着工し、翌年6月に竣工。わずか10カ月という短工期で完成しています。
和洋折衷の洋風建築造りは築地ホテル館と同じですが、大きく違う点は外国人技師の指導によらず、設計施工すべてを二代喜助が手掛けたことです。つまり日本人によって造られた最初の西洋館が第一国立銀行です。
建設地は海運橋のたもと(現在の中央区日本橋兜町)。当初は三井組の銀行として建設が計画されたものの、明治政府の政策により1873(明治6)年に第一国立銀行として開業します。初代頭取には渋沢栄一が就任しました。 第8回 絵図で辿る三大洋風建築 「第一国立銀行」(下) | アーカイブス - 清水建設 https://www.shimz.co.jp/heritage/column/report/08.html
日本橋兜町4丁目、みずほ銀行ビルの外壁に「銀行発祥の地」と記された銅板を見ることができます。まさしくここが、1873(明治6)年創業の第一国立銀行の発祥地です。
築地ホテル館よりさらに大胆な和洋折衷の意匠は、人々の注目を集め、神社と間違えて“さい銭”を供える見物人も多かったと伝えられています。
斬新で豪壮! 木造5階建て、延床面積約1,295m2、旗竿の先端までの高さが26m、総工費は約4万7,600両。1872(明治5)年に開業した新橋停車場の総工費(約2万2,100両)と比較しても、いかに豪壮な建物であったかがうかがえます。
建物の一番の特徴は、何と言っても、洋風建築に伝統的な城郭建築を組み合わせたその斬新な意匠です。
ベランダの漆喰彫刻(鏝絵/こてえ)、建物最上階の八角の塔屋、石張りされた外壁など、洋と和が美しく調和したデザインに、二代喜助の確かな腕を見ることができます。
しかし、着工に至るまでには5案もの図面を書き直し、文明開化にふさわしい、今までにない建物を造るために腐心を重ねていたのでした。
渋沢栄一に指導を仰ぐ 第一国立銀行の初代頭取である渋沢栄一は、『日本最初の銀行建築』と題し、「当時のこと銀行建築のことは知ろう筈もない。実物を見たことももちろんない。(中略)とにかく清水一個の頭から絞り出し建てた。
出来上がったものを今日から見れば、或いは抱腹すべきものであるかもわからぬが、当時にあっては我が国におけるもっとも最初の、そして他に類のない銀行建築である」と高く評しています。(『建築世界』第9巻第4号特別号/1915(大正4)年4月発行)
日本資本主義の父と言われる渋沢と喜助の出会いは、この第一国立銀行建設のころ。当社はその後、渋沢が亡くなる1931(昭和6)年まで、60年という長い歳月にわたり、経営上の指導を仰ぐことになります。 八芳園は渋沢喜作邸だった
八芳園の歴史 https://www.happo-en.com/history/
東京白金台の自然の丘陵と小川跡を利用してつくられた八芳園は、樹齢数百年の樹木や渡り鳥の姿等を見ることのできる由緒ある日本庭園です。
いま八芳園のある白金台は、江戸時代初期には、徳川家康の側臣の一人、大久保彦左衛門の屋敷であったと言われています
そして明治の末にはいまの八芳園の地を実業家渋沢喜作(1838〜1912年)が所有し、老居の地と考え居を構えました。
その後、白金台がにぎわいをみせる様になり、騒がしくなったと、1915(大正4年)、喜作はここを売りに出します。 そこに目をつけたのが当時、実業界に世人瞠目の手腕を振るっていた久原房之助です。 >>4 日立製作所などの基礎を築いた久原房之助は、第一次大戦後、一躍新興財閥に仲間入りし、後に政界に進出すると政友会の中枢にあって表裏に活躍しました。
庭内に足を運んだ久原は一目でそこを気に入り、購入を即決しました。久原は後にこの地を踏んだ理由について、「あの松一本に惹かれたのだよ」と語っています。
久原の言う松とは、かつて大久保彦左衛門が将軍家康から見舞いとして授かり、後に地におろしたと伝わる、あの樹齢400年を超える老松です。
久原はことのほかこの松を愛し、写真を撮る時などしばしばこの松を背にしたと言います >>5 八芳園の久原房之助
学園のあゆみ - 甲南大学 https://www.konan-u.ac.jp/gakuen/ayumi/ 学校法人甲南学園は、甲南大学と甲南高等学校・中学校とからなっています。
神戸市東灘区住吉にある甲南幼稚園・小学校は、現在では別の学校法人となっていますが、甲南学園の創立は、この幼稚園に発しています。
1910(明治43)年、住吉村に移り住んだ関西の実業家の間で、私立の幼稚園および小学校を創設する計画が生まれました。田辺貞吉、才賀藤吉、平生釟三郎、阿部元太郎、小林山郷ら11人の実業家は、1911(明治44)年に幼稚園、1912(明治45)年に小学校を創設しましたが、まもなく財政難に陥いりました。
このとき、平生釟三郎が、上記の人たちのほか、久原房之助、進藤嘉三郎らの援助をえて、これを軌道にのせました。
甲南大学 平生は、さらに安宅弥吉や伊藤忠兵衞らの協力をえて、1919(大正8)年に甲南中学校をいまの甲南大学岡本キャンパス(神戸市東灘区岡本)の地に開校しました。これが現在まで続く甲南学園の歴史の起点となっています。
その後甲南中学校は1923(大正12)年には尋常科(中学)4年、高等科3年の7年制高等学校へと発展しました。 >>6 平生八三郎と各務兼吉と東京海上 1894 業績改善に尽力した若手社員 - 東京海上日動 https://www.tokiomarine-nichido.co.jp/company/rashisa/story/history/1.html
この英国での失敗の原因究明と対策を実行したのは、入社4年目の各務鎌吉(かがみけんきち 当時26才)と入社間もない平生釟三郎(ひらおはちさぶろう 当時29才)でした。
まず、各務は、英国での契約内容を一から再精査し、独力で保険統計を作成、原因が引き受けの不備にあることを突き止めました。
そして、当時国内の営業を任されていた平生と2カ月にわたって論議を重ね、業務を委託していた代理店との関係を解消し、自らリスク判断の考え方をまとめ改善を進めました。
東京海上ロンドン支店のメンバー(前列中央が各務鎌吉・前列左端が平生釟三郎)また、英国市場で評価の高い海上保険ブローカーであるウィリス・フェーバー商会に代理店をあらためて委託し、海外営業の立て直しをはかると同時に、日本で引き受けた貨物保険の包括再保険契約をロンドン市場と締結しました。
その後、各務は、損失を招いた原因の1つであった経理方法の改革を断行し、未経過の保険料を利益とみなしてしまう「現計計算」から「年度別計算」への移行を進め、1897年に完了させました。
この海外での取り組みは、国内営業の発展にも寄与し、当社は数年のうちに業績を回復させることができました。
のちに海外の一流海上保険会社とも肩を並べるほどに成長できたのも、各務、平生といった若手社員のチャレンジ精神と、経営陣がそれを受け止めることのできる自由闊達な社風によるところが大きかったといえます。 >>8 山縣勝見の生涯 その1: 昭和初頭、青年重役として https://www.ymf.or.jp/db/yamagata/life/1-1/ 辰馬一門の本町辰馬家の6人兄弟の末っ子(三男)に生まれた辰馬勝見は、神戸一中、第三高等学校(京都)を経て、
大正14年(1925)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、直ちに辰馬家の経営する辰馬海上火災保険(株)に入社し、外国部勤務となって海外再保険取引の業務に携わりました。
この頃は保険に関する文献は少なく、殊に海外再保険に関するものは皆無に等しく、外国文献(原書)で学ぶ以外知る術はあませんでした。
若き日の勝見は名だたる勉強家をもって知られ、原書を片っ端から読破してまもなく社内随一の保険通となり、役職員はその能力に舌を巻いたといわれています。
山縣は、当時東京海上の会長で、損害保険業界の重鎮であった各務鎌吉(かがみけんきち)に会い、経営危機に立ち至った経緯を詳細に説明し、会社再建の構想を述べるとともに指導と援助を要請します。
各務は人格・識見とも優れた人物で業界の指導的地位にあり、山縣はかねて尊敬してやみませんでした。しかも東京海上は辰馬海上の大株主で、取引の上でも緊密な関係を保っていました。
昭和5年(1930) 12月、東京海上火災保険(株)取締役会長各務鎌吉と辰馬吉左衛門との間で会社再建のための覚書が取り交わされ、未払込株金の追徴、減資後の増資などを柱とした再建策が確実に実行に移されるとともに、山縣は若くして常務取締役に栄進しました。
一方、辰馬家の経営するもう一つの「海運部門」である辰馬汽船の取締役にも昭和7年(1932)12月就任し、次いで同9年(1934) 5月には副社長兼専務取締役に選任されます。 >>4 >>6 春光懇話会久原翁と鮎川翁 - 春光懇話会 http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/enkaku.html
