【マターリ】鎌倉殿の13人(26)「悲しむ前に」★2
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源頼朝(大泉洋)の容体を心配する政子(小池栄子)。安達盛長(野添義弘)が涙に暮れる中、義時(小栗旬)は先を見据え、大江広元(栗原英雄)らと頼朝の嫡男・頼家(金子大地)を次の鎌倉殿とする新体制作りを始める。しかし、比企能員(佐藤二朗)の力が増すことを嫌うりく(宮沢りえ)が、夫・北条時政(坂東彌十郎)をたきつけてこの流れに対抗。鎌倉に不穏な空気が流れる中、狩りから戻り父・頼朝の容体を知らされた頼家は…
【出演】小栗旬,小池栄子,坂口健太郎,瀬戸康史,堀田真由,中川大志,山本耕史,市原隼人,中村獅童,金子大地,佐藤二朗,坂東彌十郎,宮沢りえ,大泉洋,【語り】長澤まさみ
【作】三谷幸喜
【マターリ】鎌倉殿の13人(26)「悲しむ前に」★1
https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/livenhk/1656845303/ >>337
来週の4作なら、個人的には同じく地球から来た男が好き >>334
後北条時代も関東敵対してても鎌倉造営には金出さんと行けない空気なんだよな >>383
おれはこれからもアウー使いよ!( ´・ω・`) >>343
実朝は武芸に全く興味なかったけど
治世は割と真面目にやってたらしいぞ 小田原の北条は秀吉に滅ぼされるまで大きな戦乱もなく安定した治世を送ってたからドラマにしにくくて大河にならんって聞いたことあるな >>377
やっぱりしょーもないヒューマンエラーが原因か >>343
周りが強欲すぎたんだろう
または幕府政権出来たてでスキが多かったのか >>367
いや父親が時政だから政子
武士の諱の付け方は
男の場合は一族の通字(北条家の場合は「時」)+嘉字(良い意味を持つ漢字)
女の場合は父親の嘉字+子 あの小さな仏像は何の暗喩なのかがよく分からないんだけど ※今後の主な粛清リスト
梶原景時(中村獅童):1199年失脚・族滅(梶原景時の変)
三浦義澄(佐藤B作):梶原景時の死の三日後に病死
安達盛長(野添義弘):安達氏の祖、1200年病死
比企能員(佐藤二朗):1203年謀殺(比企能員の変)
畠山重忠(中川大志):1205年、北条時政の策謀により北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされる(畠山重忠の乱)
北条時政(坂東彌十郎):初代執権、1205年追放(牧氏事件)
和田義盛(横田栄司):1213年滅亡(和田合戦)
三浦義村(山本耕史):1239年12月31日死去。京の人々は後鳥羽上皇の怨霊の仕業であると噂したという。 >>398
縁組みやらなんやらで、近くの戦国大名とは同盟関係だったからな >>398
山内上杉家とか関東管領時代のわかりにくい頃やってほしい >>405
早雲は自分では北条名乗ってないんじゃなかったっけ? >>398
ちょっとずつ拡大してはいたんだけど。だから結構な領土になったんだけどね
氏康より後の時代で大きい戦いって、負け戦だからなぁ… >>407
大泉洋が肌見離さず持ってたからその思いを告げみたいなので意味では? これは何ですか?
が重要なセリフになるとは予想出来なかった >>408
後鳥羽の大群→追放が一番ザマアになるかなぁ >>405
パトレイバーとか描いてたゆうきまさみが今早雲の若い頃からの漫画描いてるけど読んでて思うけど、応仁の乱ってわからん人にはよく分からんだろうな
始まりは単純なのに途中から誰が敵で誰が味方かなんで戦ってんのかわけわからん感じになって、ほんと分かりづらいのもあの辺りドラマにしにくいんだろうね >>416
そろそろ死んだ事にしとかないと怪しまれるからな >>398
全然安定してなかったぞw
小大名や国人領主が北条に付いたり里見や佐竹、上杉に付いたりと領地が頻繁に変わるから民からしたら修羅の国。
上杉謙信の小田原攻めした時は関東の民を大量に奴隷として越後に攫って行き商人に売り払って利益を得た。 >>418
古河公方は江戸時代まで残って喜連川家を名乗ってからがさらに分からん >>414
そういうことでいいのか
真の鎌倉殿はあなたよと伝える政子とそれを強く握りしめる義時ってことなんかな >>424
うわマジで!
勝手になんか滅んでた扱いしてたわ… >>420
今までの感覚だと京都全体的が火の海になってたイメージだったけど、けっこう小規模な小競り合いの連続で見せ場作るのは大変そうではあるw >>310
それでいいと思うけどそれなら司馬遼太郎の竜馬が
持ち上げられてるのも創作としてええやろとは思う >>371
ファミリーと鎌倉のため…似たようなもんか 後鳥羽上皇が隠岐島に流されて、次回最終回くらいかな >>285
お家の為に実の父を追放したよ
殺さないだけ優しい ー日本は法律の国だったー
(604年)聖徳太子が十七条の憲法を定める (飛鳥時代)
(689年)「浄御原令」(きよみのはらりょう)ができる (飛鳥時代)
(701年)「大宝律令」がこの頃できる (飛鳥時代)
(718年)「養老律令」ができる(奈良時代)
(869年)「貞観格式」ができる(平安時代)
(820年)「弘仁格式」(こうにんきゃくしき)ができる(平安時代)
(927年)「延喜格式」(えんぎきゃくしき)ができる (平安時代)
(1232年)「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)ができる (鎌倉時代) >>418
>>424
関東を支配するために鎌倉に総督として京より派遣されたのが鎌倉公方、その参謀格が関東管領。
6代将軍・義政が自分の弟を新たな関東の公方として伊豆・堀越に派遣(堀越公方)、元の鎌倉公方は古河に遂われる(古河公方)。
4代古河公方・晴氏の叔父・義明が上総武田家を牛耳り小弓城を本拠にしたことから小弓公方を称す。この小弓公方の末裔が後の喜連川家。 >>433
1336年 建武式目 足利尊氏も追加で ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています