青天を衝け(32)「栄一、銀行を作る」★4
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栄一(吉沢亮)は政府を辞め、第一国立銀行の総監役として、新たな道を歩み始める。開業後、駆けつけた五代友厚(ディーン・フジオカ)は、“商いは化け物”、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)していると栄一に助言する。その頃、岩崎弥太郎(中村芝翫)は、大蔵卿の大隈重信(大倉孝二)と結びつきを強め、海運業で急成長していた。そんな中、ゑい(和久井映見)が体調を崩し、栄一のもとに身を寄せる…。
【出演】吉沢亮,高良健吾,橋本愛,田辺誠一,村川絵梨,大倉孝二,志尊淳,福士誠治,ディーン・フジオカ,石丸幹二,山内圭哉,小倉久寛,遠山俊也,川栄李奈,木村佳乃,和久井映見,イッセー尾形,中村芝翫ほか
【作】大森美香
【音楽】佐藤直紀
前スレ
青天を衝け(32)「栄一、銀行を作る」★3
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1635074566/ 予告からいたのに出てくるの最後の5分とか笑えるな岩崎ぃ 僕も職場の女の子と
関係を持ちまくりたいです(>_<) 芝翫さん、弥太郎の実際の写真に似すぎ
さすがの貫禄だし >>1
乙かれ
この三菱が今は戦車を作っているという因果 来週のあらすじ貼っておきますね。
10/31(日)19:10〜19:55
青天を衝(つ)け(33)「論語と算盤(そろばん)」
小野組が放漫経営で倒産し、多額の貸しつけをしていた第一国立銀行も、連鎖倒産の危機に陥る。さらに駒(門脇麦)は、この機に乗じて第一国立銀行の乗っ取りを目論(ろ)む。銀行を守るため、栄一(吉沢亮)は、駒との一世一代の大勝負に出る。一方、喜作(高良健吾)は、横浜の外国商人が日本の主要輸出品である芳仁丸(ほうじんがん)の値崩れを狙い、買い控えしていることに憤慨し、栄一に助けを求める…。
【出演】吉沢亮,高良健吾,橋本愛,田辺誠一,大倉孝二,山崎育三郎,ディーン・フジオカ,朝倉あき,石丸幹二,博多華丸,小倉久寛,池内万作,遠山俊也,川栄李奈,木村佳乃,草g剛,門脇麦,中村芝翫ほか なんで土佐出身の岩崎が成り上がったんだろうな
長州出身の方が有利なのに 三菱に対する愛情だよ
NHK的には
龍馬伝の時もそうだった 選挙verキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !! 半沢直樹みたいな展開キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!! 純情きらりを夕方に再放送していたのは
青天を衝けとおかえりモネの宣伝の為だと気付いた 悪い顔してる大隈も西郷大久保が死んだ後で伊藤に政府を追い出されるけどな 三菱は岩崎がいろは丸の賠償金をくすねて作ったってのは本当なのかね? 三菱って基本的にクソだよな
三菱一号館の建物の経緯見てもすぐわかるけど あれ、先週のスレの予告だと、駒が出てくるはずだったけど? NHKって三菱に恨みあるのか? 龍馬伝でも弥太郎クソだったよな 伝説の刺客達
あいつとあいつは楽に殺せた、でもそのせいで名が残るとはなんとも皮肉なものだ 男性諸氏はこういうドラマを見ていて
「俺もこの時代だったらいっちょのし上がったのに」とか思うのかなあ >>133
そらベッタリやで
世界大戦まで活躍するで 林田ちゃん、今日はイントネーションはわりとまともだな >>52
叫んで土下座させて勧善懲悪だから意外と嵌まるな 正直渋沢とかより岩崎弥太郎の方がよほどキャラが立っていてドラマで描いて面白い なんだよ 明治になってからもめちゃめちゃ面白いじゃんかー
来年もやってくれ >>126
ナレーション以外は何でもできる才女だぞ あまりに上手すぎるために逆に下手くそに聞こえてしまうというリンダのナレ やはり今回の大河は良いなぁ
家庭のゴタゴタこのくらいは必要悪で目を瞑れるわ 第8回 絵図で辿る三大洋風建築 「第一国立銀行」(下) | アーカイブス - 清水建設 https://www.shimz.co.jp/heritage/column/report/08.html
日本橋兜町4丁目、みずほ銀行ビルの外壁に「銀行発祥の地」と記された銅板を見ることができます。まさしくここが、1873(明治6)年創業の第一国立銀行の発祥地です。
築地ホテル館よりさらに大胆な和洋折衷の意匠は、人々の注目を集め、神社と間違えて“さい銭”を供える見物人も多かったと伝えられています。
斬新で豪壮! 木造5階建て、延床面積約1,295m2、旗竿の先端までの高さが26m、総工費は約4万7,600両。1872(明治5)年に開業した新橋停車場の総工費(約2万2,100両)と比較しても、いかに豪壮な建物であったかがうかがえます。
建物の一番の特徴は、何と言っても、洋風建築に伝統的な城郭建築を組み合わせたその斬新な意匠です。
ベランダの漆喰彫刻(鏝絵/こてえ)、建物最上階の八角の塔屋、石張りされた外壁など、洋と和が美しく調和したデザインに、二代喜助の確かな腕を見ることができます。
しかし、着工に至るまでには5案もの図面を書き直し、文明開化にふさわしい、今までにない建物を造るために腐心を重ねていたのでした。
渋沢栄一に指導を仰ぐ 第一国立銀行の初代頭取である渋沢栄一は、『日本最初の銀行建築』と題し、「当時のこと銀行建築のことは知ろう筈もない。実物を見たことももちろんない。(中略)とにかく清水一個の頭から絞り出し建てた。
出来上がったものを今日から見れば、或いは抱腹すべきものであるかもわからぬが、当時にあっては我が国におけるもっとも最初の、そして他に類のない銀行建築である」と高く評しています。(『建築世界』第9巻第4号特別号/1915(大正4)年4月発行)
日本資本主義の父と言われる渋沢と喜助の出会いは、この第一国立銀行建設のころ。当社はその後、渋沢が亡くなる1931(昭和6)年まで、60年という長い歳月にわたり、経営上の指導を仰ぐことになります。 小野組の番頭が古川市兵衛
小野組が破綻後、独立して鉱山経営を初めて多角化して古河電気工業になっていく >>203
TBSでこれから日本と一緒に沈没すっから! これ、三菱がまた怒るんじゃねw
龍馬伝の時みたいに ニダ━━━━━━<丶`∀´>━━━━━━!!!! これから明治の大河も増えるかな
明治天皇やってくれ 第一銀行→みずほ銀行
三井銀行→三井銀行
三菱銀行→三菱銀行 【次回予告】 青天を衝(つ)け(33)「論語と算盤(そろばん)」
小野組が放漫経営で倒産し、多額の貸しつけをしていた第一国立銀行も、連鎖倒産の危機に陥る。さらに三野村利左衛門(イッセー尾形)は、望月東庵(堺正章)とこの機に乗じて第一国立銀行の乗っ取りを目論(ろ)む。銀行を守るため、栄一(吉沢亮)は、三野村との一世一代の大勝負に出るため、伊呂波太夫(尾野真千子)に助けを求める。一方、喜作(高良健吾)は、横浜の外国商人が日本の主要輸出品である蚕卵紙(さんらんし)の値崩れを狙い、買い控えしていることに憤慨し、駒(門脇麦)に助けを求める…。 >>133
単なる犬と違うよ
飼い主を食い物にする犬 こんな大物になってたんだったら、そら妾くらいいるわw >>59
しかし明治編になってから毎回ちょっとしか出ないのに確実に視聴者にインパクト残すなおでん様は >>210
そもそも井上、渋沢ラインも相当あくどいんだけどね >>177
俺は全くならんね
むしろ即、病で死んでるかなとか思う 弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、
各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、
10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、
それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、
今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。 大阪の証券取引所ビルには五代さまの銅像が立ってますね >>238
高度すぎてそのツッコミ、意味がわからん そしてどっかの商社のおぼっちゃま青井アナウンサーである >>313
NHKはハングル出来ないと出世できない >>245
砲身にのせたグラスからワインがこぼれません(´・ω・`) >>258 八芳園は渋沢喜作邸だった
八芳園の歴史 https://www.happo-en.com/history/
東京白金台の自然の丘陵と小川跡を利用してつくられた八芳園は、樹齢数百年の樹木や渡り鳥の姿等を見ることのできる由緒ある日本庭園です。
いま八芳園のある白金台は、江戸時代初期には、徳川家康の側臣の一人、大久保彦左衛門の屋敷であったと言われています
そして明治の末にはいまの八芳園の地を実業家渋沢喜作(1838〜1912年)が所有し、老居の地と考え居を構えました。
その後、白金台がにぎわいをみせる様になり、騒がしくなったと、1915(大正4年)、喜作はここを売りに出します。 そこに目をつけたのが当時、実業界に世人瞠目の手腕を振るっていた久原房之助です。
日立製作所などの基礎を築いた久原房之助は、第一次大戦後、一躍新興財閥に仲間入りし、後に政界に進出すると政友会の中枢にあって表裏に活躍しました。
庭内に足を運んだ久原は一目でそこを気に入り、購入を即決しました。久原は後にこの地を踏んだ理由について、「あの松一本に惹かれたのだよ」と語っています。 >>289
三井銀行→三井住友銀行
三菱銀行→UFJ三菱銀行 男はちょんまげをほとんどやめたのに女は相変わらずみんな日本髪のままだね 渋沢栄一って官に3年ちょっといただけなのに、銀行設立できるだけの信用と資金をどうやって集めたんだろうな
そこら辺がいまいち描かれてないよな >>304
むしろ貧困にあえぐ女性を救う英雄でしかない
校長みたいなもんや >>336
久原の言う松とは、かつて大久保彦左衛門が将軍家康から見舞いとして授かり、後に地におろしたと伝わる、あの樹齢400年を超える老松です。
久原はことのほかこの松を愛し、写真を撮る時などしばしばこの松を背にしたと言います >>316
シュッとしたイメージなのにな。だいぶ作り上げてきたな >>290
麒麟「なんやこの国…まだ戦争が終わっとらんがな…」(プイッ 面白くなってはいるけど大河としては異色かな
大失敗した韋駄天よりは大河よりだけど 三菱って実質は海援隊だから、新政府に尽くすのは当たり前と言えば当たり前だよな >>324
結局、国内の東西対立が現代まで続いているという 和久井が肝っ玉かあさんの京塚昌子みたいになっててワロタ (;∀; ) >>339
東京銀行「俺どこにいったの(´・ω・`)?」 この時期薩摩は西郷さん所に不平武士が集まって来ている頃? >>232
でも新政府に大久保が居なかったらマジでタリバンと同列になる >>349 春光懇話会久原翁と鮎川翁 - 春光懇話会 http://www.shunko.jp/shunko/enkaku/enkaku.html
二人の経営者と「日産」のはじまり 1905年〜
私たち春光グループのルーツを辿れば1905年(明38)にまでさかのぼります。創始者・久原房之助は同年、久原鉱業を設立し、日立鉱山の経営に着手します。
その後急成長し、事業の多角化に乗り出します。日立製作所、日本汽船、大阪鉄工所、合同肥料などの数多くの会社経営を手がけ、コンツェルン形態へと発展させていきます。
しかし、第一次世界大戦後の慢性不況により、経営不振に陥ります。そこで、1928年(昭3)、久原鉱業の再建を同郷出身で義兄の鮎川義介に託します。鮎川は親戚などからの資金援助を受けて危機を凌ぐと共に、久原鉱業を持株会社に改組し、持株会社自体の株式を公開しました。 当時、持株会社の株式公開は画期的な考え方でした。
また、社名を日本産業株式会社に改め、通称「日産」と呼びました。これが「日産」のはじまりです。 春光懇話会は永年「日産懇話会」の名称で親しまれてきましたが、「日産」の由来はここにあります。 >>177
明治は大変だよ
貧困で苦しむのが関の山 >>321
インサイダーは栄一も一緒やからねえ
当時は当然の利権だったんやろ >>344
それが国民望む結果だから仕方ない。株価下落は、回り回り自分達の給料や年金関わるのにな。 >>315
ボクの友達もみんな三菱から引き揚げますよ
上流階級の面々が300人くらいいるけど >>339
太陽神戸銀行「おれ消えちゃんた(´・ω・`)」 >>321
弥太郎「だって土佐藩の莫大な負債押し付けられてるし、手段なんか選んでおれんわ」 >>343
当時は洋装の外人も似たような結い上げだしな >>289
第一銀行(都銀)+日本勧業銀行(地銀)
=第一勧銀 >>371
出ていって不平武士集めてるって今日言ってただろ 前スレ834
隆大介が江藤新平をやったのは大河の何だっけ?