二人の経営者と「日産」のはじまり 1905年〜
私たち春光グループのルーツを辿れば1905年(明38)にまでさかのぼります。創始者・久原房之助は同年、久原鉱業を設立し、日立鉱山の経営に着手します。
その後急成長し、事業の多角化に乗り出します。日立製作所、日本汽船、大阪鉄工所、合同肥料などの数多くの会社経営を手がけ、コンツェルン形態へと発展させていきます。
しかし、第一次世界大戦後の慢性不況により、経営不振に陥ります。そこで、1928年(昭3)、久原鉱業の再建を同郷出身で義兄の鮎川義介に託します。鮎川は親戚などからの資金援助を受けて危機を凌ぐと共に、久原鉱業を持株会社に改組し、持株会社自体の株式を公開しました。 当時、持株会社の株式公開は画期的な考え方でした。
また、社名を日本産業株式会社に改め、通称「日産」と呼びました。これが「日産」のはじまりです。 春光懇話会は永年「日産懇話会」の名称で親しまれてきましたが、「日産」の由来はここにあります。 >>10 >>6 春光懇話会の原点 1932年〜
1932年(昭7)以降、日産グループは急成長しました。日本水産、日本油脂、日産化学工業といった有力企業を傘下に吸収し、鮎川義介が肝いりで創設した戸畑鋳物(日立金属の前身)から日産自動車を派生させるなど、わずか10年足らずの間に、傘下会社数約150社を数える一大コンツェルンを形成するに至りました。
グループの急拡大に伴って、これらをまとめていくことが大きな課題となりました。1934年(昭9)、鮎川義介は懇談会組織「日産木曜会」を創設しました。グループ各社の幹部は日産木曜会を通じて交流を深めていきました。昭和12年にはこれを「日産懇話会」と改称し、より積極的に親睦と情報交換を進めました。横断的な人間関係を機軸にした企業集団づくりという春光懇話会の原点はここにあります。
日産館(日産コンツェルンの主要会社が入居) 日産本社の満州進出(移転)と撤退 1937年〜
1937年(昭12)鮎川義介は、当時の満州国(現在の中国東北地方)からの要請を受ける形で満州産業開発5ヵ年計画の遂行のため、日産本社を満州に移転し満州重工業開発(満業)と社名変更し、計画実現に向け着手します。
しかしその後、日中戦争の激化による統制経済強化に伴い、開発計画が大きく変化していきます。鮎川義介は開発を断念して、1942年(昭17)に満州から撤退することになります。
戦後の混乱と再結集の機運 1945年〜
第二次大戦後、財閥解体指令により満州重工業開発は解散しました。傘下各社は、それぞれ自社の経営再建に専念せざるを得ない状況になりました。その後、各社の経営が安定するにつれ、徐々に連携の機運が再び盛り上り、各地方でも旧「日産」グループ各社の支店営業所、関連会社が主体となり、地域懇話会がスタートしました。
1962年(昭37)、倉田主税の呼びかけで、旧日産コンツェルンの主要会社(13社)の社長が春光会館に集まり、定例会を約しました。これが「春光会」であり、ここに至って漸く春光グループの再結集がなりました。 >>11 【"春光"の名前の由来】
戦後の再結集の際、1962年(昭37)伊藤博文翁のご子息の伊藤文吉氏(元 日本鉱業社長)の元私邸(現 春光会館)に集い「春光会」を開いたのが始まりで、文吉氏の雅号「春光」に因んで名付けられました。
日産懇話会の誕生から春光懇話会まで 1966年〜
その後の春光会において、関連会社も含めた新しいグループ関連組織の設立が検討されます。こうして、1966年(昭41)、会員会社72社が集う「東京日産懇話会」がスタートしました。これが、1971年(昭46)には「日産懇話会」に改称されました。これに前後して、地域懇話会も国内外各所で次々と結成されるとともに、結婚相談所「ファミリークラブ」を開設するなど、活動はますます活発になってきました。
そして、2002年(平14)1月より、上部機関である春光会との連携強化を図るため、私どもの企業グループ名を「春光グループ」と決め、日産懇話会を「春光懇話会」と改称し、新たな発展を期しました。
久原鉱業の創業から約1世紀後の現在、春光懇話会は各地域毎の自発的は活動を通じて、各社のこころとこころのつながりをより強く、深いものとするために、今日も活動しています。 >>12 >>6 鮎川 義 介 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/017aikawa.pdf
その手法は、自社に有利な比率 での自社株式と既存企業株式の交換による吸収合併という形で進められ、 合併後はその企業と事業内容を整理統合し、子会社として分離独立させる というものだった。
この一連の事業展開により、日本産業はさまざまな業 種の会社を傘下に収め、
昭和12年(1937)頃には三井、三菱に次ぐ事業規 模の企業集団に成長した。
また昭和8年(1933)には、念願であった自動車生産事業に乗り出す。 鮎川は、鋳物で舶用小型発動機のような小さいものばかり造っていたので は発展がない、自動車エンジンを主体として自動車関係にと、早いうちか ら自動車工業の将来性を見越しており、戸畑鋳物が軌道に乗る頃から、自 動車部品関連の会社を買収するという準備をはじめていた。
昭和12年(1937)満州国政府と関東軍の要請により、日本産業は本社を 満州国首都・新京に移転し、社名を満州重工業開発株式会社(満業)と改 め、満州産業開発五ヵ年計画の遂行機関となる。
しかし、当初の構想通り には開発が実現しなかったためじきに撤退を画策、昭和17年(1942)12月、 鮎川は満業総裁を退任し、満州から手を引いた。
昭和20年(1945)終戦を迎えると、日産コンツェルンはGHQにより十 大財閥に指定され、解体を命じられる。 >>13
グループAデビュー戦で当時ヨーロッパ絶対王者でヨーロッパでは無敗を誇っていたシエラをレース前半1/3で全車周回遅れにする日産スカイラインGT-R、その後4年間無敗、29連勝、乗っていたのはカルソニックスカイラインは日本一早い男星野一義さんやリーボックスカイラインは長谷見昌弘さんなどhttps://m.youtube.com/watch?v=gJAaqSmbJt4 >>15 >>13 鮎川義介の親戚フェアレディの父片山豊氏
片山 豊 1909(明治42)年9月、静岡県周智郡春野町(現・浜松市)に生まれる。慶應義塾大学在学中の1927年には、当時、生糸を米国向けに搬送していた高速船に助手として乗り込み、初渡米。アメリカを肌で体験したこの経験は、その後のキャリアに大いにプラスとなった。
1935年、日産自動車入社。総務部配属となり宣伝を担当。やみくもに車名を連呼する従来の宣伝とは一線を画し、クルマのあるライフスタイルを提案。その一方では時代を象徴するスターをCMキャラクターに起用したり、異業種とクルマのPRを融合させた、いまでいう“コラボレーション”を用い、日産をスマートにアピール。さらに、きたるべきモータリゼーションの時代に向け、自動車業界のメッセージを発信すべく、1954年には日本の自動車メーカーが足並みをそろえて開催の運びとなった『第1回全日本自動車ショウ』ではその推進役を務め、同ショウは50万人超の来場者を数える成功を収めた。
また、本格的な輸出を前にダットサン210型で“豪州一周ラリー”に挑み、クラス優勝の栄誉を日産にもたらし、DATSUNの名を世界に広めたのも片山さんだった。1960年からはアメリカ西海岸を拠点に米国日産の屋台骨を築き上げる一方、誰でも軽快な走りが楽しめる、フェアレディZのコンセプトをまとめ、稀代のスポーツカー誕生に大きな役割を果たした。 >>16
なかむらしかん
武田信玄では若き日の徳川家康役を演じておられた
足利将軍が中村勘九郎かな、のちの勘三郎
https://www.kabuki-bito.jp/news/6119/ >>16
なかむら しかん
襲名前の名前は橋之介
三田寛子の夫 昨日出てたオディーンが色々ぶっちゃけるヒトデ面白かったw ネタバレ
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銀行をつくるシーンは一秒もありません(´・ω・`) 栄一の妾、まだ1人しか出てないけどもっといるよね? 実際には井上馨の失脚に巻き込まれて一緒に辞職しているんだけどね 現代なら仕事が長続きしなく忍耐がないとすぐ不採用されそうだ フォーゼとトッキュウジャーでは2年位トッキュウジャーが後だな 裏の日美
フランス歴代君主が居城としたパリ郊外のフォンテーヌブロー宮殿 。
一昨年、幕末の日本美術が発見されました。徳川将軍が、ナポレオン3世に贈った豪華な美術品をレポートします。 どうでもいいけど、東京の人はもともと「にっぽん」なんて言いません
日本はにほんです
九州のいなかもんじゃないんだから MC「最大の悲劇ってなんですか?」
おディーン「モンクリというものすごく頑張ったドラマがあるんですが、
逮捕者が出たので再放送出来ないんです」 このドラマ本当にいいよな しょうもない幕末の志士
とかどうでもいい事ばっかっで! こうやって
日本を支えて 本当に日本にために働いた事が描かれてて
今のクソ政治家に見せてやりたいわ 九州の連中は韓国人よろしく鼻濁音が使えないからにほんと正しく発音できないで
しかもそれを法律で固めるとかいう愚をおかしてるけど
日本は正しくにほんです >>139
モンクリの逮捕者って誰だっけ
イトケン? 彡 ⌒ミ
(□ω□) テーマ音楽指揮 尾高忠明
(尾高惇忠の子孫) >>183
頭髪とメガネまで再現してんじゃないよww >>85
土スタで悲しかった事を聞かれて、モンクリで拷問受けて大変だったのに逮捕者出て放送できない事って言ってたw 西郷どんではちゃんと汚職を江藤新平らに責められて辞職してたけどね井上馨 大蔵省の序列
大蔵卿 大久保利通(洋行中)
大蔵大輔 井上馨
大蔵少輔 津田出
大蔵大丞 渋沢栄一 ヽ( ̄_  ̄ ) ヽ( ̄_  ̄ ) ヽ( ̄_  ̄ ) >>176
自分が嫌いだった偉そうな役人になってしまってるのが嫌 いいなあ
辞めても路頭に迷わないから気楽に辞められる人は(笑)
こんな半端者ども偉人でめ何でもねえじゃん 渋沢の支援者にはいつも三井がいて
三井の小間使いなイメージだけど違う? Hを発音できない人らは多い
フランス人もHを発音できないけど
でも日本はにほんです >>194
年寄りが侍や武士出ないと見ないから仕方ない。
朝ドラは戦中戦後をやらないとおばさんは見ないのと同じ ところでお前らが好きな大河の歴代ヒロインってだれ? >>176
政策無理やり進めるために商人に圧力かけてたらこれじゃ幕府と変わらん言われたから >>196
ありがとう
案外人間臭い情緒を持ってる人なんだなw
益々面白いわ >>216
最近は変に凝って少しおかしい
綾瀬の精霊の守りもそんな感じ さんざん税金を懐に入れてたので妾を養うこともでき、後先考えず官僚を止めることができた偉人 >>243
いない時におディーン様が配置されたことがある >>225
そこが決定打だろうけど
その前から違和感覚えてるシーンはあったね
ディーンに「そこでええのんか」って言われて返せなかったり ディーンフジオカはユースケ・サンタマリアみたいな戦略かね >>237
ゴリ押しキャスティング朝ドラか
まあ他もそうだけど 明治留守政府
太政大臣 三条実美
参議 西郷隆盛 板垣退助 大隈重信
大蔵大輔 井上馨
司法卿 江藤新平
文部卿 大木喬任
外務卿 副島種臣
兵部大輔 山県有朋
工部少輔 山尾庸三
左院議長 後藤象二郎 次回は11月か。
実業家になってからの話はあまりないな このドラマ 維新はいらん 明治の発展編をもちょっと長くやって欲しい 明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて5月に辞職した。
その時に渋沢栄一と連名で建議書を提出し、政府の財政感覚の乏しさを指摘した。 仕事できりゃヤリチンでもお札になれるのか。
稼いでセックスしまくって最高の人生だったな。 >>266
昔のユースケはふつうに演技できてたからなあ
ディーンは英語がほんの少し喋れるくらいしか取り柄がない >>261
見たわ
誰かの逮捕のせいで再放送できなくなったとか言ってた 吉沢は弁舌が鮮やかなんだな 何言ってるか分かりやすい でもまあ、金儲けしたかったんでしょ
綺麗事言ってるけど 無産国家が近代化に必要なことだっと
理解していたんだなぁ >>297
すっかり大河俳優に
津田健次郎も今季顔出しでドラマ出てるな
まあもともと役者だけど 両方というのは重要だね
どっちかが突出するとよくない >>261
土スタ おディーン で検索したら落ちてるかな >>305
再放送を観たいのに逮捕者で観られないの結構ある(´・ω・`) >>291
悪い役ばっかやってたけど本当に悪いやつだったとは >>205
薩長を悪者に描いてるのなにげに画期的ってそういえばそうかと >>313
一緒に演奏?参加できるのがまたいいよね 吉沢亮のドラマってこれしか見たことないけど、現代劇ではどんな感じなんだろう >>334
コナンでは佐藤刑事ほとんど出なくなったなあ はいはいはい、税金は上前ハネに過ぎなくて
なんらの国の安定でないという今に通じる話ですねwww >>205
戦国幕末と日本史苦手だけど明治時代もかぶっているからなんとかここまで来た
いだてんから観始めたけど、その前の西郷どんも観てみたくなった 民間は供給能力を提供し、国は福祉やライフラインと需要(国民の購買能力)を国債発行で提供する
この両立が経済 >>373
いわゆるスイーツ映画しかほとんど出たことなかったのに
アミューズは冒険したよな >>358
今では、好きな俳優さんができるたびに、祈りをささげることにしてる
「ああ神様、どうか大森南朋が悪いことしてませんように
仮に悪いことしてても、バレませんように…」 やり手wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 今日はたまたまなのかわかんないけどコメディチックだな >>354
NHKプラスなら見れる
受信料払ってれば無料 確かに有能な人材を敵に回すと恐ろしいから抱きこもうと >>430
西郷どんは原作が林真理子だから…
見なくていいと思うw 井上馨って旧奥羽列藩同盟に組した商人から不当にカネぶんどった罪で失脚してなかったっけ?
つか、それやらんの? 大豪邸なんだから見えないところに住まわせればいいのに >>412
>>437
そうなんだ いい方に転がったんだね ( ´・ω・)o彡゚ ガッポン!ガッポン! (・ω・`) この時代のにほんじんで関東の人はにっぽんにっぽん言いません
いなかもんじゃあるまいし
にほん、nihonです >>570
知ってるわ。
一緒に住んでるんだから。 BSだとこの後が雲霧仁左衛門の再放送でイッセーはそっちの方でも悪徳商人役で出てくる そもそも三井の銀行を無理矢理国立銀行にしたくせにな 土曜スタジオパークでおディーンが嫌いみたいな表情してインタビュー受けてたイッセー尾形 みずほ銀行キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! 官僚辞めても権力は握ってる…政治家にでもなれ。まだ早いか >>509
ウキウキウェイクミーアップ
クラブトロピカーナドリンクスアーフリー ボッキキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !! >>609
好きそうだったけどな
興味ありげだった
薩摩言葉も褒めてたし >>570
認めて一緒に住めば?と言ったあと一人になってクソデカため息ついてた 下手すりゃみずほ解体されかねん今を見たらどう思うか。 簿記2級ぎりぎりとったけど
すっかり忘れてるな
特に工業簿記は >>570
当時は今みたいに不倫でフルボッコにされる時代ではないので >>570
前回頭に妾が妊娠して栄一が家に連れてきた >>691
三井リハウス接収したの( ´゚д゚`) >>526
井上は広沢真臣暗殺にもかかわってるって噂が絶えなかったりで
ダーティなイメージが強すぎだわな >>570
知ってて生まれる子供と一緒に住めといった 公人としては偉人だけど
私人としては凡人未満だよね
不倫しただけじゃ飽き足らず子供まで産ませ挙句に一緒に住むとかどうなってんのさいてー(´・ω・`) 三菱銀行→三菱東京UFJ銀行
第一勧銀+富士銀行→みずほ
三井銀行→消息不明 合本ってのは資本主義より公益を重視するって考えか
放っといたらそうはならないな >>759
埼玉りそなの元になった銀行たちはほぼ皆、立ち上げに渋沢が関係してるよ これ二人必用だよね
二倍以上早くなきゃ意味ないだろ 鉄道省統計係の読み上げ算とかバケモノみたいな速さだしな 読み上げの補助はずっこくない?
自分でめくって見てそろばんしないと ものいいキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!! >>768
西洋数学の迅速な受け入れの土台になったんやで そろばん頭の中で弾けるようになれば紙とペンすら要らないしね 5桁なら簡単だな
小学生大会では兆単位までは通常だからw これ実際にあったこと?
そろばんって弾いてる人が計算出来ないと無理だよね? >>752
アバカスというそろばんみたいな計算器はあったけど広くは使われていない
19世紀後半には機械式計算器も作られてはいるけど >>895
借方貸方で勘定が分かるのと、必ず双方の額が一致する なお、21世紀現在みずほ銀行になっても同じことやってます このスレッドは1000を超えました。
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