回答
翔ぶが如く
サンクス >>323
渋沢栄一のはビルの奥の誰も気づかないとこ
なんで? >>359
弥太郎って龍馬がやろうとした事業乗っ取るのに
後藤象二郎と組んで暗殺したと思ってるわ >>289
見事に分かれたね
三菱・鴻池・川崎・山口…三菱UFJ
三井・住友…三井住友
渋沢・安田…みずほ >>376
安田銀行→富士銀行→みずほ銀行
だっけ? >>378
その功績?で付属の高校佐賀にあるもんな 創業者の一人が泣いてますわよみずほさん…
しかもよりによって青天を衝けやってる間に何回やらかしてるのやら >>370
東京付くのダサいから消しました。by三菱UFJ >>357
青天の成功で大河の幅が広がったのは確実
ただこれと同じレベルが作れるかは分からんね 最初に勤めた会社が三菱資本で、上司が三菱銀行の元支店長だったわ。すまん。 青天の元主人公枠は欣也、竹中、芝翫(橋之助)の3人かな
秀吉や毛利元就好きで毎週見てたから感慨深いわ >>391
今週で栄一の人間関係にかたついたから
来週はがっつり経済パートや >>370
何年か前に消えてしまった(´・ω・`)
東京三菱
↓
三菱東京UFJ
↓
三菱UFJ ←now >>412
近代物は、昔、沢田研二の出てた奴で失敗してた気がする >>354
明治維新を推進した薩長土肥の肥前を引っ張った。
英語の能力で幕末、明治のイギリスとの交渉で活躍した 林田理沙アナウンサーのナレーションで穏やかな気持ちで番組鑑賞を終える事が出来る >>412
花神のオリジナルビデオ発掘してくれよ
総集編しか残ってないなんてあんまりだ >>420
ワイのメインバンク浜銀だろ? ホームページのURLは胡散臭いが 財閥は三井・三菱・住友が残ったか
あとは銀行でないので知名度が低いが古河と安田 >>343
ほぼ全員洋装になるのは太平洋戦争後だし >>420
三菱UFJ系なのに東京クレジットサービスがVJA系のカード発行し続けてるね >>383
都市銀行の太陽銀行、神戸銀行そして太陽神戸銀行は大蔵省の天下りが頭取をしていたが、
三井銀行と一緒になり、太陽神戸銀行の頭取になっていた大蔵省出身よ松下康雄氏が太陽神戸三井銀行の初代頭取に、
その後さくら銀行の頭取は京都大学から神戸銀行へ入行した橋下俊作頭取で、
久々のプロパーの頭取に、
その後三井銀行出身の岡田頭取、で三井住友銀行に ワイは大和銀行と三菱銀行持っててUFJと三菱が
合併して同じ会社の口座2つになった >>433 鮎川 義 介 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/017aikawa.pdf
その手法は、自社に有利な比率 での自社株式と既存企業株式の交換による吸収合併という形で進められ、 合併後はその企業と事業内容を整理統合し、子会社として分離独立させる というものだった。
この一連の事業展開により、日本産業はさまざまな業 種の会社を傘下に収め、
昭和12年(1937)頃には三井、三菱に次ぐ事業規 模の企業集団に成長した。
また昭和8年(1933)には、念願であった自動車生産事業に乗り出す。 鮎川は、鋳物で舶用小型発動機のような小さいものばかり造っていたので は発展がない、自動車エンジンを主体として自動車関係にと、早いうちか ら自動車工業の将来性を見越しており、戸畑鋳物が軌道に乗る頃から、自 動車部品関連の会社を買収するという準備をはじめていた。
昭和12年(1937)満州国政府と関東軍の要請により、日本産業は本社を 満州国首都・新京に移転し、社名を満州重工業開発株式会社(満業)と改 め、満州産業開発五ヵ年計画の遂行機関となる。
しかし、当初の構想通り には開発が実現しなかったためじきに撤退を画策、昭和17年(1942)12月、 鮎川は満業総裁を退任し、満州から手を引いた。
昭和20年(1945)終戦を迎えると、日産コンツェルンはGHQにより十 大財閥に指定され、解体を命じられる。 明治大正昭和初期とファッションは和洋折衷ですごい面白いものが多かったのに
太平洋戦争でみんな途切れてしまったって美輪明宏が言ってたな >>433
古河銀行は第一銀行、古河財閥の古河三水会は小野組の手代とかやってた人が作った財閥で第一銀行の融資系列、
川崎重工とかJFEの川崎財閥の銀行も実質第一銀行の融資系列、
その後三菱とのダンピング競争で渋沢栄一と出てくる浅野総一郎の浅野財閥、元は横浜の氷屋さんかアイスクリーム屋さん、コークスから渋沢栄一に認められ日本鋼管やJマリンユナイテッドなど
財閥はなくほとんど国営企業になった高島嘉右衛門など、京浜東北線や日本鉄道、北海道炭鉱鉄道、北海道炭鉱汽船、日本製鋼、輪西製鉄、日本製鉄など今のJR東海、JR東日本
浅野総一郎は安田財閥とともに京浜工業地帯をつくる
鶴見線に浅野駅、安善駅、白石駅、海芝浦駅などがある、白石は日本鋼管の社長
JR東日本浅野駅https://www.jreast.co.jp/estation/stations/49.html 三菱R T M商事 元金商又一
金商は三菱商事が、戦後解体された時の金属部門の一社で、荻窪のエンジン工場富士精密工業が石川島播磨の立川飛行機のプリンス自動車と一緒になって太田の事業所などスバルとは別行動になったのと同じように、金商として独自路線
又一は船場八社の一角、竹村は竹村帝商と帝人系列その後日商岩井の繊維部門と一緒になりNI帝人商事
田附などは関西五綿のニチメンなど
関西五綿は丸紅、伊藤忠、江商(兼松)、ニチメン(日商岩井、双日)、トーメン(豊田通商)
https://www.mitsubishicorprtm.com/japan/corporate/ >>433
忘れちゃいけない鈴木商店系列
日商岩井、双日、神戸製鋼所、石川島播磨IHI、サッポロビール、日本発条、ダイセル、日油、昭和シェル石油
三井三菱と並ぶか、それとも並ばざるか
http://www.suzukishoten-museum.com/ >>433 >>457 http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat2/cat3/
日本一の総合商社へ〜天下三分の宣誓書
三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか・・・
第一次世界大戦による大戦景気を見越し、一斉買い出動を敢行した鈴木商店は、莫大な利益をあげた。
大正5(1916)年には、後藤新平と金子直吉を結びつけ、後藤勝造が経営するみかどホテルを買収し、鈴木商店本店とした。当時、コロニアル風の瀟洒なる建物は鈴木商店躍進の象徴となった。
大正6(1917)年の売上高は15億4,000万円に達し、三井物産の10億9,500万円を大きく凌いで文字通り日本一の大商社に躍り出た。さらに大正7(1918)年の絶頂期の売上は16億円を超え、国内外の陣容においても三井に引けをとらない質・量ともに「総合商社の源流」と呼ぶに相応しい態勢が整った。
これに先立つ大正4(1915)年秋、金子直吉はロンドン支店長の高畑誠一、小林、小川実三郎の3人の駐在員宛に長文・墨痕あざやかな書状を送り、「・・・この戦乱(第一次世界大戦)を利用し大儲けをなし、三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり。・・・」と大号令を発した。
この金子の檄文には、金子の経営戦略が溢れるばかりの気迫と自信に満ちた文章の中に記され、後に鈴木商店関係者の間で「天下三分の宣誓書」と呼ばれるようになった。
中国の明代に書かれた後漢末・三国時代を舞台とする時代小説「三国志演義」の中で、諸葛孔明が劉備玄徳に進言した「天下三分の計」を思い浮かべながら、金子が自分の後継者にと心に秘めている勝負師・高畑に並々ならぬ決意を披歴したもの。当時、金子49歳、高畑28歳であった。
この手紙は、永く高畑が家宝として手元に置いていたが、現在は鈴木商店系の太陽鉱工が保管するところとなり、神戸市立博物館に鈴木商店ゆかりの品とともに寄託されている。 >>458 日商(現・双日)の歴史F http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat/cat3/post-132.php 戦後も生きる鈴木商店人脈
昭和25(1950)年に、商社マンの海外出張が解禁されると、高畑誠一は真っ先にインドのタタを訪問し、銑鉄の輸入を再開させる。昭和26(1951)年には、高畑自ら交渉し、民間貿易再開後初の輸出船舶の仲介、昭和27(1932)年に戦後初のニューカレドニアからのニッケル鉱石の輸入、昭和31(1956)年に日本初の鉄道輸出等を成功させた。
戦後、旧鈴木商店系の企業が結束し、高畑の人脈が活かされたのが、FAPIG(第一原子力産業グループ)の結成である。
昭和30(1955)年の鈴和会(旧鈴木・主力企業の親睦会)において高畑は神戸製鋼所の浅田長平社長に原子力に取り組むための旧鈴木を中心としたグループを結成できないかと意見を求め、非財閥系の重電機メーカーである富士電機の協力が必要ということになった。
高畑の神戸高商時代の同期には永井幸太郎、出光佐三(出光興産店主)、和田恒輔(富士電機・富士通社長)がいて、「1年間夕食をスキ焼きとする(=スキ焼を食べ続ける)」と約束するほどの仲であったため、高畑は和田恒輔と相談し話が進んだ。そして富士電機は古河系ということもあり、同グループの富士通信機、古河電工、古河鉱業、旭電化、日本軽金属、横浜ゴム、神戸工業が参加。
そして松方幸次郎が生み出した川崎系である川崎重工業、川崎製鉄、川崎航空機も本グループに合流する。更に旧鈴木、川崎、古河系の主力銀行は第一銀行であったため、同銀行も加わり合計16社で第一原子力産業グループ(FAPIG)が昭和31(1956)年に結成され、そして現在に至っている。
昭和34(1959)年、日本原子力発電株式会社はFAPIGと東海発電所建設に関して単独交渉権を獲得し、日本で初めて建設する原子力発電所はFAPIGが推す発電所が採用された。
高畑は、戦後の日商の飛躍のために新たな人材を求め、母校の神戸高商(当時、神戸経済大学)を首席で卒業した海部八郎をスカウト。金子直吉の再来を期待したともいわれている。 >>433 >>459 【鈴木商店】日本一の総合商社に | 双日歴史館 https://www.sojitz.com/history/jp/era/post-21.php
明治・大正の産業革命期【鈴木商店】日本一の総合商社に
鈴木商店の絶頂期を象徴する「天下三分の宣言書」
第一次世界大戦が勃発すると、金子直吉は戦争の長期化による物資の不足と物価の高騰を予測、一大投機に打って出る。
"BUY ANY STEEL, ANY QUANTITY, AT ANY PRICE"(鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ)との大号令を発信。その後、物価は金子の予想どおり急騰し、鈴木商店は巨額の富を得る。
ロンドン支店長の高畑誠一は連合国に大量の船舶、食料、鉄材などを供給し、スエズ運河を渡る船の1割は鈴木の船だといわれた。高畑は「大英帝国といえども一介の客にすぎない」と強気のビジネスを展開し、英・チャーチル海軍大臣(後の首相)からは「カイゼルを商人にしたような男だ」と恐れられた。
こうして大正6(1917)年に、鈴木商店の売上高はGNPの1割に相当する15億円を記録、
日本一の総合商社となった。金子直吉はロンドン店の高畑に、「三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり」との書簡を送った。これは「天下三分の宣言書」と呼ばれ、鈴木商店絶頂期を象徴するものとして知られている。
高畑誠一の故郷である愛媛県内子町には、「貿易会先覚者」としての功績を称えた高畑の石碑、胸像などが建てられている。 陣内孝則、愛し合ってるかい〜の和久井映見、三和銀行のイメージキャラクター
https://m.youtube.com/watch?v=wYkdEuvHDUI
大和銀行は野村財閥、野村銀行、野村銀行の証券部門が野村證券、
三和銀行は三十四銀行、鴻池銀行、山口銀行で山口銀行は大阪の金融財閥の山口財閥、三十四銀行は大日本紡績ユニチカや日本綿花日綿實業ニチメンなどが融資系列でイトへん繊維に強かった、鴻池は江戸時代淀屋が倉吉に行ってから日本一の豪商に三井三菱と並ぶ明治時代の三大豪商とも言われていた
DOWAホールディングスの藤田財閥は三井三菱と並ぶ財閥と呼ばれていた、久原房之助の久原財閥、日産財閥へと連なる、JX金属、新日本鉱業、日立製作所、日産化学、日産自動車、など
その他秋田の本間家など本間美術館など 簿記のインストラクターはアンビリバボーの再現ドラマとかによく出る人か ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています